第15話

「……」

 ――……ん、誰かの声が……


「……よ」

 ――……誰だ……


「ちょっとしっかりしなさいよ」


『あうっ』


 気がつけば、目の前には不安そうな表情をした彼女の顔が近くにあるが、どうしたことだ俺の両脚が宙を蹴る。


 ――?


 そして理解した。俺の身体は彼女から両脇を持ち上げられ宙に浮いていたことに。


 ――どういうことだ……?


「ぼーっとしているけど、大丈夫なの?」


 少しでも状況を知りたくて、きょろきょろと馬車内を見渡してみれば床に置かれているうどんを発見。


 ――そうだ。俺は……エリザからふぅふぅからのあーんをしてもらって……


 抑えきれない欲求に彼女のおっぱいにしがみついた記憶が甦る。


『……面目ない』


「……べ、別にいいわよ」


 そう言った彼女は顔を赤くしてそっぽを向く。少し怒らせたのかもしれない。


 ――しかし、俺はどれくらいの時間意識が飛んでいたのだろうか……湯気?


 そこでふとまだ湯気が立つうどんに気がついた。


 とすればそれほど時間は経っていないだろう……とは思うものの、恐ろしくて彼女に聞くに聞けない。

 ただこの狭い空間中で、彼女との仲が気まずいものになっても困る。なにぶん彼女は俺の護衛対象者なのだから。そう思った俺は、


『……それでもすまん』


 悪魔なのに人族に向けて謝罪の言葉が自然と出ていた。そして俺はすぐに違和感を抱く。


 ――人族に謝罪、なぜ? ……俺は悪魔なのに? いや違う。悪魔とかそこは関係ない……関係ないはずだ……


 いったいなんなのか。俺の感情が俺の意思とは関係ないものに染められているような嫌な感じと違和感。


 ――もしやあの睡眠施設が……


 そう気づいたところで、今の俺にはどうすることもできない。ただ、少なからず人族に対する感情に欠如があることだけは心に留めておく。いやまて、今なら何か掴めそうだ。


 悪魔はなによりも自分の感情を優先する。したい、やりたいようにする。悪魔の行動は本能が優先され、理性はその次。俺もそうであると少なからず自覚している。


 繋がりよりも力関係が物をいう悪魔社会だからこそ。人族のような社交辞令といった表面上取り繕うような関係はまずないのだ。


 そして悪魔は人族のことをただの餌、感情値を得るためだけの餌としか思っていないのだから……


 ――ん!?


 そうだ。ここか。ここが俺の抱いた違和感に触れる部分だったのか。


 だから、時折感じる胸の奥のあのモヤモヤ感は人間だった前世の記憶があるから抱くもので、それをちゃんと理解できたのなら、俺はきっと……


 ――きっと、なんだ、悪魔に転生した俺に必要あるのか? 


 そこで否定する俺がいる。


「また、ぼーっとして本当に大丈夫なの? わ、わたくしはもう気にしていませんから……あなたも気になさらないで……

 あ、あ、ほほら、せっかくあなたが出してくれたうどんも美味しいんだから食べましょうよ、ね」


『ぁ、ああ……』


 笑顔を向ける彼女が少し照れているように見えるのは自分が都合よくそう見たいと思っているからなのだろう。

 でも今までと変わらぬ笑顔のはずなのに、今はやけに愛おしく感じるのはなぜだろう。


 ――……


 分からないが、彼女の笑みは心地が良かった。


 ――エリザ。


 これ以上は色々と考えても今は堂々巡りになりそうだ。もし仮にそれで何か変わったとするのなら、それはそれでもいいとも思えた。


「ほらまた、そんなのあなたらしくないわよ。わたくしが気にしないって言っているのです。だからあなたは気にしない。さあ食べなさい。食べて元気を出しなさい」


『あ、ああ……』


 思考の渦に呑まれていた俺を無理矢理現実へと引き戻す彼女。

 彼女は再び俺を膝の上に乗せ細かく切ったうどんを差し出してくる。

 彼女は元貴族令嬢にしては意外と世話好きである。


「そうよ。口も開けるの」


 彼女が食べろと鼻の先に差し出してくるので、仕方なく口を開けてからパクっとそれを口に入れる。


 伸びかけだが、ちゃんと冷ましてあって猫舌の俺でも食べやすい。


『エリザうまいな』


「ふふふ、そうね。はんばーがーもそうですけど、うどんもおいしいですわね」


 海老天はふやけていたが、それでも彼女が差し出してくれるうどんは悪魔大事典の中で食べた時よりも、数倍おいしく感じた。


 食べた後は騎士たちに見られては面倒なので、空になった食器を収納魔法で片付ける。


『よし、これでいい』


「不思議ね。そんなこともできるのね」


 食器の消えた位置を不思議そうに眺めている彼女。更にその床をペタペタ触っている。触ったところで何もないのに。


 片付けも終わり一息つこうと思った矢先に牢馬車が動き出した。


「きゃっ」


『移動するんだな』


「それならそうと。声くらいかけてほしいわよね」


 突然だっただけに、身体を大きく揺らした彼女が頬を膨らませる。不機嫌そうだ。


 それからはカタカタと乗り心地の悪い牢馬車の中を黙って過ごしていたが、ふと思いついたので彼女に尋ねてみた。


『なあ、エリザ。予定では、あとどれくらいで国境を越えるんだ?』


「え、ああそうね。たぶんこのまま順調に進めば三日くらいで国境にたどり着けると思うわ」


『そうか。ということは、ここはまだローエル領なのだな』


「そうよ。でも明日には隣のトーナル男爵領に入ると思うわよ」


 ――ふむ。もし仕掛けてくるとすれば明日以降が濃厚だろうな……


「でもね、問題は今向かってる方向に隣接する国が二つあるってことなのよ」


『ほう』


「一つは亜人の国ケモール王国、もう一つがゲスガス小国。

 どちらの国も良好な関係とは言えないし、治安も良くないの。

 ケモール王国とは奴隷問題でギクシャクしていて常に緊張状態、当然人族に向ける感情は良くないわ。

 次にゲスガス小国はここ何年も内部紛争が絶えず治安が悪いと聞いているの。だからこちらの国でも少し心配なのよ」


『ふむ』


「どちらを通るにしてもしても、その先にあるクルーリ帝国まで行きたいと思っているわ」


『ふーん。クルーリ帝国ね。俺はどこでも構わないぞ』


「クローはわたくしの護衛だものね。お願いしますね」


『ああ、任せろ』


 彼女は王族になるためにしっかりと教育を受けていたので、各国の情勢に詳しかった。


 これはまだ彼女には話していないが、俺には国境さえ抜けてしまえば彼女を抱いて飛んで行くという考えもあるのだ。

 そのほうが速くて安全だろうから……


『なあ、エリザ』


「なんですの?」


 この際だから彼女の趣味や好きなことを聞いてみたのだが。


 彼女の趣味は刺繍。意外にも身体を動かすことも好きで、護身術として、剣術まで習っていたそうだ。


 その時、思わず彼女の大きなおっぱいを眺めてしまった俺は悪くない。


 ――これで動けるのか……


 それならば、少しくらい寄り道というか、無理のない範囲で冒険者の真似事をしてみてもいいかもしれない。


 ちょうどどこか適当な国で、身分証をつくる話はしていたわけだし、それが冒険者登録だったとしても別に問題はないだろう。


 ――それに……


 ふと彼女が大きなおっぱいをぶるんぶるんと揺らしながら剣を振る姿を想像してみる。


 ――いい。すごくいい。


 俺の楽しみが一つ増えた。


 ――むふふ……


 邪なことを考えている時こそ時間が経つのは意外と早い。

 気がつけば小窓から見えていた青空がオレンジ色に染まっていた。


『ん? もうすぐ日が暮れるのか』


「あら、ほんとね」


 それからすぐに速度を落とした牢馬車は開けた場所に停車した。

 近くに川が見えるので馬を休ませるにもちょうどいい。どうやら今日はここで寝泊りすることになりそうだ。


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