第35話

「……」


「それは……悪魔大事典なのよ」


「……」


 悪魔大事典を大事そうに抱えた彼女に、妻が何度か呼びかけているが全く反応がない。


 ――彼女は悪魔大事典に呑みこまれてしまったのか……


「エリザ、彼女はもう……」


「……クロー、どうにか……ならないの?」


 今にも泣き出しそうな表情で妻が俺を見る。こうなってしまっては俺の力ではどうしようない。悪魔大事典には干渉できない。


「すまん、せめて彼女に意識があれば……」


 俺は悪魔大事典を実際に目の当たりにするのは初めてだった。

 だが、俺の知識(睡眠学習)によると、悪魔大事典を召喚するには負の感情が必要になる。それも悪雲が渦巻くほどのかなり強力な負の感情が。


 恐らく彼女はその過程で負の感情に呑まれ感情を制御できなくなったのだ。


 だからといってその感情は静まることはなく、彼女の意思と関係なく膨れ上がり悪魔大事典を召喚するまでに達してしまった。


 悪魔大事典には強い意思と欲望を持って臨まなければならないが、負の感情に呑まれていた彼女にはそれができなかった。

 結果、彼女は意識までも呑みこまれてしまったのだ。


 このような場合、人族にとってロクなことにならない。というのも外に出たいと強く望んだ悪魔が勝手に召喚されてしまうからだ。


 そんな悪魔は人族のことなど餌としか見ていないヤツが多く、悪魔にとって都合のいい契約を締結されてしまうのだから。


「……」


 俺の言葉に妻が悔しそうに俯き下唇を噛み締めるが、それでも諦めきれなかったのだろう。妻は再び顔を上げ意識のない彼女の前に立つ。


「……ねぇ、お願い。私の声が聞こえたら返事をして! お願いっ」


 それから妻はゆっくりと悪魔大事典を抱く彼女に一歩、また一歩と近づき、ついには彼女の両肩に触れて揺さぶり始めた。


「お願い、マリー戻ってきて……お願いよ」


 それでも彼女に反応はない。


「エリザ……」


 俺は半ば諦め、悪魔が召喚された後、妻に危害が及ばぬよう備えようとした、そんな時だった――。


 ――?


「……だ、れ?」


 不意に彼女から声が漏れ、妻に視線を向けてきたのだ。それでも彼女の瞳にはまだ色がなく表情も乏しい。


「!?」


 ――意識が、これなら……


 本来ならアイツらに勘付かれるため、むやみやたらと人族に干渉しない方が望ましいのだが、目を大きく見開いたあと、嬉しそうな表情を浮かべた妻の顔を見るとそうもいかない。


 ちなみにアイツらとはクルセイド聖騎士団のことだが、今は彼女にリフレッシュの魔法をかける方が先なので割愛する。


「よかった。私はエリザよ。どう私のこと分かる?」


 妻が話しかけるタイミングで俺はリフレッシュの魔法を彼女にかけた。


 ――ちっ。


 悪魔大事典に阻害されているのか効果は思っていたより少ない。

 それでも先ほどより彼女の目に色が戻ってきているように感じる。


「……えりざ?」


 彼女からも弱々しいながらも先ほどよりしっかりとした口調で返事があった。


「そう、少し私とお話ししましょう。その悪魔大事典のことで、私体験者なのよ」


「たいけん……者?」


 ――体験者って……むむむ、まあ、確かに体験者であるな。


「そうよ」


 妻の優しい語りかけにこくりと頷いた彼女は、先ほどよりも意識がしっかりしてきたように感じる。


「あなたはマリーよね? マリーはその事典の使い方、もう理解しているわよね?」


 妻の問いに彼女はこくりと頷いたが、俺にはその意味がよくわからない。


「やっぱり」


「エリザ、それはどういうことだ?」


「? クローは知らなかったのね。あの事典、触れるだけで、使い方が何故か理解できるのよ」


「なるほど。そんな力が……」


 ――知らなかったが、でも悪魔召喚をさせたい悪魔大事典なら有り得ない話しではないか。


「そうなの。私の時は持ってるだけで……復讐のことしか考えられなくなったわ。

 そして気が付いたら悪魔大事典を開いていた……だから……」


 妻がチラリと俺の方を見る。


 ――早く取り上げろって事か……


 妻の言わんとすることが理解できた俺は、彼女の悪魔大事典へと手を伸ばす。


「いや! やめてっ。私からもう何も取らないで……」


 彼女が悪魔大事典を抱き抱え俺の手を振り払う。


「やはり無理か……」


 彼女は嫌だ嫌だと首を振り回し、しまいには悪魔大事典を自分の背中の後ろに回し取られまいと俺を睨んでくる。


 ――これは、まだ魅了されているな。


「……仕方ないエリザ。ここではなんだ。ひとまず部屋に戻るぞ……もちろんマリーも一緒にだ」


 俺はそう言うや否や彼女逃さぬよう、すっと横抱きに抱え上げ、抑えていた部屋へと戻った。


 当然ながら、彼女は暴れた。大きく足をバタつかせるからスカートは捲れ上がりパンツは丸見えになる。


 ちなみに彼女が身につけていたパンツは、冒険者が身につける女性用のふんどしみたいなモノだった。


 もちろんゴム紐ではない。ふんどしのように布生地を当て、持ち上げるように締め上げてから腰の辺りにくる布パンツの紐をぐるりと腰に巻き付け固定しているようだ。


 ――きつそうだが……俺が見る分には悪くないぞ……


 布生地の幅が短くハイレグみたいだった。俺にはこれもなかなか色っぽく見え、唆るものがあった。

 これはぜひ妻にも履いてもらいたいものだ。


「……エリザ」


「はい?」


「エリザも冒険者用の下着、履いてみな……」

「クローのバカ」


 俺が最後まで言う前に、それを遮るように妻が口を挟んだ。

 俺が何を言いたいのか察したのだろう。真っ赤にして顔を背ける妻が可愛いかった。


「マリーはここに掛けてくれ」


 部屋に戻ると俺は彼女をゆっくりとベッドの淵に降ろすと、そこに腰掛けさせた。


「俺をよく見ていろよマリー」


「?」


 相変わらず彼女は悪魔大事典を背中の方に回し俺に取られまいと目を細めて睨んでいるが、俺は構うことなく人化を解いて悪魔の姿を披露した。


 メキメキメキッ!


「ふははは! マリーよ。見て聞いて驚けっ――」


 と偉そうに言ってはみるが、俺に悪魔らしい威厳や迫力を求めてはいけない。


 俺の悪魔の姿は貧相なツノが二本。ひょろひょろと伸びたマンガみたいな悪魔のシッポ、コウモリのような翼が生えるだけ、牙が伸びるとか、爪が伸びるとか胸板がムキムキになるとかそんなこと全くないのだから。見た目ほぼ人族なのだ。


 自分で言っていてもなんだか惨めになる。


 けど意外にも彼女には効果があったらしく。


「あ、悪魔……?」


 なんと彼女は、俺が名乗りを上げる前に、俺が悪魔だと理解してくれたのだ。


「あれ、もしかして分かってくれたのか?」


 彼女はこくりと頷いた。俺はそれだけで気分が高揚した。


 悪魔としての自信を取り戻したというか、この気持ちをなんて表現していいのやら。嬉しくなった俺は胸を張り調子に乗る。


「よし、いいだろう。マリーは特別に何でも……「めっ、クローはまだ少し黙ってて」……はい」


 子ども叱るような口調の妻の一声で俺の気分は急降下した。


「もう理解してくれていると思うけどクローは悪魔なの。

 だから、その事典からわざわざ悪魔を召喚する必要はないわよ」


「? これ、いらない……の?」


「そうよ。私はその事典を開いたことがあるけど、本当に手に持っているだけで頭の中が復讐の感情で一杯になって、それだけしか考えることができなくなった……

 今でも開いた当時の記憶は曖昧でよく思い出せないけど……マリーは事典を持ったままだけど大丈夫?」


「ボクには何も聞こえない」


 彼女は大丈夫だと頷いた。


「そう、それなら良かったわ。

 私の場合、たまたま開いたクローのページが、悪魔なのにベッドで寝転がっていて、あまりにも場違いというのか悪魔らしくなくて毒気が抜かれ……たのだと思う……

 本当にたまたまだったの。運がよかったわ。私はクローのページを見て少しずつ冷静になり、意識がハッキリとしたのよ。今思い出しても本当に不思議だわ。あれは、クローが助けてくれたの?」


 そう言ってから妻が俺を見る。釣られて彼女も俺を見ている。


「いや……俺にはよく分からんな」


 ――しかしベッドで寝転がっていたって……なんだよ、俺のページは。なぜ、もっとカッコいい姿を載せない。


 悪魔大事典からの扱いに不満を持った俺に気づくことなく妻は話を続ける。


「でもそれからが大変だったわ……そこで冷静になれたから悪魔召喚はやっぱり止めようと思い留まったのだけど……

 何故か事典を閉じることができなくなっていたの……戸惑っているうちに触れていた両手も離れなくなってしまった。

 たぶん手遅れだったのよ。悪魔大事典を手にした時に理解していたからこそ、もう私は終わりだと思った。怖かったわ。

 でもそれなら、最後に冷静さを取り戻してくれた……クロー、あなたに会ってみたくなったの」


「へっ、そうなのか?」


 ――悪魔大事典の仕組みなんて悪魔の俺でもよくわからないんだよな。


「でもエリザ。エリザにそんな素振りはなかったように思うが……」


 ――第一印象はすごく生意気な女だったもんな。


 今思い返すとその生意気さも懐かしく思える。


 ――でも今のエリザはもっと可愛い。


「だって、いざ本物の悪魔と対面すれば、やっぱり怖いし自分を取り繕うのに必死だったのよ」


「なるほど、まあ。俺を選択したエリザは正解だったけどな」


 ――もちろん俺自身もそう思っているんだけど。


「もちろんよ。ふふふ」


 妻の話が途中から俺への惚気になってしまった。彼女も反応に困り、俺と妻を交互に視線を向けては首を傾けている。


「ふふふ」


「それで話は戻るが、要するに俺は悪魔だ。だから改めてその事典を使い悪魔召喚をする必要はないと分かってくれたかマリー?」


「……」


 彼女が躊躇いながらもゆっくりと頷き肯定する。


「よし、それじゃマリー。その事典を俺に渡してくれるか?」


 怯えさせないよう俺は彼女に向け、ゆっくりと手を伸ばす。


 すると彼女は抱き抱えていた悪魔大事典と俺の手に何度か視線を向けた後、その事典を俺の方に渡してくれた。


「いい娘だ。マリーありがとうな」


 ――悪魔大事典は、一度でも手にすると本人が自ら手離す意思がないと、いくら引き離しても本人の手元に戻ってくるからな……


 俺は彼女の頭をそっと撫でると悪魔大事典の表紙を確認した。


 ――悪魔大事典増刊号1号~10号歴代集、人族女性限定版? つまりこれは1号から10号までの売れ残りってこと? むっ、手に持っているだけで嫌な気配がビンビン伝わってくるな。


 事典から解放された俺(悪魔)に嫉妬剥き出しの不穏な気配。俺はすぐに所望魔法を使った。


『我は所望する……』


 そして悪魔大事典を素早く消滅させた。


「消えちゃった……」


 彼女は名残惜しそうに、消えた後の俺の手を眺めていた。

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