第37話

 ふわふわ浮いている感じがする。

 この感じは前にもあった。


 ――……夢、か……


「……なるほど。俺はまたエリザの夢の中にいるのか?」


 視線を落とせば俺は小さな村らしき集落の上空でふわふわ浮いていた。

 でも今回は猫の姿ではなくちゃんとした悪魔の姿だった。よかった。


 ――ん?


 自分の姿を確認していると、妻エリザの姿が視界の隅に入った。


 ――うはっ!


 妻も俺と同じようにぷかぷか浮いていた。全裸の姿で。それでも仰向けで浮いている妻はとても気持ちよさそうに寝ている。


「おーいエリザ」


 すぐ近くにいるので、俺は妻の傍まですいすいっと平泳ぎで近づき、


「おはようさ……ん?」


 おっぱいを両手で遠慮なく揉んでキスをする。最近はこうやって起こすことが多い。特に理由はない俺がそうしたいから。


「あれ? 起きない? ……起きないともっと揉んじゃうぞ? ほらほら」


 もみもみ、もみもみ。


 ――?


 もみもみ、もみもみ。


 ――??


 もみもみ、もみもみ。


「……んん?」


 いつもならすぐに目を覚ましてうれしそうな笑みを浮かべて抱きついてきてくれるのに。


「起きない……?」


 残念。すごく残念。でもおっぱいを揉む手は休めない。何度もキスをしてみる。けど妻に反応はない。


「すーすー」


 気持ち良さそうな妻の寝息が俺の耳に入ってくるだけ。


「ということは……」


 ここは妻の夢の中ではないという思いに至る。


「これは……マリーか……マリーの夢の中、なのか……」


 意識すれば、妻との繋がりとは別にもう一つの繋がりを感じる。


 ――あっちか……


 それは数十件ほどある小さな小屋のような建物の集まり。その中に一件だけ道具屋らしき建物があり、その建物の中から繋がりを感じる。それがたぶんマリーなのだろう。


「そうか。契約履行する前にマリーたちが寝てしまったら俺も寝てしまって……契約したままだったからか」


 冷静になって考えればすぐに理解できた。さすがは俺だと思いつつ、マリーの夢の中ならば妻が起きることはないという思いに至る。


「む、暇だな……」


 しばらく妻のおっぱいを揉んでいたが、これは妻の反応があって楽しめるもの。全く反応してくれない妻のおっぱいを揉んでいても気持ちがいいことには変わりがないのだが、嬉しさが半減するというか、いや、かなり虚しく感じてしまう。


「……エリザは起きないからな、マリーの様子でもちょっと覗いてみるか」


 寝ている妻の傍を離れるが、俺の繋がりで守られている妻に危険はない。妻はきっと別の夢を見ているはずだろうし。

 せっかくなので俺はそのマリーの繋がりを感じる建物の中を覗いて見みることにした。


「エリザ、ちょっと見てくるよ」


 当たり前だが妻から返事はない。俺はキスをしてから妻の傍を離れると、マリーとの繋がりを辿ってその建物に入ってみた。


「パパ、これはここでいい?」


「ありがとう。そこでいいよ」


 六歳くらいの女の子が、たぶんマリーだと思うが楽しそうに商品を並べていた。父親のお手伝いをしているのだろうか。


 目元が似ている優しそうな男がカウンターから、ちょこちょこ動く小さなマリーを見て笑み浮かべている。


「次はこっちする」


「マリー、それ少し高いところに置くからパパがやるよ」


「はーい」


 しばらく眺めていて分かったが、マリーに母親や兄弟はいないようで、道具屋を営む父親と二人暮らしだったようだ。


 ――ふーん。


 だが、そんなのどかな光景も突然暗転したかと思えばその様子が変わっている。


 ――どうしたのだ?


 暗転してから、明るくなった俺の目の前に広がる風景は、先ほどと変わらず道具屋の中だったが、カウンターに座るマリーが成長していて十歳くらいになっていた。


 だが、その見目が、どこかやつれていて彼女に元気がない。


 ――マリーに何かあったのか……


 不自然すぎる情景を、しばらく眺めていると、突然部屋の奥から意地の悪そうな恰幅のいい女とその子どもらしき太った女の子が現れた。


「ほらマリー、暇で仕事がないならさっさと昼食の準備をしなっ」


「……」


「なんだいその眼はっ。誰のおかげで今の生活ができていると思ってるんだいっ!」


「きゃっ」


 マリーが、意地の悪そうな恰幅のいい女に頬をパシッと叩かれ床に転がる。


「ははは、居候のくせに言うこと聞かないからさ」


 恰幅のいい女と、マリーと同い年くらいの太った子どもがお腹を抱えてケラケラ笑っている。


「……」


「あんたは、パパが言うからここに居れるんだから働いて返すのは当然じゃない」


 そう言ってからまたケラケラと笑う。


 何があったかのか俺には全く分からないので、俺はその様子をしばらく眺めていた。


「ほら、さっさとやんな」


「ぐぅっ」


 そう言った恰幅のいい女が、またしてもマリーの頬をパシッ叩く。マリーの頬が赤く腫れあがった。


 その後、お昼の食事を準備したマリーだったが、そこにマリーの分はなく、その女の夫婦とその子どもだけが食事する。


 その食事中。俺はそいつらの会話を聞いて、だんだんとマリーの置かれている状況が理解できた。


 どうやらマリーの父親は流行り病で亡くなっており、その後に父親の弟家族が寄りつき後見人という名目で勝手に居座っていた。


 本来ならこの家はマリーの家となるはずなのに、弟家族が我が物顔で過ごしている。


 身を小さくして過ごすマリーは弟家族が食べ終わった後に、一人でその残りモノを食べているようだが、その残り物もほんどない。

 彼女がやつれてしまうのも無理もない話しだったのだ。


 今のマリーの背が低いのもこの時の影響が大きいのかもしれない。


 ――……


 でもさすがに、ここがマリーの夢の中だと分かっていても、十歳くらいの女の子がやつれ疲れたような表情で残り少ない食事を食べる姿は、目に余るというか、なんとなく気に入らない。あの弟家族も。


『我は所望する』


 見かねた俺は海苔がついた三角おにぎりを二つ所望し、マリーの傍に降り立つと、そっとおにぎりを少ない食事の横に置く。

 まあ、マリーは気づくことないだろうけど。


「だれ?」


「え?」


 でも、俺はマリーになぜか気づかれた。彼女が立っている俺のほうに顔を向けてくる。どうやら俺の姿も見えているらしい。


 ――そういえば。


 夢の中のエリザも俺が見えていたこと思い出す。


「……俺は悪魔のクローだ」


「あくまのくろー?」


 マリーは俺が悪魔だと言ってもピンときていないようだった。スプーンを口にいれたまま首を傾げている。


「まあいい。とにかく悪魔の俺はすごいんだ。敬うならこのおにぎりをくれてやろう」


「??」


 ――ふむ。分からないか。


「冗談だ。それを食え。お前は少し痩せすぎて見える。対価はどうせ夢から覚めたあとのお前からもらうんだ。遠慮なく食え」


 マリーは意味が分からないのか首を傾げたままだったので、俺はテーブルに置いていたおにぎりを手に取り、無理やり彼女の小さな手に握らせる。


「ほら食え。本当にうまいんだぞ」


 首を傾げたままの彼女は、無理やり握らされたおにぎりを不思議そうに眺めていたが、


「いい匂い」


 やがておにぎりから漂う海苔の香りに惹かれたのか、彼女はスプーンを置いたあと、両手で持ち直したおにぎりを口に入れた。


「はむぅぐ。もぐもぐ……もぐもぐ……こくん。おいしいっ」


 一口食べて飲み込んだ彼女の顔がパッと明るくなり、さらにもう一口とおにぎりを頬張る。


「そうだろ、そうだろ。お腹が空いている時のおにぎりは格別うまいからな。

 おっとデザートもあるぞ、このデザートも食え」


 俺はさらに甘みの強い苺を数個取り出して彼女が食べて空になっていた食器の中に置いてやる。


「うん」


 美味しそうに食べているマリーを見ていると、道具屋の方から不愉快な声が聞こえてくる。


 恰幅のいい意地の悪いあの女の声だ。


「そうなのよ、あの子ったらここに買いに来る冒険者に憧れてて困っちゃうのよ。

 でもね。ゆくゆくは自分も冒険者になって助けてくれた私たちに恩返しをしたいって言ってくれるものだからね。心優しいあの子の想いだもの、無碍にもできなくてねぇ。

 だから私たちはその夢を応援してやろうと思ってるのよね。だから余計に厳しく当たっちゃって、おほほ、心配してるのよねぇ……」


 マリーには聞こえていないだろうが、悪魔の俺の耳には良く聞こえた。しかもそれがウソだと言うことも。


 たぶん、マリーはいずれこの家から追い出されるのだろう、だから冒険者になっていた。


 ――うーむ。


 そんなことを思ってると、食べ終わっていたマリーが俺の顔をじっと見ていた。


「なんだ? 俺の顔に何かついてるのか?」


「ううん。あくまのくろーは優しいね。おいしいのいっぱいくれた」


 マリーが子どもらしい笑顔を見せた。


 ――ふむ。悪くはないが……


「まあ、なんだ。俺は悪魔だ。優しくはないぞ。対価だって普通に求めるしな」


「そんなことないよ。パパ以外に優しくしてくれたのはあくまのくろーだけだよ。あ、あとは……もだね……ざも優しい。ボク……だな」


「ん? よく聞こえないぞ」


 突然マリーの会話が途切れ途切れに聞こえて聞き取れない。


 ――そろそろ時間なのか?


 なんとなく彼女が目を覚ます、そんな気がした。


「ねぇねぇ、ボクも……払ったら……いいかな?」


「すまん、マリーよく聞こえん」


「……対価……いて……?」


「ん? 対価? 何か求めるものあるのか?」


「うん……、……いい?」


「よく聞こえないが、俺は悪魔だ。対価を払うのなら、俺ができることはなんでも叶えてやるぞ」


「よかった……ありがとうクロー」


 不思議と最後の声ははっきりと聞こえた。少女の声じゃない成長した彼女の声が。


 ――?


 その声がだんだんと小さく遠くなる。俺は夢から覚めるのだと理解した。

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