その2
『単刀直入に言おう。この箱は私に幸運をもたらしてくれた。これを受け継ぐ資格のある人間を、君に探し出して欲しいのだよ』
老人は灰皿の上から喫いさしのハバナを持ち上げ、またふかし始めた。
彼、本田功が一度も結婚したことがなく、独身を通して来たことは、既に話した通りだ。
子供もいない。孫だっていない。
だから、その一番大切な財産を相続させようにも、させられる人間が見当たらないのだ。
会社の部下、故郷に残して来た弟の家族、いるとすればその位で、どれも帯に短し襷に長しというやつで、なかなかこれはというものが見つからない。
『他のものはどうなろうと一向に構わないのだが・・・・こいつだけは絶対に信頼のおける人間にしか継がせることが出来んのだよ』
『だから一体何の箱なんです?』
『言葉通りの意味だよ。この箱を手に入れて以来、私には幸運しか舞い込まなくなったのだ』
それを見つけたのは、田舎から上京してまだ間もない頃の事だった。
彼は当時、安い給料で朝から晩まで機械油にまみれて働き、くたびれきって三畳一間の、風呂無し、共同炊事場とトイレのある、家賃八千円のアパートに住み、夢も希望もなく、黙々と働いていた。
彼は煙草も殆どやらず、酒もほんの僅かしか呑まなかった。
勿論ギャンブルなど手も出したことがない。
楽しみと言えば、古道具屋やボロ市を冷かしたり、秋葉原の電気街のジャンクショップを見て回る事くらいだった。
ここから使えそうな部品を探し出して、ラジオを組み立てたり、古いものを集めてきたりするのが、彼の数少ない趣味だった。
ある時、浅草のボロ市に出かけた時だった。
特に何か目的があったわけでもなく、単に露店の店先を覗いて回っていた時である。
一軒の骨董屋・・・・というより、主に古いラジオやら蓄音機が並べられていた店の前で足を止めた。
店の主人が彼に声を掛けて来た。
歳の頃は当時で50代後半くらいだったろうか。
痩せたあまり顔色の良くない男で、藍色のつなぎを着ていた。
『お兄さん、何かいいものは見つかったかね?』
かすれた声で彼に向かって言った。
別にと答えると、主人は大きなラッパ型のスピーカーの、古い手回し式蓄音機の陰から小さな箱を持ってきた。
鈍く銀色に光っていた。箱の上には、彼が今見せてくれた鍵が載っていたという。
主人は、
『この箱と鍵を買わないかね?世界でたった一つの箱だ。この箱はこの鍵でしか開けることは出来ん』
何でもこの箱は、今から700年ほど前に西ヨーロッパのある国で、その国の国王の為に特別に作られた”幸運を呼ぶ箱”なのだという。
何でもいい、特定の品物を箱の中に入れ、カギを掛ける。
そして一昼夜置いてから開けると、必ず己の身に幸運が舞い込む。
ただ、この箱は人を選ぶ。
これはと見込んだ人間には、幸運をもたらすが、そうでない人間には、逆に災厄しかもたらさない。
主人はこの箱を30年ほど前に、フランスのパリの蚤の市で手に入れた。
彼にこれを売ったフランス人・・・・いや、正確にはユダヤ人の老人は、
”自分はこの箱のお陰で金持にもなれたし、ナチのホロコーストからも免れることが出来た”そう語ったのだという。
”そんな貴重なものをどうして売るんだね”と訊ねてみたが、そのユダヤ人は曖昧に
”一人の人間が長く持ち続けることは許されていないのだ”と付け加えたという。
主人は半信半疑ながらも、その箱を買ったのだが、彼は元々商売人だ。それほど欲があったわけでなかったから、その箱を使うことはしなかった。
ただ、いずれは誰かに譲りたい。
そう考えながら、ずっと手元に置いておいたのだという。
だが、なかなか”これは”という人物は現れない。
そして月日が流れ、やっと今日、
”これは”と思う人物を見つけた。
『それが本田さん、貴方だったという訳ですか?』
俺が訊ねると、老人は短くなった葉巻を灰皿に押し付け、深く頷いた。
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