第7話

 俺の身体は一瞬にして幼女の元に引っ張られる感覚に襲われた。


 ――あれ?


 しかし、引っ張られた先は薄暗い何もない空間だった。彼女の心境にいったい何があったのか。


 ただ、細い糸の先にエリザの存在は感じとれる。このまま先に進めばおそらく彼女の下に辿り着けるだろう。


 ただ糸を手繰り寄せるように進むだけなので先ほど逆らっていた時と違って、俺の足も前へと楽に進む。


 ただ俺の姿が猫の姿のままだということに納得がいかないが、ここは彼女の夢の中だし、どうしようもない。


 ――けっこう進んだと思うんだけどな……


 薄暗い空間はだんだんと細くなり小さく分かれた小道がいくつもあった。まるで迷路の中に迷い込んだかのように。


 ――それでも迷うことはないのだけどな、ん?


 俺がくねくねした通路を進んでいると、灯りのついてない真っ暗な部屋が忽然と姿を現した。


 ――部屋か? 暗いな……


 この部屋からは彼女の気配を感じたので、辺りを見渡してみると、部屋の片隅で、八歳くらいだろうか? 先ほどよりも、少し成長していた彼女が俯き両膝を抱えて座っていた。


 ――エリザ……か?


 俺は小さな彼女の傍へと近づき、その隣に腰を下ろしてみて気づいた。


 ――あれ、お前は……


 その少女は声を殺して泣いていたのだが、その少女の隣、俺と反対側には先ほどのマリンが立っているに黙って眺めているだけだった。


 俺は不思議に思いながらも、ここは彼女の夢の中だし、俺が話しかけたところで意味はないだろうとは思い俺もマリンのように彼女の隣で座るだけにとどめた。


「ぐす、ぐす」


「……」


「ぐす」


「ぐす」


 でもさすがにずっと泣いている小さな彼女を放置しているというのは、なんとも心落ち着かない。だから俺はつい声をかけてしまった。無駄だと分かっていたのにだ。


「どうした。なぜ泣いている?」


 俯き両膝を抱えて泣いていた彼女の両肩がビクリと跳ね上がった。


「誰?」


「ふえ!?」


 なんと無駄だと、聞こえるはずがないと思っていた彼女から返事が返ってきた。


 彼女が顔を上げて俺のほうを向く。まだ幼さの残るその顔には、泣き腫らした赤い目が痛々しく見えたが……間違いなくエリザを少し幼くした姿だった。


「ね、こ?」


 しかも彼女には俺が見えているらしく、これには、さすがの俺もびっくりして動揺した。動揺して俺は……


「は、腹が減っているのか、ほらこれでも食べるか? 甘くて美味しいんだ」


 小さなチョコを数個ほど彼女の前に出していた。慌てて出してみたが、この空間でも所望魔法は有効だった。


「あなた猫さんなのに、しゃべれるのね」


「俺は特別だからな。それよりも食べろ。甘くてうまいぞ」


「う、うん」


 俺を見て不思議そうに首を傾げていた彼女は、目の前の小さなチョコを一つ小さな指で摘んでから俺のほうを見る。


「食べろ」


 俺が口に入れてもぐもぐと食べる真似を見せてやれば、彼女もコクリと頷きその小さなチョコを口に入れた。


 もぐもぐと口を動かした彼女の目が爛々と輝いたかと思えば俺を見てくる。


「うわぁ、甘くて美味しい」


「そうだろ、もっと食え」


「うんっ」


 泣いていた彼女が嘘のように機嫌よく食べ始めた。俺はチョコを美味しそうに食べる彼女をしばらく眺め、落ち着いた頃合いを見て尋ねてみた。


「それで、なぜ泣いていたのだ?」


 一瞬だけ迷うそぶりをみせた彼女は、俺があげたチョコと俺の顔とを交互に見て、少し迷いながらも口を開いた。


「わたくし一人になっちゃったの」


 今度は俺が首を傾げる番だった。


「ん? それはどういう意味だ?」


「あのね。わたくしが慕っていたお母様は本当のお母様じゃなかったの。乳母のマリンが本当のお母様だったの」


 ――マリンって……マリンだよな。なるほど、似ていると思ったがそういうことか。


 俺は彼女の隣に立つマリンに視線を向けたが反応はない。


「そうか。でもそれなら、その本当のお母様がお前の傍にいてくれているだろう?」


 でも、小さな彼女は泣きそうな顔で小さく首を振った。


「わたくし、歳が一緒だからってこの国の王子様と婚約することになったの。お父様がローエル家のために役に立ってみせろって。住まいも本邸に移されたけど、わたくしはぜんぜん嬉しくないの」


「う、うむ」


「だってお父様は酷いの。王女教育が必要になるわたくしに、もう乳母は必要ないって、それからマリンが……お母様がいなくなってしまったの。こんなことになるならわたくし王子様となんて婚約したくなかった」


 よく話を聞けば、第一王子と婚約した彼女に、貴族でない乳母のマリンが本当の母親だとするには都合が悪かったらしく、彼女と髪質が似ていた側室のひとりを彼女の母親として体裁を保っているらしい。


 それをなぜ彼女が知っているのかというと、彼女は生まれてから一度も母親と会ったことが無かった。体調が悪いと乳母からずっと聞かされていたからだ。


 けど、その日はマリンと摘みに行ったお花がとても綺麗で、綺麗なお花を見れば病気の母親も少しは元気が出るだろうと彼女なりに思い、どうしても母親に届けたくなった。


 でも、追い返されることが分かっていた彼女は使用人の目を掻い潜りこっそりと別棟に忍び込んだ。


 そこで彼女はある現場を目撃してしまったらしい……


 そう、それはたまたま乳母のマリンがその側室に向かって一度でいいからエリザに会ってやってほしいと、必死に頭を下げている姿。


 だが結果は「誰が、庶民であるあなたの汚らわしい血が混じった娘を、我が子として逢ってやるものですか。気分が悪いわ、出ておいきっ!」と、その側室から紅茶をかけて乳母のマリンを追い返している現場だった。


 彼女はショックもあったが嬉しくもあった。


 それは、彼女は以前からいつも傍にいてくれる優しいマリンのことが大好きで、何度、マリンが本当の母親だったら嬉しいことだろうか、と考えない日がなかったからだ。


 小さな彼女は幸せだった。彼女は知らないことになっているから、マリンのことを本当の母だとは呼べなかったが、いつも傍にいてくれたから……


 だが、その幸せも婚約者が決まった途端に終わりを告げた。


 王女教育を受ける以前に彼女には、ただの一年で貴族令嬢としてのマナーを全て身につける必要が出てきたからだ。

 住まいは本邸へと移され、それからは乳母であり、本当の母親だったマリンとは会えなくなってしまった。


 父親に尋ねてみても王女教育に乳母の必要性はないとの一点張り。


 それでも諦めきれなかった彼女は、皆の目を掻い潜り屋敷内をくまなく捜し求めたが見つけることができなかったのだ……


「そんなこと何あったのか……」


「うん」


 再び両膝を抱えて俯く彼女から俺は隣に黙って立っているマリンに目を向け尋ねた。


 ――お前はどこにいる……


 黙って立っている彼女に反応はない。それもそのはずだ。これは小さな彼女の夢なのだから。彼女がいつまでも傍にいてほしいと望んでいるからだろう。


『我は所望する』


 魔法が効いたかどうかも定かではないが、素晴らしいおっぱいを見せてくれた彼女に悪運を、そう望んでみた。


 マリンの口角が僅かに上がったような気がした。でもそれは俺が都合よく思いたいからそう見えたのかもしれない。


 どうにもできないもどかしい夢世界に頭を振っていると、小さな彼女が俺のほうを向いていた。


「ねぇ猫さん。猫さんはわたくしの傍にいてくれるの?」


 急に話を振られて驚いてしまったが、契約を交わした俺の答えはもう決まっている。


「もちろんだ。お前の側でお前をちゃんと護ってやるぞ」


「まあ。わたくしとても嬉しいですわ」


 彼女が笑顔になると暗かった部屋の中に明かりが灯る。

 しだいに部屋全体が眩しくなり霞む出す。それは目を開けていられないほどに。意識が遠のく。


――ああ目覚めの時か……


 俺は悪魔になってから初めて夢を見ていたようだった。

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