生活習慣病

そうま

第1話 生活習慣病

 世界中に拡散し、猛威を振るうCOVID-19、通称コロナウィルス。

 ウィルスの集団感染を防ぐため、他人とのな接触を避ける「三密」や、不必要な外出を控えるように政府から国民へ要請された緊急事態宣言など……。ウィルスの脅威はこれまでの日常を奪い去り、我々人間は新たな生活様式の採択を余儀なくされた。


 ……なーんて、適当につけたテレビのワイドショーで専門家なるコメンテーターが渋い顔で語っていたけど、独身一人暮らしかつインドアのぼくにとってはあまり実感のない話だ。

 外出機会が減り、もともと外で遊びまわり飲み食いしていたような奴らは、部屋で籠りきりの日々にストレスを感じているらしい。

 まあ、普段から休みの日に家で一日中ゲームしたりYouTube見て過ごしているぼくにとってコロナで困っていることといえば、バッティングセンターへ行けないせいで、玄関に置いてあるバットが錆びついてしまっていることくらいだ。


 でも、コロナが人々の生活をがらりと変えてしまった実感が、最近ようやくぼくにも感じられるようになった。

 ぼくが住んでいる二階建てのアパートは全部で四部屋しかなく、しかも壁がかなり薄い。そのせいでぼくは一度、隣に住む不愛想なおじさんにキレられたことがある。引っ越してきて間もない頃の夜、けっこうな音量でテレビゲームをしていたら、玄関の扉をガンガンと叩かれた。

『今何時だと思ってんだてめえ!』

 玄関先で、ぼくはこっぴどく怒鳴られまくった。それ以来、ぼくは必ずヘッドホンをテレビにつないでゲームをするようにしている。

 隣のおじさんは四十過ぎくらいのコワモテで、大工とかそういった類の仕事をしているらしい。時たま、週末にアパートの外でDIYに励んでいる姿を見かける。刃渡りの大きなノコギリで、丸太をぎこぎこと切っていた。なんとなくその様子を見てたら「何見てんだ」と凄まれてしまい、逃げるようにコンビニへ走ったので彼が何をDIYしていたのかは分からずじまいだ。

 小学生くらいの大人しい女の子と一緒に住んでいる。母親らしい人を見たことがないからおそらく父子家庭だろう。


 ――ってそうそう、コロナの実感がうんぬんという話だった。

 先ほど言った通り、うちのアパートは壁が薄いせいで、生活音がかなり鮮明に聞こえる。だから、お互いのおおまかな生活習慣が筒抜けなんだけど。

 隣のこわいおじさんの部屋からは、コロナの影響で週末も賑やかな生活音が聞こえるようになった。おそらく、あの小学生の女の子が外に遊びに行けないせいで、家の中で退屈しているんだろう。走りまわったりおもちゃで遊んだりする声がよく響いてくる。ぼくが普段接しないような層の人たちの生活の変容が生々しく伝わってきて、妙に印象に残ったのを覚えている。



 ――てめえ、静かにできねえのか、このガキ!

 ゴン。

 鈍い物音。

 

 ……またか。

 隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。緊急事態宣言がしばらく継続されると、こうして連日、男の怒鳴り声と何かを殴るような音が止まなくなった。あの不愛想な父の仕業だろう。コロナ禍で生じたストレスの矛先が全てあの女の子――彼の娘に向けられてしまったのだ。

 夜になると男が仕事から帰って来る。女の子が「お帰り」と彼を迎えた後からそれは始まる。男は一方的に子どもを怒鳴りつけ、声が止んだかと思うとゴン、と鈍い音がする。

 それを毎日耳にするぼくの腹の底には、なにか黒い感情が渦巻いている。とてもじゃないが、まともな精神状態では聞いていられない。ぼくはヘッドホンをつけて、ゲーム機の電源をつけた。こうすれば、あの耳障りな声は聞こえない。ぼくは画面の中に集中した。


 しかし、ヘッドホンを装着したところで環境音が完璧に遮断できるわけじゃない。延々と流れている城下町のBGMに紛れて、あの怒鳴り声が聞こえる。

 家にいる時間が増えた子どもたちが、親から虐待を受ける事例が増加しており、大きな問題になっているとワイドショーが取り上げていた。ぼくは今、それを肌で実感している。――警察に通報した方がいいんじゃないか。あの不愛想な男の顔がちらちら浮かんできて、ゲームどころじゃなかった。

「だめだ」

 全然集中できない。ぼくはゲーム機の電源を落とし、ヘッドホンを外した。すると、隣の部屋はいつの間にか静かになっていた。

 時計をみる。まだ21時。いつもはまだ男の怒鳴り声が聞こえてもおかしくない時間帯だ。しかし、隣からは物音一つしない。

 まあ静かなのに越したことはない。ぼくはスマホを片手にベッドへ寝転んだ。Twitterを開いて、タイムラインをチェックする。そうやってしばらくぼーっとスマホの画面を眺めていると、何か物音が聞こえてきた。


 ごりごりごり……


 スマホから目を離し、体を起こす。

「……?」

 何の音だろう。どうやら隣の部屋から聞こえてくるみたいだ。

 ぼくはベッドから立ち上がり、壁に近寄って耳をすます。


 ごりごりごり……


 何か、固いものを削っているような、そんな音がする。

 急に静かになったと思ったら、今度は一体何をしてるんだ?そう思いながら壁から耳を離そうとして――

 ……待てよ?

 この音、何だか聞き覚えが――


 ごりごりごり……


 ――まさか、ノコギリ?

 いやでも、こんな時間になんでそんなものを……


 ごりごりごり……


 ふと、丸太を切り落とすあの無愛想な男と、小さな女の子の顔が思い浮かんだ。

 いやいや、ばかな。そんなこと、ありえないって。

 そう思いながらも、背中は冷たく凍りついていく。ぼくはいつのまにか、手にバットを握りしめていた。


 ごりごりごり……


 本当に通報すべきか?いや、ぼくの思い違いの可能性だってある――けど、あのうるさい父親が黙り込んでしまった上でのこの状況は不自然に静かで――とても気味が悪い。

 バットを握る手が震える。手汗がひどい。……頭がどうにかなりそうだ。


 ……。


 音はぴたりと止んだ。隣の部屋からは何も聞こえなくなった。

 壁に耳を当ててみても、物音一つしない。久しぶりの静かな夜が訪れた。けれど、ぼくはシャワーも浴びず、バットを抱えたままベッドに潜り込んだ。



 次の日。

 ほとんど寝れずに朝を迎えた。そのせいで頭はずっしりと重かったが、そんなことお構いなしに一日が始まる。

 あの後、変な物音は一切しなくなったので、気分は少し落ち着きを取り戻した。疑念は拭いきれなかったが。

 しかし、もしかすると、ぼくは知らず知らずのうちにコロナ禍で相当なストレスを抱えていたのかもしれない。いくら何でも、ノコギリで子どもの首を切断するなんて妄想は行き過ぎていた。

 ぼくはスーツに着替えて家を出た。車にキーを向けてロックを解除する。運転席のドアに近寄っていくと、後ろでバタンと扉が閉まる音がした。

 振り向くと、隣の部屋から女の子が出てきたところだった。

「おはよう」

 ぼくが言うと、

「おはようございます」

 と、女の子も小さく頭を下げて返してくれた。彼女は鞄を背負って道路の方に走っていった。

 女の子の姿が確認できたぼくは、いらぬ心配をしていたことを少し恥ずかしく思いつつも、確かな安堵の気持ちを感じて、車に乗り込んだ。

 

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生活習慣病 そうま @soma21

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