第4話 ルビィとターニャ
居間のソファでルビィはうたた寝をしている。窓から差し込む光が、ルビィの白銀の柔らかな髪をきらめかせていた。吹き込む風がそっと髪を撫でて頬にはらりと落ちる。ルビィは邪魔そうに髪を払いのけるが意識はまだ夢の中にあるようだ。
私はタオルケットを持って来て、ルビィの体にかけた。ラズベリーの甘酸っぱい香りが舞う。ルビィが先週美容院で買ったシャンプーの香り。
突然髪を自分で切ってしまったルビィを私は翌日、美容院へと連れて行った。そこできちんと切りそろえてもらった。
美容師が勧める若い子に人気があるというシャンプーに、ルビィは興味津々だったので、私はそれを買うことにした。大人の私が使うには甘すぎる香り。でも愛らしいルビィにはぴったりだ。だからそれはルビィ専用のシャンプーになった。
壁の時計を見ると午後三時になろうとしている。そろそろ買い出しに行きたい。ルビィは眠っている。わざわざ起こしてしまうのも可哀相だ。私はメモを残して家を出た。無断で出て行っては、またルビィを不安にさせてしまうから。
歩いて市場まで向かう。肉や魚、そしてルビィがあまり好まない野菜も買う。おやつも必要だ。お菓子を量り売りしているお店でビスケットを買った。これはルビィの好物だ。帰って起きていたら一緒に食べよう。店を出る時に二人組の女の子と入れ違いになった。年はルビィと同じくらいだろうか。とても楽しそうに会話をしている。
若い子が好む洋服屋からも、やはり十代の女の子たちが出て来るのを見て、ルビィにも友だちが必要なのではないかと、私は改めて感じた。
ルビィは秋から学校に通う。そうすれば友だちもできるだろう。だけど夏の間、私とばかりいてもよいものなのか。ルビィだって年の近い子たちと遊んだり喋ったりしたくはないだろうか。
そんなことをつらつらと考えながら家に着く。居間に入るとルビィはまだ眠っている。
私は居間の隅に置かれた黒電話を手に取った。ダイヤルを回す。すぐに受話器の向こうから『もしもし』と気の強さを感じさせる少女にしては少し低めの声が耳に届く。
「もしもし、私。ソフィア」
『ああ、ソフィア姉さん。どうしたの電話なんて珍しい』
「ターニャが出てくれてちょうど良かった。あなたに用事があるの」
『私に?』
どこか
『そういうことなら、別にいいけど。ソフィア姉さんとも久しぶりに会いたいし』
了承を得られて私は機嫌よく今後の予定についてターニャと話し込んだ。
電話を終えたところで、タイミングを図っていたかのようにルビィがもそもそと起き出す。タオルケットがソファの下にパサリと落ちる。
「ソフィニャ〜?」
ルビィはゆっくり辺りを見回し私の姿を探している。私がソファの前まで行くと、ルビィは両手を伸ばすので私は彼女の腕に捕らえられた。ぎゅっとしがみついて来るので、私も抱き返す。
「ルビィ、目が覚めた? おやつ買って来たけど食べる?」
「⋯⋯ん。たべる⋯⋯」
「準備するからちょっと待っててね」
私は名残惜しさを感じながらルビィから離れ、台所に向かう。買って来たビスケットを皿にのせて、もちろん牛乳も用意してルビィの所へ持って行った。
「あのね、明後日から家にお客さんが来るの。多分ルビィとも仲良くできるような子が来ることになったから楽しみにしてて」
私はビスケットを頬張るルビィにそう話しかけた。これだけの説明では分からなかったのか、ルビィは首をかしげている。
「明後日になったら分かるから」
私のアイデアにルビィは喜んでくれるのか。少し不安はあるけれど、きっといい夏の思い出ができるはずだ。
『お客さん』が来る当日の朝。
ルビィは居間で落ち着かなさそうに何度も自分の指を組み合わせてはいじっていた。端から見てもそわそわしている。
いきなり人を呼ぶなんて、早まってしまったかもしれない。
私はルビィの隣りに座って、彼女の耳の後ろを撫でた。猫族はこの耳の後ろに触れられるのが好きらしい。ルビィは甘えるように私の肩にもたれる。
十時を少し過ぎ、そろそろ来るだろうかと玄関の方に目をやれば、呼び鈴が鳴らさせれる。
私はソファから立ち上がり、玄関へ向かった。ルビィも立ち上がっていたが、こちらへはついて来ない。向こうで不安を滲ませてじっと私を見ている。早く安心させてあげなくては。
玄関の扉を開けると、そこには長い黒髪の黒豹族の少女が、大きなかばんを肩にかけて立っていた。ターニャである。
「いらっしゃい。突然呼びつけてしまったのに来てくれてありがとう」
「別に。まぁ、ソフィア姉さんの頼みだから。私も夏休みは暇してたし」
私はターニャを連れて居間に戻った。
ルビィが所在なさげに立っている。私の斜め後ろにいるターニャを見つめていた。どこか怪しんでいるようでもある。初対面の相手に、その人は何者なんだと問いたそうだ。
「ルビィ、紹介するね。この子はターニャ。私の従妹なの。ターニャ、この猫族の女の子がこの間話した、ルビィ」
二人は対面する。小柄な猫族のルビィはとても小さい。ターニャをこわごわと見上げていた。そしてターニャも珍しいものでも見るみたいにルビィを見下ろしている。
「ターニャは猫族と会うのは初めて?」
「そんなことないよ。去年まで私の学校には猫族の留学生が二人もいたもの。私はターニャ・リェカー。よろしく」
ターニャはルビィに手を差し出した。
恐る恐るルビィは手を握り返す。
「取って食べたりしないから、そんなビクビクしないで」
呆れたように笑うターニャ。だけどルビィは表情を固くしたままだ。私の後ろに隠れるように回ると、背中にしがみついて来る。
「ソフィア姉さん、この子人見知りなの?」
ターニャは私の後ろの方へ視線を向ける。
「そんなことはないと思うけど⋯⋯。急にターニャを呼びつけてしまったから、びっくりしているのかも。ルビィ大丈夫よ、ターニャは私の妹みたいなものだから。ルビィに友だちができたらいいなって思って呼んだの」
「⋯⋯いもうと、ともだち⋯⋯」
「そう。だからそんなに警戒しなくてもいいの」
「⋯⋯うん」
ルビィは頷いたけれど、まだ私の背中に隠れたままだ。
「ターニャも来てくれたことだし、お茶にでもしましょう。ね、ルビィ」
しょぼんと耳を伏せてるルビィの頭を私は優しく撫でた。こちらを見上げて、口の端を少し上げて笑みを作る。
ルビィとターニャをソファに座らせて、私はミルクティーとチーズケーキを用意して居間に運んだ。
私はいつものようにルビィの向かい、ターニャの横に腰を下ろした。目の前でじっと私を見つめるルビィは、また耳を伏せている。なかなか緊張が解けないようだ。
「ルビィ、チーズケーキも好きでしょう? ターニャも食べましょう。いただきます」
私は率先してお茶を口に運び、フォークでケーキを一口サイズに切る。
それを見てターニャも皿を手に持った。
おずおずとルビィもケーキを食べ始める。
私としては同年代のルビィとターニャが良き友だちになってくれるのが理想だけれど、ルビィには唐突すぎて戸惑わせてしまった気がする。
「ところで姉さん、ルビィは黒豹族の言葉どれくらい分かるの?」
「難しい話でなければ理解できるから、なるべくゆっくり話してあげて」
「そう。でもやっぱり猫族の言葉の方が伝わりやすいよね?」
「それは、まぁ」
「ふーん。なるほど」
ターニャはケーキの皿をテーブルに置いて、腕を組んで何か考えている。
「姉さん私、さっき猫族の留学生が学校にいたって話したでしょ。その子たちとは席が隣りだったから、私が黒豹族の言葉を教えたりしてたの。その代わり、私も猫族の言葉を教わってね。少しだけなら喋れる」
胸を張ってターニャは得意げにニヤリと笑う。
「ルビィ、なななーな、なーななな、ななーなな?」
ターニャは早速猫族の言葉でルビィへと話しかけた。
「な、なーな、な⋯⋯」
ルビィは驚いたのか目を見開いている。
「ターニャ、何て話しかけたの?」
「ちょっとした挨拶。上手く通じなかったのかなぁ。なー、なな、なーな、な?」
「⋯⋯なーな、なな。ソフィニャ、ななーな。なななな」
「よく分かったわ。安心して、ルビィ。ななな、な、なーなな、ななーな、ななな、な」
よく見ればいつの間にかルビィの耳はピンと立っている。緊張はほぐれたようだ。ターニャは信頼してもいいと思ったのかもしれない。
ターニャがにこっと笑顔を向けるとルビィも微笑む。二人の間にいい空気が流れている。ターニャが猫族の言葉を話せたことで、ルビィも心を許したのだろう。仲良くなれそうで、私は安堵した。
お茶の時間を終えたところで、ターニャがかばんから一冊のミニアルバムを取り出した。
「猫族の留学生の子とはかなり仲良くなって、よく一緒に遊びに行ったりしてさ。写真も撮ったの。見る?」
ターニャはルビィに話しかける。
「みる!」
私の向かいに座っていたルビィは立ち上がると私の隣りにちょこんと座る。私はターニャに渡されたアルバ厶を開いた。
ルビィが私の肩にトントンと、頭を当てる。これは撫でて欲しい時の合図だ。私はルビィの柔らかな髪を撫でながらページをめくる。
ターニャとダークグレイの毛並みを持つ猫族の女の子が、浜辺を歩いている写真が何枚か続く。
「その子はノーチェ。二人来た留学生のうちの一人。でも病気になってしまって、すぐに故郷に帰っちゃったんだよね」
ターニャの声が沈む。ルビィの表情も悲しそうになる。私の手が両方止まると、ルビィがすかさず撫でての合図をするので、また手を動かす。私は更にページをめくった。
どこかの公園だろうか。ピンクのバラの花が咲く生垣の前に、ターニャとルビィと同い年くらいの女の子が並ぶ。オレンジがかった薄い茶色の長い髪に、丸くて大きな蜜色の瞳。やはり猫族は小柄なので、ターニャよりだいぶ小さい。ノーチェと呼ばれた子よりも小さかった。どことなくルビィと雰囲気が似ている。並ぶ二人はまるで仲のいい姉妹みたいだ。
「クルミ!!」
突然ルビィは私の方へ、正確にはアルバムへと身を乗り出した。
「クルミ⋯⋯?」
「ルビィ、クルミと知り合いなの!?」
ターニャもびっくりして、声が裏返っている。
「クルミ、ルビィの、ともだち。ちいさいときから、ともだち!」
どうやら幼なじみのようだ。
「こんな偶然もあるのね」
「まさかクルミとルビィが顔見知りとは。世界って案外狭いなぁ」
ルビィはアルバムを持ってまじまじと見入っている。その横顔は懐かしそうで、少し寂しそうでもあった。
「そうだ、私せっかくだから旅先からノーチェとクルミに手紙を書こうと思って、レターセット持ってきたんだ。ルビィも書く? クルミにお手紙」
「うん! かく、かくのー!」
「クルミちゃんもターニャからの手紙にルビィの手紙も届いたらびっくりするかもね」
ターニャを呼んだのはほんの思いつきではあったけど、ルビィは故郷の友人と写真という形ではあるが再会できて、私たちの間にはやっぱり『縁』がある気がする。
いや、そう思いたい。
ルビィを撫でながら、この愛しい存在がいつまでも傍にいてくれたらいいのにと私は願っていた。
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