罵倒されて心折れかけた青年は、野良猫と出会ってナイフをしまう

和成ソウイチ@書籍発売中

罵倒されて心折れかけた青年は、野良猫と出会ってナイフをしまう


「この税金泥棒め!」


 ――アパートへ続くじゃみちでのことである。

 つばをまき散らすひとりの老人が、帰宅途中のやましんに向かってせいを浴びせた。


「お前らのような奴らがのんにやってるから、この国はダメなんだ!」


 慎太は足早に自宅アパートへと向かう。震える手で玄関の鍵を開け、中に入り、後ろ手で扉を閉めて、ようやく息を吐く。

 このような光景が朝夕、もう何日も続いていた。

 慎太が暮らすアパートは奥まったところにあって、砂利道を通らなければ広い道に出られない。

 老人の自宅は、その砂利道沿いにあった。


 慎太は真面目で、せんさいに過ぎる青年だったから、他人のなにない一言でも真正面から受け止めてしまう傾向があった。

 彼の心は、度重なる理不尽なとうで弱り切っている。


「1階の部屋でよかった。階段を上る元気ねえわ、俺」


 誰もいないくうに向かってつぶやく。

 そのとき、スマホがメッセージの着信をしらせてきた。相手は職場の上司で、慎太の体調をうかがう内容だった。

 ありがたい――と思うより前に、何やってんだ俺、という気持ちが先に立った。

 上司と慎太はそれほど年が離れていないが、相手はバリバリ仕事が出来る女性で、自分とは何もかもが違う。

 落ち込んだ。他人からすれば気にしすぎと笑うことでも、今の慎太には大きなダメージを残す。


「俺、こんなに弱かったっけ」


 灯りもけず、キッチンの床に座り込む。そのままぼんやりと正面の壁紙を見つめた。

 腕時計の秒針が、かちり、かちりと時を刻む。就職のときに少し背伸びして買ったそれは、文字盤が暗闇の中でうっすらと浮かび上がるタイプのものだった。

 目玉だけ動かして、時間を見る。


「また爺さんに怒鳴られるまで、あと12時間か」


 目を閉じる。眠気はまったくない。ただ、まぶたを閉じて視界をしゃだんした方がいくぶん気持ちが楽になる。


 かちり、かちり。

 かり、かり。

 かりかり。


 慎太は目を開けた。腕時計の秒針とは違う音が聞こえてきたのだ。

 居間の方からだ。

 重い身体で何とか立ち上がり、慎太は居間へ向かう。室内の薄暗さを払うため電気を点けると、部屋の隅に積んだ空の段ボール箱が目に入った。

 そのひとつが、かすかに揺れている。音はそこから聞こえてきた。


 段ボールをどけると、そこには1匹の猫がいた。

 白い毛並みがあちこち土で汚れている。首輪はない。野良猫だ。

 すぐ側の窓が10センチほど開いていた。そういえば、今朝洗濯物を干したときにきちんと窓を閉めた記憶がなかった。

 猫はじっと慎太を見上げている。縦に長いどうこう、黄色にみどりを少し垂らしたような色の目。不思議と警戒した様子はなかった。


 猫の目を見つめ返すうち、ふとあることに気付いた。「そういえばあの爺さんの顔、思い出せないや」

 なぜだか少しだけ肩が軽くなった。


 野良猫はなつくでもなく、逃げるでもなく、慎太から一定の距離を保ったまま「なあ、なあ」と鳴いた。そして、やおらトテトテと歩き出すと、キッチンのところに座ってまた「なあ、なあ」と鳴く。

 気の優しい慎太は、「牛乳でも温めてやるか」と思った。

 レンジだと加減がわからなかったので、鍋に牛乳を入れて軽く火にかける。

 コンロからき上がる炎を見ていると、また気付くことがあった。「そういえば俺、ここ最近温かいものをろくに口にしてなかったな」


 平皿に温めた牛乳を注ぎ、野良猫にやる。そして慎太は戸棚からレトルトのドライカレーを取り出した。趣味の登山で携帯食料として持っていくためのものだ。わざわざ米を炊く必要がない。

 野良猫と適当な距離を保ちながら、床に座ってドライカレーを食う。米の温かさとカレーの辛さによって、これまで滞っていた血液が再びじゅんかんし始めたような感覚になった。

 人と猫。お互いの食べる音だけがする。キッチンにも灯りを点けたから、視界に入る場所で暗いところはなくなっている。


 気がつけば1時間近く猫と向き合って食べていた。

 ふいに猫が立ち上がった。トテトテと歩き、今度は洗面所の前に座った。


「なあ、なあ」

「なんだ。水が飲みたいのか」


 洗面台の蛇口をひねる。猫は軽々と洗面台の上に飛び上がり、流れ落ちる水を器用に飲み始めた。

 洗面台の向かいは風呂場だ。


「そういえば、しばらく湯船にかっていないな」


 軽くよくそうを掃除し、湯を張って、肩まで浸かった。長い長いため息が漏れた。

 浴室と洗面所はじゅ板の扉でへだてられている。りガラスのようにぼやけて見える向こう側に、野良猫のシルエットがあった。不思議そうに首を傾げている。

 慎太の頬はゆるんだ。


 入浴が終わって着替えると、今度は寝室から猫の鳴き声がした。

 まさかと思いつつ寝室をのぞく。野良猫はベッドの上にいた。


「なあ、なあ」

「もう寝ろってか。わかったよ、歯磨いてくるから、ちょっと待ってろ」


 慎太は苦笑しながら就寝の準備をする。ベッドに潜り込むと、猫は慎太の右足の爪先辺りという微妙な位置に陣取り、丸くなった。

 身体の重みが心地良いと感じたのはいつぶりだろうか、と慎太は思った。久しぶりに自然な睡魔がやってくる。


「おやすみ」

「なー」


 まるで返事をするように鳴いた猫に微笑みを返し、慎太は眠りに就いた。

 その日は深く穏やかな眠りで、ぐっすりと休むことができた。


 翌朝。

 すっきり目覚めた慎太は朝の準備を始める。


 着替えまで終わったとき、猫が窓のそばに立っていることに気付いた。外に出たがっているんだと慎太は思った。

 少しさびしさを覚えながら、慎太は窓を開けてやる。

 だが、猫は出て行かない。

 なぜか窓から押し入れの前に移動し、また「なあ、なあ」と鳴き始めた。


「中に何か入れていたかな」


 不思議に思いながら押し入れを開ける。

 慎太は目を見開いた。


 そこには、押し入れの床に乱暴に突き立てられたキャンピングナイフがあったのだ。


 慎太は思い出した。これは数週間前、登山道具を整理していたときに衝動的に突き刺してしまったものだ。

 あの頃はまだ、老人の罵倒に怒りを感じる余裕があった。まった苛立ちをぶつけてしまったのだ。


「もしあのとき、苛立ちを抑えきれなかったら。俺はこのナイフをとんでもないことに使っていたかもしれない」


 小さくても頑丈なナイフは、床板に食い込んだあのときの姿のまま慎太の目の前にある。

 ――思えば、あの日からだった。

 一瞬でも暴力的な衝動に身を任せてしまった罪悪感で、老人に対し必要以上にしゅくするようになったのは。

 急速に心がもうしていったのは。


 慎太はゆっくりと深呼吸した。

 キャンピングナイフを床板から引き抜き、丁寧に刃を収める。登山用のリュックの中にキャンピングナイフをしまうと、心の奥底でよどんでいたもやが静かに晴れていった。

 もうあのときのようにはならない。


「今度の休み、お前も行くか。登山。なあ」


 冗談半分で話しかけるが、返事がない。

 振り返ると、猫はいなくなっていた。

 朝のさわやかな風で、カーテンが小さく揺れている。

 慎太は立ち上がり、「ありがとな」とつぶやいて、窓を閉めた。


 腕時計を見る。

 ちょうど12時間。出勤時間になっていた。

 身支度を整え、アパートを出る。

 いつもの砂利道。視線の先に老人がいた。


「この給料どろ――」

「おはようございます。いい朝ですね」


 大きな声で慎太が挨拶すると、老人はひるんだ。慎太は老人の顔を認識する。せこけて、あまり眠れていないのか濃いくまがあった。

 そこへ、1匹の猫が老人の足許を物凄い勢いで駆け抜けた。老人は驚き、バランスを崩して倒れる。その拍子に、自分のところのプランターをひっくり返してしまい、老人は頭の先から爪先まで土だらけになってしまった。

「ぷふっ」と思わず笑ってしまう慎太。老人がいきり立つ前に、彼は手を差し伸べる。

 そのとき、老人の家から中年女性が駆け出してきた。激しい剣幕で老人にまくしたてる。


「おじいちゃん。また他人様に迷惑かけようとしたんでしょう。こんな泥だらけになって、恥ずかしいったら」

「いや、ワシは」

「つべこべ言わない。さっさと立つ。今日はもう大人しく家にいてください。すみません、義父がいつもご迷惑をおかけして」


 女性は慎太に対し、ぺこぺこと頭を下げた。そして有無を言わせず老人を家の中に連行していった。

 慎太は、心のものが落ちたような気持ちだった。


「なんか、あっけないな」


 食べて。風呂に入って。よく寝て。

 猫と一緒。

 それだけのことだったのに、昨日とはまったく違う光景になっている。


 スマホが鳴った。上司からの電話だった。


『おはよう。山田さん。調子はどうかしら』


 涼やかだが心配げな声。慎太は「大丈夫です」と答えた。少し間があり、上司は続けて仕事のしんちょく状況をたずねてきた。


『例のイベント資料。もし難しいようなら他の子にお願いするから』

「ご心配をおかけしてます。2時間あれば仕上がりますので、午後からなら外勤行けます」


 よどみなく答える。スマホ越しでも上司がきょとんとしているのがわかった。

 しばらくして笑い声が聞こえた。


『わかった。じゃあ、期待させてもらうわね』

「はい」

『それと、もしよかったら今日飲みに行かない? いろいろ話したいし』


 慎太は職場に向けて歩き出しながら、はっきりとした声でうなずいた。


「ええ。喜んで」




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