その3
『そこまで言われては買わない訳には行かなかった。』彼は、若いハウスキーパーが持ってきたお代わりのコーヒーを半分だけ飲み、少しむせた後でそう言った。
幾らだと聞くと、相手の老人は、
”本来ならば5万円も貰いたいところなんだがね。やっと見つけた、大切なお客なんだ。5千円でいいよ”
ちょうど彼は其の日、銀行から下ろしたばかりの3万円が懐にあった。
これで何かもっといいもの、スピーカーの部品を買うつもりでいたのだが、彼は1万円札を渡して、その箱を受取った。
”くれぐれも言っておくが、その箱は大切にしてくれ給えよ。そうすればこいつも必ず君に応えてくれる筈だ”
店主の老人はそう言って、押し頂くようにして札をしまい、釣りの五千円を渡した。
『ただ、見込まれたのが嬉しかったとはいえ、流石にまだ儂も老人の話を信用していた訳ではなかった』
彼はそう言って、再びカップを持ち上げ、残りのコーヒーを飲み干す。
半信半疑ながら、箱を自分のアパートに持って帰り、工場で自分が組み立てた自動車部品の一部(といってもたまたま出来損ないだったボルトだが)をそこに入れて箱にしまい、そのまましばらく存在を忘れ、また黙々と働いた。
すると、どうだろう。
勤めていた工場への発注が急に増えだしたのだ。
主な契約先だった大手の自動車会社が新車を発売することになって、同じ数社あった孫請けの中から、彼の工場が選ばれ、20人ほどの従業員が交代で操業をしても時間が足らなくなり、人員を増やしてフル稼働をしなければ生産が追い付かなくなった。
しかも彼は、工作機械の扱いと、その器用さが評価され、まだ20歳前だというのにグループのリーダーに抜擢された。
その後会社は右肩上がりになって行き、彼も主任まで地位が上がった。
間もなく、彼は自動車会社直属の部品メーカーにヘッドハンティングされ、しかも中卒では異例中の異例である、副工場長にまで抜擢されたのだ。
その会社でも彼は手腕を発揮し、会社の業績を上げ、当の自動車会社から表彰されるまでになった。
当然ながら、彼よりも学歴が上でありながら、部下になってしまった連中は面白くない。
本田氏はそんな空気を察知したのか、勤務して約一年と少しで退社し、数名の仲間と共に新しい事業を立ち上げた。
正直言って不安はあったが、彼の工場で作る部品に、同業他社の自動車会社のみならず、海外のメーカーまで目を付け、取引をしたいと向こうから申し出てきたのである。
『自分でも怖いくらいだったよ』
彼はそう言って、大きく息を吐いた。
決してうぬぼれから出た言葉ではなかった。
確かな確信があってのものだというのは、俺にも理解が出来た。
やがて、彼はどんどん工場を拡大して行き、単なる町工場ではなく、海外とも伍してやって行けるだけの力を付けて来た。
彼は、次から次へとあの箱を開け、自分が『実現したい』と思って、それに関連した品物を入れる。
『それから先は、君も知っている通り、今の儂になる事が出来たのだ・・・・儂はもう叶えらえるだけの夢は叶えた。もうこれは必要ない。次の誰かに引き継ぎたいのだ』
もとより俺は、伝説じみた話など、元から信じちゃいない。
しかし、本田氏の話にはいささか興味を持った。
『分かりました。引き受けましょう』
『引き受けてくれるか?!』
彼は腰を屈め、
『資料はここに入っている。頼むよ』
『では、こちらも』
俺はそう言って、折りたたんだ紙を内ポケットから取り出す。
『基本料金は一日6万円、他に必要経費。万が一拳銃がいるような事態・・・・つまりは荒事ですな・・・・が、発生した際には危険手当として4万円の割増しを付けます。これは契約書です。お読みになって、納得が出来たらサインをお願いします』
『何分、宜しく頼む』
彼はそう言って、特に中身を確認することなしに、袋に入っていた重そうな万年筆でサインをした。
『もし選んでくれた人物が、本当に価値のある人間だったなら、成功報酬もつけようじゃないか』
書類を返すと、又しても手品師のような手つきで6の後ろに0が五ケタ並んだ小切手を着手金だと言って手渡した。
『サインをして頂いてからで、なんですが』
俺は小切手をコートの内ポケットにしまい、箱を受取ると、ソファから立ち上がって、ドアノブに手をかけ、思い出したように前を向いたまま、彼に声をかけた。
『もし、リストの全員が、”箱”を”いらない”といったら、その時はどうします?』
彼はため息をつき、暫く考えてから答えた。
『そんなことはあるまいと思うが・・・・万が一そんな事態になったら、”箱”の処分は君に任せる。』
『好きなようにしてもいいんですな?』
本田氏はああと短く答え、それっきり何も言わなかった。
俺は今度こそ、
『では』と答え、そのまま部屋を出た。
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