第42話

 少年の手にある悪魔大事典から黒い靄がすごい勢いで溢れだした。


 その黒い靄はだんだんと色濃くなり黒煙となる。

 そして、その黒煙はまるで生きているかのように少年の頭上でグルグルと渦を巻き膨張する。


 ――む、召喚されるな……


 やがて膨張した黒煙は中心に向かって集まると、黒くて大きな塊が一つ現れた。


 黒い塊はぐにゃりぐにゃりと何度もうねり歪な形を繰り返す。

 一度圧縮され小さく縮んだかと思えば、大きく膨張したかと思えば、塊の中に成人男性の二倍ほどの大きさはある異形なシルエットを浮かび上がらせた。


「クロー、これって……」


 この状態にまでなれば人族の目でも目視できるようになったのだろう。妻は顔色悪くして、俺の服を引く。


「悪魔が召喚されるな……」


 ギルド内は突如として現れた黒くて大きな塊に騒然となる。


「なんだ、どうした」

「あれはなんだ!」

「ちょっとなんかおかしくないか!」


「なんだ、どうした……」

「お、おい、あれはなんだっ」


 新しくギルドに入ってきた冒険者たちも周りの異常な雰囲気に呑まれ、同じように騒ぎ立て始めた。


「これが……悪魔召喚……」


 マリーも周りと同じように黒い塊の禍々しさに呑まれ視線はその塊に釘付けになっていた。


 一歩間違えればマリーも同じ様に悪魔召喚を行っていたかもしれない。そんな状況を思い浮かべているのだろうマリーは小刻みに震え顔色を悪くしていた。


 ――あれを正常な状態で見ればそうなる、か……


 そんな中、地の底からわき上がるような低い声がギルド内に響き渡った。


《ワレヲ……ヨビダシタノハ……キサマカ……》


 不安や恐怖を煽るその声に慌ただしく騒然としていたギルド内はピタッと静かになった。


 見れば人々は恐怖に震え上がり口を開くことすら困難な状態に陥っている。無理もない話だった。その悪魔は人族が抵抗の意思を持たぬよう常に威圧しているのだから。


「ヒィ」

「あわわわ」

「あ、ああ…」


 更にその存在がハッキリと姿を現しすと腰を抜かす者や、泣き叫ぶ者まで現れた。


 ――頭が骨、そんな悪魔もいるのか……


 そいつの頭は額に一本の大きな角があるネズミ……の骨だった。


 ただ胴体の方はネズミその物で黒い体毛に覆われ背中には、コウモリのような羽がある。手足には鋭く尖った長い爪が二本ずつあり、二本足で降り立った瞬間からギルド内の床がメキメキッと音を立てて両足が少しめり込んでいるのが見えた。


 まさに禍々しくも異形な存在。俺なんかよりもよっぽど悪魔らしく見えて、少し腹が立つ。


「ひぃぃぃぃあ、悪魔だぁぁ!」

「きぁぁぁ」

「だ、誰かぁ、早くクルセイド教会に行って聖騎士様を……」


 辛うじて悪魔から離れていた人々だけが、どうにか動くことができ、数人ほど這うようにしてギルドを出て行く。


『俺です。悪魔様を呼んだのはこの俺です』


 悪魔を呼び出す前は、悪魔大事典に取り憑かれ目の焦点もあっていなかったはずの少年が、今は悪魔を前にして、しっかりとした口調で応え両膝を地に着けて頭を下げた。


 見方によってはこの首を捧げますという意思表示にもとれたが、少年のこの行動によって悪魔の意識が少年に集中し、容赦なく放たれていた威圧感が少しだけ軽くなった。


「く、クロー……」


 彼女たちが不安げな表情でどうにかできないのかと俺の方に視線を向けていた。


 ――少しは和らいだとはいえ、二人共、まだ慣れない恐怖に取り憑かれて恐ろしいと思っているはずなのに、よく動けたものだな……だが……


「今はダメだ、手が出せない……あれは召喚者とそれに応じた悪魔が、契約の交渉に入ってしまっている。

 それに……今、手を出したところで……」


 俺は彼女たちに少年と悪魔の方を見るように指を指した。


「ちょうどいい、アイツらを見ているといい」


 悪魔からの威圧感が緩んだことで、動けるようになっていたらしい四人の冒険者が、恐慌状態に陥り、悲鳴とも雄叫びともとれる情けない叫び声を上げながら、少年と悪魔に斬りかかって行くのが見えた。


「うわぁぁぁぁ!!」

「わぁぁぁぁっ」

「しねぇぇぇ」

「きぇぇぇ」


 だが次の瞬間には、冒険者たちの攻撃はカキンッという甲高い音と共に見えない壁に阻まれていた。


「な、何を、このおぉぉぉ!」


 その後も、四人は狂ったような必死の形相で何度も何度も斬っては弾かれている。


「きぇぇぇ」


 さらに狂ったように斬りかかるものだと思っていたが、そのうちの一人の冒険者が、ようやく無理だと理解したのだろう、


「む、無理だ……ひぃ、ひぃぃぃ」


 悲鳴を上げながらさっさとその場から逃げ出した。


「ま、待て、ぉぃぃぃ」

「逃げるぞ」

「え……」


 残りの三人もようやく理解したのか、悲鳴を上げ這いつくばる格好で逃げだした。


「どうだ分かったろ。悪魔大事典が絶対障壁を張っているんだ。

 しかもその障壁は剣も槍も鈍器も、そして魔法さえも通さない。だから手を出したくても今は何も手が出せないんだ」


「そんな……」


「あの子、あの少女の方は大丈夫かな……」


 マリーはアイナと呼ばれた少女に顔を向けてからそう呟いた。


「あの子って……」


 妻もマリーにつられるようにその少女の方に顔を向ける。

 その少女は隅の方で膝を抱えててガタガタ一人で震えながらも兄の事を心配そうに眺めている。


「っ……マリー行くわよ」


「へっ、え、エリザ?」


 妻はそう言うと、その少女に向かってスタスタと歩き出した。

 そんな妻を見てマリーも何かしら察したらしく妻の後をすぐに追いかけていった。


 ――ふむ。


 彼女たちは動けるまでに回復していたようだ。


 ――しかしだ。俺も、こんな人族が多い場所で、他の悪魔に会いたくないんだよな……


 そんなことを思いつつも悪魔と少年の様子を探ることはやめない


《オマエハ……ナニヲ……ノゾム》


『はい、この世界全ての人々の死です。こんな世の中滅んでしまえばいいんだ。みんな、みんな死ねばいい。これは俺が命を捧げれば叶いますよね?』


 不思議と悪魔と少年の会話は静かなギルド内に響き渡っていた。


「な、なんてことを言いやがるんだあのガキ!!」

「に、逃げろぉ……ここに居たら殺される……」

「待て! おい! 置いていくなよ……」


 当然である。巻き込まれることを恐れたギルド内に残っていた職員や、冒険者たちが次々とギルドから外へと逃げ出していく。

 あの受付嬢も居ない。俺が倒した冒険者たちも誰かに担がれたのかいつの間にか居なくなっていた。


 俺に声を掛けてこようとする者はいないが、妻やマリーには、男性の冒険者たちから一緒に逃げるように声を掛けられているが、彼女たちは首を横に振って拒否している。


 冒険者たちは名残惜しそうにしながらも悪魔と彼女たちを見比べてから最後には悔しそうにしながらもギルドの外へと逃げていった。


 瞬く間にギルド内は俺たちと少女、少年、悪魔のみとなっていた。


《スベテハ……ムリダ……オマエノ……イノチ……チイサイ》


『で、では、この国の人々を……こんな荒れた国は必要ない』


《ダメダ……オマエノ……イノチデハ……タリナイ》


 ――見かけによらず知恵の回る悪魔だったようだ。


 あの悪魔は少年の願いが、容易に叶えられる願い事になるまで引き下げるつもりなのが透けて見えていた。


『そ、そんな……では、この町に居る人々……俺たちをバカにした、この町の住人と冒険者どもを……』


《ダメダ……オマエノ……イノチ……マダタリナイ》


『ち、畜生!! 俺の命の価値ってそんなに小さいのかよ! くっ、ううっ。もういい。

 じゃあこのギルドを壊してよ。俺たちをバカにするだけで、役に立たないギルドなんて無くなればいい……』


 悪魔がニヤリと口角を上げる。悪魔の頭は骨だけで、表情なんて無いのだがそんなキナ臭さを雰囲気で感じとれた。


 ――おいおい、そんな安っぽい望みで命を捨てるのか……ふん! まあ、少年が自分で決めたことだしな、俺には関係ないか……


《ソレナラバ……タイカニ……ミアウ……ダロウ。ソノ……ノゾミ……カナエテ……ヤル》


 少年と悪魔の契約が締結され、悪魔大事典の絶対障壁が消失した。


《ショウネン……マッテイロ……スグ……オワル》


 ネズミの悪魔は唸りながら右手に悪魔力を集め出した。


「クロー、障壁が消えたわ……お願い!」


 いつの間にか妻とマリーは少女を連れて俺の傍に戻って来ていた。


「エリザ……」


 彼女たちのガントレットには金剛力が付与されている。服装の乱れからも、どうやらエリザが少女をおんぶして連れてきたようだ。


 今は彼女たちが少女を間に挟み左右の手を取り、それぞれ優しく繋いであげている。


「冒険者様……お願いお兄ちゃん……助けて」


「クロー、ボクからもお願い!」


 ――むむ。


 正直男なんてどうでもよく感じる。でもこれは普通じゃない。多分このように感じるのは俺が女性専用の契約悪魔のせいで、そう教育(睡眠学習)されているからだろうと思う。


 ――悪魔の本能に惑わされるなよ俺……


 本来なら何も迷うことはなく断るところだった。

 ……でも三人の女性にお願いをされて、それが人として間違っているということに気づく。悪魔だけど……


 ――だが……


 本能が嫌だと訴えている。ならばと、俺は意識を切り替えて見ることにした。


 まずお願いされた一人目は妻のエリザ。俺の契約者で今は俺の美人妻。美人なのに可愛さも兼ね揃えた俺の護るべき女。おっぱい大きい。


 ――うむ。


 次はマリー。契約だが、俺の冒険者仲間だ。童顔で無邪気に笑う彼女は可愛らしくやはり俺の護るべき女。ちっぱい装備。


 ――うむむ。


 もう一人はアイナと言っていた。13歳くらいの少女だな。磨けば光りそう、おっぱいはちっぱいっぽい。発展途上なのか?


 あの悪魔を放っておけばそんな彼女たちを危険に晒すことになる。爽危険に晒すことに気……


 ――考えるまでもない。振りかかる火の粉は払い除けないとな……

 だから俺があの悪魔に手を出しても仕方ないことなんだ……うん、仕方ないこと。

 だからこれは契約違反でもなんでもないんだ……さぁ、これでどうだ。


 するとどうだ。拒否していた本能までもが乗り気になっている。妻たちに良いところを見せろと逆に訴えてくる。今夜は激しくなりそうな予感……


「分かった、任せろ!」


「「クロー」」

「冒険者様」


 彼女たちの俺を見つめる眼差しが気持ちいい。かなり期待されていることが分かる。


「三人はそこで待ってるんだぞ」


「はい」

「うん」

「ぁ……」


 俺は彼女たち三人の頭を優しく撫でると、少しだけ格好をつけて足を一歩前へと踏み出した、その時……


 バァァンッ!!


 俺の進行を遮るかのようにギルドの入口の扉が激しく開いた。


「くっ! 悪魔が既に……神父様どうやら少し遅かったようです!」


「そうみたいじゃなぁ」


 ヨボヨボのお爺ちゃん神父を、聖騎士の格好をした20代前半の女性が背負って勢いよく入ってきた。


 お爺ちゃん神父は真っ白くて長い眉毛でその瞳はここからでは見えない。

 髪の毛はなくツルツル。如何にも聖職者といった感じの法衣と分厚い聖書を両手に抱えていた。


 一方、聖騎士の方はキレイな銀髪を後ろで一つ結びにしていた。凛とした整った顔立ちをしている。


 そのお爺ちゃん神父はゆっくりと聖騎士の背から降りると、何事も無さそうな顔で聖書を広げた。


 ――なっ!!


 だが俺は見た、お爺ちゃん神父が聖騎士の背から降りる時、どさくさに紛れ、聖騎士のお尻を触るのを……


 ――むむ、あんな美人聖騎士に背負ってもらいながらも尚且つお尻までも触るとは……聖職者としてあるまじき行為……け……けしからん……


 その聖騎士は、頭と腰以外は聖騎士らしい白銀の鎧を身に纏っていた。


 腰周りの鎧を身につけていないのは、動きを妨げるから外してるのか、それとも馬に股がって急いで来たからなのか、その理由はよく分からないが、今回は、そのせいでお爺ちゃん神父の癒しにされたようだ。女性聖騎士のムチッとしたお尻が。


 でもその女性聖騎士の方は職務に堅実なようで、何事も無かったかのように右手は剣の柄に触れ、いつでも抜剣できるように構えて、お爺ちゃん神父の隣に並んでいた。


「神父様、よろしくお願いします」


「うむ」


 お爺ちゃん神父はのんびりとした口調で悪魔に語りかける。


「悪魔よ、お主の名を申せ」


《オマエ……セイショクシャ……カ……バカメ……ダレガ……オシエルカヨ》


「素直に言えば良かったものを……」


 そんな悪魔の態度をまた女性聖騎士が抜剣し構えるが、その剣には剣身がない。


 俺が不思議に思って見ていると柄の先に魔力の刃がすぐに現れた。


 ――ほう。聖剣か……


《ギッ!!》


 それは聖騎士の聖剣だった。あのネズミは聖剣が現れると少し怯みだした。


 本能であの聖剣が危険なモノだと察したのだろう。そのせいでせっかく集めた悪魔力が少しずつ漏れている。


 ――あの悪魔、聖剣を見ただけであの怯えよう、たいしたことなかったか……


 そんな時だった。


 ――?


「せ、聖騎士様……はやっ、俺達もAランク冒険者です。力になります!」


「ちょっとカイル一人で先に行かないでよ……」


 ギルドの入口から来なくてもいい奴が入ってきた。


 ご丁寧にカイルから少し遅れてニナ、アルマ、サラの三人まで。

 カイルのパーティーメンバーまでもちゃっかりと入ってきていた。


「聖騎士様、俺が助太刀に来たからにはもう安心です」


 カイルは、図々しくも女性聖騎士の横に並び立つと髪を掻き上げ微笑み浮かべる。


 そして聖騎士に向かって親指を立てたかと思えばキランッと白い歯をみせつけていた。


 ――お前ら要らんだろ……

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