第13話 結縁もとめて
武家娘と孤児の恋など許されぬ。
そんなことは、聡明な無慚には分かっていた。ゆえにのめり込むつもりはなかった。けれどおのれの意思に反して、心はどうしようもなく娘を求めた。胸が苦しくて張り裂けそうだという感覚も、このとき初めて知った。
こんなこと照れ臭くて、和尚には相談できぬ。
しかし禁忌の恋ゆえ相談する相手も限られた。仲間内でも、当時は惣兵衛くらいにしか言わなかった。なにせ岡部と泰吉は色恋にはとんと疎く、ほろ苦い初恋の苦悩など馬の耳に念仏もいいところ。信頼できて、かつそういう方面も早熟であった惣兵衛は無慚の良き相談相手であった。
惣兵衛の全面協力もあり、無慚と娘はとうとう顔合わせから一年の月日、一目を忍んで逢瀬をかさねることとなる。
しかし、そんな日々も永久にはつづかぬ。
あるとき娘が、近いうちに京へ輿入れにゆくといった。とうぜんそれは親の言いつけによるものだが、娘はどうにもならぬことも知っていた。
ゆえに、無慚の前でも「行きたくない」などと駄々をこねることはしなかった。無慚の方こそ、心の臓が抉りとられんばかりに痛んだが、きっと娘はそれ以上の苦しみだろうとおもえば、みっともなく泣き言を言わずに済んだ。
互いに悲しみを堪え、無慚が娘のもとへ夜這うたび、ふたりは笑顔で向き合った。きっといつか、良き想い出だったと振り返ることのできる日が来ることを願って。
しかし、最後の晩だけはちがった。
娘は無慚の胸元に顔を押し付けて泣いた。泣いて、たった一言、
「──ころして」
とつぶやいた。
瞬間、無慚は娘の手をとり、屋敷を飛び出していた。
ころして。
ころして。
ころして。
ころして──。
(いつ迄言うて栓もなし)
娘を胸に抱き上げて無慚は走る。
目指すは無慚にとっての聖地、露天神の森。
(はやはやころして、ころして。──)
ころして、と娘の声が頭のなかで木霊するたびに、若き無慚の頭によぎるかつて胸に抱いた心やましき憧憬の情が、心を焦燥に駆り立てた。
いまここでなにもせなんだら、この娘はおれの手元から離れてゆく。
彼女とともにおれぬ此の世に意味があるのか?
たかが身分違いひとつのため、この想いをすべて水に流すことができるのか?
いっそこんな現世、捨てることができたなら。
結縁がゆるされるいつかの来世に行ってしまえたら──。
(ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう!)
無慚は泣いた。
腕のなかに娘を抱きながらひたすらに森を目指すなかで初めて、無慚はおのれに突き付けられた現実と向き合った。ひとたび現実を直視してしまえば、一介の孤児ひとりがどうにかできることでは到底なくて、ただ、どうしようもない現実に絶望した。絶望とともにあふれ出た涙と嗚咽が、いっそう自分たちを悲壮に見せた。
「おねがい、ころして」
露天神の森のなか、連理の棕櫚樹の根元に腰をおろした娘が、胸元に潜ませた短刀を渡してきた。漆塗りの鞘に、娘の家紋である小桜紋が刻印された上等なもの。
初めて見せた無慚の涙は、娘の心をも動かしたようだった。
彼女は、
「心中したい」
といった。
心中、それは現世で結ばれぬ悲しき愛をいつかの来世で結ぶため、互いに交わす愛の誓い。
無慚はそれもいい、とおもった。いやそれしかないとおもった。
遠くに逃げることも考えた。だれも知らぬ土地でたったふたりだけの世界を生きようとも考えた。けれど──いまだ心根の幼い男女には、その先を生き抜く覚悟が足りなかった。
おのれの帯をしゅるりと解いて、無慚は娘と自身のからだをまとめて大樹に結いつけた。娘は真っ赤な瞳を無慚に向けた。
「心中しましょう」
無慚は言った。
──神や仏に掛置きし 現世の願を今ここで
未来へ回向し 後の世も
なをしも一つ蓮ぞやと
爪繰る数珠の百八に 涙の玉の 数添ひて
尽きせぬ あはれ尽きる道──
「この連理の大樹のように、来世きっと結ばれむと願掛けて」
ふるえる声で膝を折る。
娘はこっくりうなずいて無慚の首に腕を絡めた。
──此の
体をきつと結ひ付け 潔よう死ぬまいか
世に類なき死様の 手本とならん──
「嗚呼──嗚呼お父さま、お母さまごめんなさい。私は──」
娘は無慚にしがみつく。
──肌に刃が当てられふかと
眼もくらみ手も震ひ弱る
色心を引直し 取直してもなほ震ひ
突くとはすれど切先は
あなたへ外れこなたへ逸れ
二三度ひらめく剣の刃──
「おれがあなたをころします。そのあとすぐに追いますから」
小桜紋の短刀。鞘を抜く。
娘は瞳を閉じて、その刃がおのが身を裂くときを待つ。無慚の手はふるえて、なかなか照準定まらぬ。見かねた娘が無慚の手におのれの手を重ねた。
「はやく、はやく、ころして!」
娘はわらった。
──あつとばかりに 喉笛に ぐつと通るが
南無阿弥陀 南無阿弥陀、南無阿弥陀仏
と 刳くり通し刳くり通す腕先も
弱るを見れば両手を延べ
断末魔の四苦八苦
あはれと言ふも 余り有り──
娘はまもなく事切れた。
その様を見て迷いの吹っ切れた無慚は、ひと思いにおのれの腹に短刀を押し当てて、思いきり引いた。カッと燃えるような熱さとともに無慚の意識が急激に遠くなる。
意識が消える間際に聞こえた、おのれの名を呼ぶ声が何者かは、わからない。
──誰が告ぐるとは曽根崎の森の下
風音に聞え 取伝へ
貴賤群集の回向の種 未来成仏疑ひなき
恋の 手本となりにけり──
────。
無慚を発見したのは惣兵衛だった。
娘のうわさを聞いた惣兵衛は、曾根崎心中に傾倒していた友人をおもって「いつかこんな日が来るのではないか」と恐れていた。その日たまたま寺に泊まりに来た惣兵衛が、帰りの遅い無慚を心配して、まさかと思いこの森に立ち入ったのである。
娘はすでに死亡、無慚も瀕死の状態であったが、惣兵衛の決死の救出によってなんとか一命を取りとめた。このときの選択を惣兵衛はいまでも後悔している。
「あのとき、いっそ無慚を死なせてやればよかったのかもしれぬ」
と。
その後、無慚にとっては地獄の日々であった。
娘を失くした親は、病床のなかで土下座する無慚をひとごろしだと罵り、髪をひっつかんで顔や身体を蹴りつけた。また、心中未遂事件を耳にした町の人びとはたちまち態度を変えた。これまでなんだかんだとかわいがっていた無慚をまるで鬼でも見るかのように蔑み、誹り、唾を吐いた。
無慚は当時の暴行により左耳の聴力を失ったが、ひと言だって弁明することはなかった。
代わりに、いつも喧嘩ばかりしていた岡部曾良は、同心の父に頭を下げて無慚の罪を軽減させるよう進言。農家の次男坊泰吉は、町中に広がる無慚への悪評を耳にするたび怒鳴りつけた。
惣兵衛は娘の父親のもとへ赴き、娘から無慚へあてた恋文を見せては「本気で愛し合っていた」「強引に婚姻をすすめた結果だった」と無慚の暴漢説を真っ向から否定した。
子どものころから可愛がっていたふなは、寺内で謹慎する無慚のもとに毎日通っては握り飯や団子を差し入れた。
謹慎中、無慚は終始無表情で黙りこくる日々であったが、ふなが見舞いに訪れたときに一度だけ、涙を見せたことがあった。
「──いまおれが死を選んでも、あの子はもう……輪廻の道にておれを待ってはくれんだろうか」
と。
その後とある頃より、彼は真名を捨て『
はて、人のうわさも七十五日。
町で無慚の話題が消えつつあるなか、惣兵衛たちが三人で寺へ見舞いに訪れたことがあった。傷もだいぶ癒えた無慚は、いつもなら本堂で経を読んでいるのだが、その日はどこをさがしても見つからない。
和尚から、裏山に行ったらしいと聞き追ってみる。道中木の根に足をひっかけた泰吉が派手に転んだり、腹が減ったと曾良が不機嫌になったりと騒がしい一行であったが、まもなく見つけた。鬱蒼とした山中で頭を丸めた無慚がひとり木々を見上げて佇んでいる。
どうしたァ、と泰吉が駆け寄った。
彼は視線を上に向けたまま、ぽつりと言った。
「泰吉──転けたんか」
「へェッ?」
無慚は身を屈めて泰吉の着物をめくる。
痛々しい膝小僧の擦り傷を見て、無慚はプッと吹き出した。
「そそっかしい奴やな。ええ歳して」
「転けたよ。でもなんで分かったん」
「岡部も、貴様──ええ歳して腹が減ったとうるさく騒いだらしいな。みっともない」
「な、なにを」
「お前どないしたんや。────」
惣兵衛はおどろいた。
それからも、この無法者はぽつりぽつりと見てもいないことを言い始めた。内容はどれも的確で、どうも当て推量でもの申しているわけでもないらしい。
どういうことかとわけを聞けば、彼はこう言った。
「山川草木が話しかけてくる」
と。
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