妻と猫

和辻義一

妻と猫

 妻の隣で、猫が寝ている。我が家で飼い始めてから、もうすぐ五年になる。


 猫を飼い始めたきっかけは、妻の気晴らしのためだった。妻は日頃からあまり体調が優れず、家で寝ていることが多い。当時、子供達は保育園か小学校に通っていたため、日中の妻はいつも一人で家で寝ていた。


 妻は元々猫が好きで、結婚する前は実家でも猫に囲まれて暮らしていた。僕の実家は、ずっと犬派だった。


 僕は常々、どうせ飼うなら猫よりも犬の方がいいと思っていた。そんな僕が、猫を飼うことに前向きな姿勢を示したことが、妻にとってはとても意外だったらしい。


 どうせ飼うならペットショップの猫ではなく、譲渡会にいる保護猫が良いという話になった。ある年の寒い冬の日、妻は子供達を連れて、とある譲渡会に猫を見に行った。


「かわいい猫がいっぱいいた」


 家に帰って来た妻は、嬉しそうにそう言った。どの猫を飼うか、僕も一度見に行こうという話になった。妻の実家で猫に触れてはいたものの、僕は基本、やはり犬派だった。本当に猫を飼うかどうかは、その時の気分次第だろうと思っていた。


 譲渡会の会場は、終了時刻を迎えつつあったにも関わらず、とても賑わっていた。何組もの家族が、自分達の新しい家族を探すために会場を訪れていた。


 僕はちらりと、会場を見渡した。あちらこちらで生まれて間もない子猫達や、毛並みが良い可愛らしい猫達が、黄色い歓声と共に注目を浴びている。抱き上げられたり、猫用のおやつを与えられたりしている猫達の姿も見えた。


 猫が入ったいくつものケージが並ぶ中、隅の方に置かれた、大きめのバスタオルを被せられたケージが一つ目に入った。バスタオルをめくって中を覗くと、どこにでもいそうな地味なキジトラ柄の猫が一匹、じっとうずくまって目を閉じていた。


「その子、とても賢くて本当は人懐こい、いい子なんですよ」


 譲渡会を主催する女性が、にこやかに言った。


「ただ、もう一歳半で、すっかり大人になっていて、猫エイズのキャリアで……なかなか貰い手が見つからないんです」


 僕はその猫をしげしげと見た。猫はこちらに気付いているのかいないのか、ただひたすらに目を閉じたまま、今という時間が過ぎ去るのを待っているように見えた。


 その猫の右耳は、先が小さく切り取られていた。まるで桜の花びらのような形だった。


「さくら猫って言うんです。この子、このまま貰い手がいないと、地域猫として外に放すことになるんです」


 娘は違うケージに入った、ふわふわとした雪のような毛並みの猫に興味深々だった。だが、その猫は既に貰い手が決まってしまったという。周りにいた子猫達も、どんどん貰い手が決まっていく。


 猫エイズがどんな病気なのか、その女性に聞いてみた。一度病気を発症してしまうと病院代もかかり色々と大変だが、ただキャリアでいる分には、日常生活においても特に問題がないらしい。そして、出来るだけストレスをかけずに育てれば、それなりに長生きする猫も多いのだという。


 妻の希望を聞いてみた。妻は「猫が飼えるんだったら、どの子でもいい」と言った。僕はどちらかというと神経質な性格で、家をあちこち傷だらけにされるのを好まなかったため、僕が猫を飼うことに同意し始めていたことだけでも、妻にとっては非常にラッキーなことだったらしい。


 娘の希望も、おおむね似たようなものだった。ただ、自分が最初に気になっていた雪のような毛並みの猫が他の家族の元へと行ってしまうことに、少しだけ心残りがあったようだ。今は一緒に来ていない長男と次男も、それぞれ大の動物好きだったため、猫を飼うことにきっと反対はしないだろう。


 もう一度、ケージの中の猫をよく見てみる。時々身体を震わせているのは、その猫が非常に臆病な性格だからだという。こんな時間、早く終わってくれ――その猫は、態度だけでそう言っているように見受けられた。


 成猫で、猫エイズキャリアだから――ただそれだけの理由で、目の前にうずくまっているその猫が来場者の誰からも見向きもされていないというのが、何とも嫌だった。ただそれだけの理由で、目の前で確かに必死に生きているその猫が幸せになれないというのが、どうにも我慢ならなかった。


 僕は妻と主催者の女性に言った。


「この猫、うちで引き取っても良いですか?」


 それからその猫は「お試し期間」という名目で、まずは我が家の環境になれるために、大きなケージに入れられてやってきた。主催者の女性は、出来るだけその猫を我が家で引き取って欲しいからと気を遣って、猫用のエサの缶詰をたくさん添えて我が家に届けてくれた。


 猫の名前は、それまでその猫を飼ってくれていた保護司さんが付けた名前そのままにした。名前には一応それなりの由来があって、保護司さんからは「チビ」で「ビビり」だったからだと聞いていた。


 最初の一週間ぐらいは、その猫はケージの中に入れられていた、ふわふわとした厚手のクッションで出来た箱の中から全く出てこなかった。箱に空いた丸い穴から、二つの目だけが光ってこちらを見ていた。


 二日目ぐらいに、僕がケージに顔を近づけると、三十センチ以上離れた箱の穴の中から、電光石火の右ストレートが飛んできた。ケージの隙間から右の前足を突き出してきたので、距離にすればおそらくは五十センチ近く先にある三センチ程の隙間から、正確に猫パンチを繰り出してきたことになる。僕はあやうく、出勤前に鼻面を引っかかれて大惨事になるところだったが、とりあえずその猫が右利きだということだけは分かった。


 だが、そんな猫も十日程が過ぎると、まずはいつも一緒にいる妻に慣れるようになった。妻の周りをグルグルと回り、時々身体を擦りつけてくる。クッションの箱から出てきて、目の前でエサを食べるようにもなった。


 そこから先は、家族に慣れるのは早かったように思う。気が付けばいつの間にか、猫は家族の誰とも触れ合えるようになっていた。無事に「お試し期間」を終えられたので、猫は正式に我が家の家族の一員となった。


 僕が当初心配していた数々の「粗相」は、ほぼ杞憂に終わった。その猫はなかなか賢い猫で、トイレは必ず決まった場所でするし、爪とぎも専用のダンボール以外ですることはほとんどない。


 我が家における数少ない猫の被害は、何度張り替えても穴だらけにされた障子(最終的にはレースのカーテンをぶら下げることになった)と、まるで何かの恨みでもあるのかと思いたくなるぐらいに毎回爪とぎの餌食にされる、僕が日頃使っている敷布団用の低反発マットレスぐらいだ。


 猫が何かをして欲しい時には、ただ黙って少し離れたところに座り、じっとこちらを見つめる癖がある。だいたいは、エサか水が欲しい時だ。だが、鳴いたり暴れたりするわけでもなく、あくまでも上品に飼い主に向かって物申すその様は、なかなか賢い猫だなと僕は思っている。


 ちなみに、娘が当初欲しがっていた雪のような毛並みの猫は、譲渡会場では文字通りに大人しく猫を被っていたものの、なかなかやんちゃな女の子だったようで、引き取られた先の家で毎日大暴れをしていると後で聞いた。


 我が家の猫は今日も、妻の隣で静かに寝ている。今月末で七歳半。一時は大きく体調を崩したこともあったが、今のところは何とか元気にしてくれている。せいぜい長生きして欲しいものだと、つくづく思う。

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