第92話

「赤字、ですか?」


 セラが珍しく首を傾げている。どうも赤字の意味が伝わっていないようだ。


 ――悪魔社会で赤字って言葉は使わない……いや、ないのか?


「入ってくる感情値よりも、出ていく感情値の方が多いってことだ。ほら、これを見れば分かる」


 俺が見ていた魔法紙をセルに見せてやる。


「……なるほど。これは日ごとに集計してありますが……

 一日の支払いや、納める感情値が、獲得した感情値よりも上回ってしまった値を赤のインクで記してありますね……

 たしかにこれは赤字ですね……クロー様は面白い表現をなされる」


「えっへん。僕が分かりやすいように黒と赤、二色で記してみたカナよ」


 マカセルカナが鼻の下を擦りつつ得意気に胸を張る。

 俺はただ単にマイナスになっていたから赤字と言ったんだが……面倒なので、そういうことにしておく。


「ふむ。さすがマカセルカナ。これは見やすくて、なかなかいいぞ。だがしかし、なぜこうも……毎日繰越される感情値が赤字になってるんだ。いったい何が原因なんだ?」


 マカセルカナがきょとんとして目をパチクリさせた。


「クロー様は、何をそんなに心配しているカナ? よく見るカナよ。ほら、ここカナよ……」


 マサセルカナが身を乗り出し枠外に書かれたケタが三つほど違う数字をぽんぽんと指差した。


「ここカナ。これカナよ」


「……この数字は何だ?」


「これはディディスとその配下討伐の報酬カナ。その報酬がとんでもなくあるカナよ。だから、クロー様はそんなに心配する必要ないカナよ?」


 そう言ったマカセルカナはタレ目で、俺を不思議そうに見つめてくる。


「クロー様……失礼ながら申し上げますと、たしかにこのまま何も手を打たずにいれば数年先でしょうか……いずれこの報酬を食いつぶし支配地運営も行き詰まることでしょうが……

 これだけ大きな感情値なのです。この感情値を計画的に運用に回してクロー様の支配圏域を拡げていけば、獲得する(入ってくる)感情値も、確実に増加致します。

 私もマカセルカナの言う通りそれほど問題とは思えないのですが……」


「ふむ。支配圏域の拡大か……なるほど、それなら入ってくる感情値は確実に増えるな……なら、そう心配することも……」


 そこで俺はふと『願い声』の存在を思い出した。


 ――――

 ――


 この支配地に来て三日経った。たった三日しか経ってないのに俺の担当した願い声はすでに18件を超えていた。

 そのほとんどがセラの言った通り『復讐』だった。何か物を欲しがってくれれば所望魔法一発で楽なのに。


 裏切った彼氏への報復だったり、二股かけていた彼氏への報復だったり、裏切って逃げた夫への報復だったり、浮気して開き直る夫への報復だったり……


 なんだよこれ。この街の男どもは何をやってるのだ。と小一時間ほど説教したくなったが、俺には関係ないことだと思い直し女性たちの望む悪因を刻んでやった。


 だが、この女性たちの望む悪因のほとんどがアレを使えなくする、と言ったものが多くて、腫れる、膿む、小さくする、痒くする、常に痛みが発生するなど、なかなかえぐい内容。


 さすがに、今後もこのような悪因を望む女性が増えれば、この都市は繁栄どころか人口減少に繋がりかねないと危惧した俺は、期限を設けてやった。


 俺に感謝しろよ男ども……


 そんな俺たちの狙いは感情値をより多く獲ることと他所の悪魔に割り込む隙を与えないこと。


 だからこそ俺たちは、必死に願い声を一人として漏らさず叶えてやり、その対価に昂ぶっていた人族の感情を貰っていく。


 でもこれ、悪魔界隈では当たり前の事らしくなかなかのブラックだ。


 おっぱい揉み揉みを対価にしないとやってられんわ。

 男どもに悪因を刻んで荒んだ心をおっぱいに癒したもらうのだ。


 それで獲られる感情値が減ることもないしな。


 ただ、一つ不可解というか理解できないのが、超短期契約者であった女性たちから対価をもらった後、その女性たちはなぜか俺に熱い眼差しを向けてくる。しかも、勝手に服をまで脱ぐ。


 これは一人じゃなく俺が担当した全ての短期契約者に見られた行動でほんとどうしてなのだろう。


 もちろん、俺はすぐにブラックアウト(記憶飛ばし)させる。

 もったいないと思うが時間もないし俺には可愛い妻たちが待っているからな……


 ちなみにブラックアウト(記憶飛ばし)とは悪魔なら誰でも使えるスキルの一つで、人族の短い間の記憶を消し去ることができるというもの。


 もちろん使用条件はシビアで、契約履行後、5分以内に使用しないと人族に効果がない。


 これを使って願い声を叶え感情値を奪った人族から悪魔と短期契約した記憶を削除する。

 その方が支配地を持つ悪魔にとっては都合がいいんだ。ほら、教会の聖騎士隊や国の魔法騎士団とかね。


 ちなみに俺たちが獲得した感情値の全ては、この屋敷の『管理の間』に設置された魔水晶に吸収されてしまう。

 そのように登録をしたのもマカセルカナ。


 これは管理悪魔であるマカセルカナが感情値の動きを全て把握するためであり、そうしなければならない。


 そして、ブラックアウトさせた人族のその後はというと、記憶がないので勝手にいつもの生活に戻っている。


 これは教会に俺たち悪魔の存在を悟られないよう、この地で長く感情値を奪うためだ。


 こうしてみると俺たち悪魔は欲望を叶えてやっているし、人族にとってもそんなに悪い存在のように感じないだろ? でもなんのなんの、人族がこれを何度も繰り返すと急激な感情の変化に心がついていけなくなり、狂ったり、精神や人格崩壊、を起こしまともな生活が送れない身体になってしまうのだよ。やっぱり悪魔は悪魔さ。


 ん? 妻たち? 妻たちは別だ。妻たちは俺がちゃんと回復魔法を付与した装備品を手渡しているし、俺も毎日その様子をスキルでチェックし心と身体のケアを忘れない。


 支配地持ちの悪魔からすれば、人族が狂ったり、精神や人格が崩壊してくれた方が獲られる感情値が多くなるので、進んでそうする支配地持ち悪魔もいるんだとか。


 ――俺は嫌だけど。


 ――――

 ――


 ここ3日間のことを思い出していた俺は、


「なあセラ。一つ聞いてもいいか?」


「はい。なんなりと」


「その『願い声』のことだが……その支配圏域を拡げると、その願い声の数は増えるのか?」


 これは重要なことだ。今でも俺のゆとりある生活がなくなりつつあるのに、これ以上となると夫婦の営みにも影響がでる。


「はい。それは当然に増えると思われます」


 セラがにこりと優しい笑みを浮かべた。セラは偶にこの笑みを俺に向ける。嫌味も何もない美人の笑み。これだけで普通の異性ならば、ころりと落ちてしまうだろう。


「対象の人口が増えるカナよ、当然カナよ」


 一方のマカセルカナはそんなこと当たり前のことよ、といった様子で俺を見上げてくる。


 ――やはり思った通りか……


「うーん。よし……その案は一旦保留だな」


 俺の言葉にセラとマカセルカナが一瞬だけぽかんとして目をぱちくりする。


「……ん〜なんでカナ?」


「俺が忙しくなるからだ。だからといって今すぐ配下を増やすなんてことは考えてないぞ」


「……うーん」


 ――セラとマカセルカナの考えが確実で間違いない。それは分かっているんだが……これ以上、せかせかしたくないんだよな……せかせかしても、もっと……こう……うーん、なんか違うのだよな……


「ふむ。しかし、なぜこんなにも赤字なんだ?」


 ――支配地のどこが悪い?


 俺は再び魔法紙へと視線を落とし、そして気づいた。


 ――あれ?


「なぁ? マカセルカナ……この他の経費と比べてもダントツにバカ高い使用料って何なんだ? 

 これだけで一日の獲得値を超えているんだが……」


「ん? どれカナ……ああ、それはクロー様の空間使用料カナよ」


 マカセルカナが俺が見ている魔法紙を覗き込み、何でもないことのようにさらっと言う。


「空間使用料? 悪魔界のこの空間には使用料が発生するのか?」


「そうカナ。空間使用料は支配地持ち悪魔みんなが払っているカナ」


「支配地持ち悪魔は、みんなこのバカ高い使用料を払っているのか?」


 ――これを払えるってほかの悪魔って何気にすごくないか? くそ〜、格が上がれば少しは楽になるかもって少しは期待したのに、逆だったのか。逆にゆとりが無くなってるぞ。


「そうカナよ。あっ、そうだったカナ。忘れていたカナ。クロー様の空間はなぜか第2位格悪魔の広さがあるカナよ。

 だから空間使用料も第2位格悪魔並に高くなってるカナよ」


「はあ? それはどういうことだ?」


 そこで俺は、前に支配していたディディスが第2位悪魔だったことを思い出した。


 ――ディディスと何か関係あるのか?


 思わずセラの方に目を向ければ何やら焦った様子、に見えないこともない。

 じっと見つめているとセラはバツが悪そうに眉尻を下げた。


 ――ふむ。


「セラ……何か知っているのか?」


「……はい……と言いたいところのですが、実は私もよく分からなかったのです。お恥ずかしい限りです」


 ――なるほど、どうりで耳が少し赤いはずだ。


「そうか……」


「はい。私がクロー様のためを想い、新たな使用空間を生み出した時にはすでにこの広さになっておりましたので」


「ふむ」


「私はクロー様の実力ならば当然だと思い、今の今まで何の疑問も抱いていなかったのです。本当に申し訳ございません」


 セラが綺麗な動作で頭を深く下げた。


 ――女性に頭を下げられると居心地が悪いんだよな……


「気にするな。セラのせいじゃないさ」


 ――分からないものはしょうがないし、しかし、これからどうするか……


「はい。しかし……」


「いいんだ。それよりも……俺はこれからのことを少し考えたい。一人にしてくれるか?」


「……はい」


「わかったカナよ」


 マカセルカナはてくてくと普通に歩いて部屋を出ていったが、セラは何かモノ言いたげにしながらも、結局は何も言わずにゆっくりと部屋を出ていった。


 ――参ったな。このまま支配地を増やした所で忙しくなるのが目に見えている…………だが、このまま何もしなければ……いずれ余剰の感情値を使い潰す、よな……でもそれだけは避けたい。

 はぁ、やはりセラとマカセルカナが言ったように手頃な支配地を拡げるのが無難なのか……


 俺は椅子の背もたれに寄りかかり、しばらく考えていたが、何もいい案が思い浮かばなかった。


「ああ、やめだ。やめだ。まだ始まったばかりだ。よし、こんな時は気分を変えてやる」


 ――ナナは願い声を聞き人界に出かけていった、イオナは任務中……ライコとセリスは、たしかに外で……


 俺は窓際までいくと、何かが激しくぶつかり合う音がする方角を眺めた。


 ——いたいた。


 セリスとライコは気が合うのか、暇を見つけては二人でよく模擬戦をしている。


 ――今日もやってるな。ふむふむ。セリスはいつも元気だな。ふむ。ライコも……頑張れ……


 そして、遠目からでもセリスはよく見えた。ライコはよく見ないと分かりづらい……


 ん? 何がって? やだなぁ、おっぱいとびちちの揺れですよ。


 ――……。さて、エリザとマリーは見当たらないが何をしてるのだろうか? えっと、ふむ。エリザは部屋にいるのか……


 急にあれこれ考えた反動だろうか、エリザと二人でゆったり過ごしていた日々が懐かしくなった。


 ――あの時は馬車の中だったが……よかった……お!


「久しぶりに猫にでもなってみるか……」


 俺は懐かしの白猫に姿を変えるとエリザの部屋に転移した。


 ――おっ!?


 転移してすぐ、目の前で二つのプリンが揺れていた。ふふふ、狙った通りの位置に満足。


「あら? 白猫?」


 一方のエリザは首を傾げて俺を見ている。突然のことで戸惑っているのかも、でも可愛い。


 ――ふふふ、驚いている、驚いている。


 俺を見るエリザの目がどんどん大きく開いていく。


 ——よしっ!


 今がチャンスとばかりにエリザに飛びつこうかと思ったその時――


「まあクローなのね」


 すぐにバレた。


 ――なんと……


 エリザが俺の前に屈み笑みを浮かべる。


『ぬ? よく俺だと分かったな』


「やっぱりクローだったのね。ふふふ、ああ、懐かしいわ」


 エリザがそのまま俺を抱き上げ頬ずりすると胸に抱いた。あの時の定位置だ。

 エリザの柔らかなおっぱいが直に感じられる特等席なのだが、


『エリザの生おっぱいは最高だな』


「んん?」


 エリザが首を傾げ、自分の姿を確認した。


「あら、そうだったわ。ふふふ、嬉しくてつい裸のまま抱き上げちゃったわね。あっ! クローはまだその姿のままでいてよ」


 そうエリザは全裸だったのだ。いい時に来たもんだ。


『ふ、ふむ……そのままでもいいんだぞ』


 エリザは俺を床に下ろすとぱたぱたと急いで服を身につけはじめた。


 ――ああ……あんなに揺れていたのに……


 もっと堪能しておけばよかったと少し後悔した。


「さっきまで私とマリーもね、セリスさんたちと模擬戦をしていたの……だけど、セリスさんとライコさんの体力にはついていけなくなって上がってきちゃった。バテたのね」


『ほう。エリザもマリーも模擬戦をしてたのか……』


「そうよ。あの二人の体力はさすがよね。私たちも、結構頑張ったんだけど、二時間も動きっぱなしはやっぱり疲れちゃって……それで、ゆっくり休憩でも取ろうかとマリーと一緒に先に上がったの。今はちょうどシャワーを浴びたところね」


 よく見ればエリザの髪はまだ濡れていて、今はタオル(俺が出した物)を髪に当てながら水気をとっている。


「今はこれくらいでいいかな。ふふふ、つかまえたわ」


 早々と着替え終わり頭にタオルを巻いたエリザは俺をがっしりと掴み、またもや頬ずりしてから胸に抱いた。


「ああ、この触り心地。やっぱり懐かしいわね」


『そうか?』


「そうよ。ふふふ……さて、クローはそんな姿をしてるけど、何かあったのかな?」


 そう言ったエリザは俺を胸に抱いたままゆっくりと椅子に腰かけた。


『ぶっ! お、俺に、な、悩みなんてあるわけないだろ』


 エリザに当然そう言われてびっくりする。


 ――エリザが鋭い……しかし、得たばかりの支配地のことで悩んでいると知られたら……管理もできないバカな男だと思われるではないか……


「やっぱり悩みがあるのね……はい、クローさんは何を悩んでるのかな? あなたの妻である私に言ってみなさい」


『クローさん? え? なんで、なぜバレた』


「ふふふ。クローが自分で言ってたからよ」


 エリザが口元隠しクスクスと笑っている。


 ――なんと……俺は自ら墓穴を掘っていたのか……


「ほらほら、そんな顔しないの。いいじゃない。たまには私もクローの役に立ちたいのよ」


 そう言ったエリザは猫になった俺のヒゲをちょんちょんと左右に引っ張った。


「悩み事は話をするだけでも楽になると聞いているわ」


『ふむ……』


 俺は、優しく気遣ってくれるエリザにちょっとだけ支配地の現状を語った。


 感情値を増やすためにこれから今以上に忙しくなるかもしれないと……


 エリザに話をしたところで問題が解決したわけではなかったが……


 それでも、嫌な顔一つすることなく、頷きながら聞いてくれるエリザに話したことで、自分の中である程度整理することができた。


 これが今すぐに解決できる問題でないということを。いい考えが出なかったとしても報酬があるから最悪な展開にはならないという事を。

 だから時間が許す限り思いついたことを一つ一つ試して行こうと。


 気づけば思い悩み沈んでいた気持ちがウソのように晴れていた。

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