第三章

第12話 無慚の事

 おいでやす、と。

 声音柔らかいふなに迎えられた岡部と惣兵衛は、勝手知ったる店奥の席へ上がり込む。一同がまだ若者衆であったころより、この女主人にはよく世話になった。血気盛る若者たちが小さなことで喧嘩をするたび、この店がお白州代わりになったものだった。

 無慚がこの町を出てからは二人も自然と足が遠ざかり、惣兵衛に至ってはおよそ数年ぶりの来店である。十年前より多くシワを刻んだふなの顔。しかしふたりにとってはあの日と違わぬ母同然の顔。

 惣兵衛は感極まって「おふなさん」と老いた女主人の肩を抱いた。ふなはいややわ、とわらう。

「惣兵衛はんかェ、ずいぶん立派んなって。たいして遠くもないのにねえ。なんやえらい久しぶりになってもたなあ」

「やっぱり店継いだらなかなか来られへんもんやな。元気やてうわさは聞いてはったけども、顔見さしてもろて安心したわ。ホンマに元気そうで」

「そっちの同心さまも」ふなはにんまりと岡部に笑みを向けた。

「お客として来るんはおんなしくらい久しぶりなんちゃう? おふなは嬉しおす」

「ここは良い情報筋になる。とくにおふなどのは髪結に負けず劣らぬの目先っぷりで──頭が上がらんな」

「やァねえ。お奉行さんのために客商売やらしてもろうてるわけやないですよ。そんなん聞かれたらお客はんに愛想つかされますわ」

「いや失敬。言い方がわるかった」

「ホンマ曾良はん、同心さまになっても口下手なんは相変わらずやね。ほんでも今日は客として来てんのやろ。なんにする?」

 惣兵衛と岡部は顔を見合わせた。

 おふなの店に来たら、汁粉を食わずしてなんとする。そんな若い頃の語らいを思い出し、惣兵衛はニヤケながら汁粉をふたつ所望した。

「それとおふなさん、無慚は今日ここ来た?」

「へえ来はりましたよ。三郎治はんとこいとちゃんと。昼くらいに出ていかはったわ」

「──さぶろうじとこいとちゃん」岡部は首をかしげる。

 それに対し、惣兵衛はホラと指をたてた。

「三郎治いうたら、野田村治郎吉方の三男坊やな。こいとちゃんいうたら本間米屋の娘っこか。意外な面子やけど……いまも一緒にいてるかな」

「どこに行ったか知っとるか、おふなどの」

「さあ。野田村の弥市云々言うてはったけど、待ってたら戻ってくるんちゃう? あの子にまともな出したはるんはうちくらいやろうからねえ」

「…………」

 惣兵衛は苦笑した。


 三郎治とこいとが店に来たのは、それからまもなくのこと。三郎治はかつてよくしてくれた兄貴分との再会に頬を綻ばせた。惣兵衛とは、彼の営む小料理屋へちょくちょく行くそうで、そう遠い仲でもないとか。

 対してこいとは、どちらとも面識はない。緊張に顔を強ばらせて深々と辞儀をした。

 三郎治がふふっとわらう。

「そう怖がらんでええよ、こいとちゃん。こん人らは無慚の兄貴のお仲間や」

「無慚さまのお仲間──」

 こいとの顔はますます怪訝に歪んだ。

 無慚の仲間と聞いて、そうか良かったと胸を撫で下ろすのは三郎治や弥市ら若者くらいのもので、この町の人間は無慚に肩入れする人間のことすらよくは思わぬ。

 その事情は惣兵衛もよく知っている。

「本間の娘やったら、まあこうなるやろなァ」

「ひときわ無慚への風当たりも強い御仁やったからな。無理もあるまい」

「あの──」こいとは一同を見回した。

「皆さまが言うたはるんは、やっぱり十年前の云々のことでっしゃろか」

 ああ、と惣兵衛がうなずく。

 あの、とこいとはふたたび言った。

「わたしよう知らへんのです。お父つぁんからは『無慚は死神や』とか『疫病神や』とか、わるいことばっかし聞かされてきました」

「言うやろな、あん人やったら」岡部もうなずく。

「でも──ホンマの無慚さまとお話しする限りやと、あんまりその、わるいとこが見えてこおへんというか。意地のわるいことはあっても……これまで聞いてきた人物像とはえらいかけ離れとる気がして」

 いったい十年前。

 なにがあったのか──というこいとの問いかけに、おふなは眉を下げて惣兵衛を見る。岡部や三郎治もまた、惣兵衛へ視線を向けた。

「なんや。みんな俺に言わせる気ィか」

「おのれの親友の話やろ。脚色なく、そのまま伝えてやれ」

「兄貴かて変わらぬ友人やと思てんけどなァ。まあええか。こいとちゃんひとりでも、彼奴に纏わり付く悪評を払拭できたら──それでええわ」

 あれから十年。

 惣兵衛はつぶやく。

 もう十年。まだ、十年。

 無慚がおのれの真名を捨てた、あの事件から──。


 ※

 無慚むざんという男、真名は別にある。

 摂津国能勢大里にて大店の主人である父と、廓あがりの母との間に生まれた。しかし物心もつかぬころに母を亡くし、五つのころには盗賊に店を燃やされた挙げ句に父をころされた。幼子は盗賊から逃げて山中に身を潜んだために事なきを得た。その後、町を放浪していたところを慈光和尚じこうおしょうに拾われた。

 和尚は六十を過ぎた年寄りであった。

 行脚のため能勢大里の山中を歩いていたが、彼の持寺は大坂城下から淀川を挟んだ向かいにあって、無慚は五つからの青春時代をこの周辺で過ごすこととなる。

『知は万代の宝』

 無慚は和尚を見るにつけそれを感じ、また元来の勤勉な性格もあってか、それは熱心に和尚から仏心や教養を学んだ。

 齢十になったころ、川向かいの村にある年頃の青少年たちが集う『若者衆』の一員となった。これは和尚の進言によるものであった。もともと商家のひとり息子、いずれは俗世で生きてゆけるようにとおもってのこと。

 知らぬ土地ながら、無慚は天性の愛嬌も相まってすぐに友人ができた。西寺町にて小料理屋を営む徳十郎が長子、惣兵衛。農家の次男坊、泰吉。町奉行勤めの岡部某が三男、曾良。

 自分より年上の曾良とはとくによく喧嘩をしたが、そのたびにお調子者の泰吉が騒ぎ立て、みなのまとめ役を担った惣兵衛がふなの店へ連れてゆき、喧嘩両成敗として店の手伝いをやらされたものだった。彼らは青い時代をともに過ごす、無慚にとってかけがえのない仲間となった。


 無慚が齢十三のころ、ひとつの事件が起きた。

 元禄十六年四月七日早朝に、大坂堂島新地天満屋の女郎と内本町醤油商平野屋の手代が曾根崎村の露天神の森で情死したのである。

 手と手を取り合っての心中事件はたちまち町中をにぎわし、一間歩くたびにそこここから話が聞こえてくるほどだった。

 その話題に食いついたのが、当時浄瑠璃作家兼歌舞伎狂言作家として名を馳せていた近松門左衛門。この事件を耳にいれた近松が書き上げた狂言台本『曾根崎心中そねざきしんじゅう』──。

 これを人形浄瑠璃の舞台用に書き換え、道頓堀竹本座にて公開された初演は、事件発生からわずかひと月後のこと。

 観劇した無慚は、衝撃をうけた。


 ──誰が告ぐるとは 曽根崎の

   森の下 風音に聞え 取伝へ

   貴賤群集の回向の種

   未来成仏疑ひなき

   恋の手本となりにけり──

 

 元来夢想家気質であった無慚にとって、現世で叶わぬ恋をした男女の悲劇的な結末は、あまりに哀れだった。開演期間中は飽きもせずに何度も座へ足を運んでは、涙し、またその悲劇に酔いしれた。

 当時、初恋も未経験であった少年の胸に『心中』というかくも脆い“愛の誓い”が、強いあこがれとして残ってしまった。


 ──いつ迄言うて栓もなし

 ──はやはやころしてころして

 ──サア只今ぞ 南無阿弥陀 南無阿弥陀


 おそらくは多くの人々もおなじく思ったのだろう。

 世間ではたちまち心中を題材に描いた作品『心中もの』が流行、挙げ句の果てに同様の心中事件が多発するようになった。

「みっともない」

「情けない」

 と、世に擦れた大人たちは嘆いたが、無慚にしてみればこれほど来世での結縁けちえんを望む者が多いことにもおどろいた。恋が結ばれぬことが、死にたくなるほどの憂いとなるのだろうか──とも。

 そんな無慚が恋を知るのは、十五の夏。


 恋の前にまずはおんなを知った。

「島下郡の祇園祭」

 と名高い夏祭りに、お忍びで参詣していた武家の娘に一目惚れをしたのである。しかしそれはむこうもおなじで、十五ながらに色気をのせた涼し気な瞳に総髪すがたの無慚は、パッと目立つ顔立ちで、祭りに訪れた若者のなかでもひときわ色男だった。

 互いになんとなく惹かれて、無慚は娘の手を取り、人混みのなかを走りに走って娘の供を撒くと、ふたりは闇夜に紛れて材木小屋の影でからだを重ねた。いちど抱くとふしぎなもので、いとしさがあふれた。

 からだが言うことを聞かず、熱を出しても、娘をしっとりと抱きよせども、からだの昂りはおさまらぬ。

 祭りが終わりに差し掛かった頃、ふたりは娘をさがす供の声によって我に返り、あわてて身支度を整えて祭りにもどった。いけないことをしていると分かっても、なんだか胸がくすぐったくて、互いに顔を見合わせてはクスクスと笑い合う。

 娘の笑顔を見るにつけ、無慚の心は満たされた。

(これが愛か)

 と。

 この日、無慚は愛することのよろこびを知ったのである。

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