精神の時と場合による部屋

クロロニー

精神の時と場合による部屋

 おうち時間は小一時間ほどズレている。正確には54分00秒。コンマ以下までは計ったことがない。大体予定通りに進まない数学の授業くらいの時間だ。だから家の時計を見る度にいつもギョッとする。家の時計は合計で5つあり、そのどれもが54分ズレている。中には電波式時計もあるが正確な時間を刻んだことは一度もない。家の中の時間だけ、周囲から54分もズレているというのが俺たち稲田家の見解だ。当然テレビやラジオやスマホもズレていて、新聞のテレビ欄やビデオプレイヤーの番組一覧を見る時は54分のズレを計算に入れる必要があるので少しだけ面倒だ。他にも学校にうっかり寝坊したり、大事な商談に遅れてしまったり……まあ遅刻の問題が大半だ。客を招くときも結構面倒なことになりやすい。事前にどれだけ時間のことを説明しても、大抵は他人事だと思ってコロッと忘れたりするものだから、慌てて家に帰るのが大抵のオチだ。もちろんこういうことは常に俺たちのせいということになる。慣れているはずの俺たちが注意すべきだとか、誰にとっても不便な問題を放置しているのは努力が足りていないだとか。こういう時、直接文句を言ってくる人は大体出禁になる。もちろん「あなたは稲田ハウスに出禁です」と面と向かって言うわけではなく、「ウチに来るのはちょっと都合が悪い」という風にあくまで遠回しに断ったりするわけだが。そもそも俺たちの殆どがいまだにこの時間のズレに慣れていない。


 五年前に引っ越してきてから稲田家では頻繁にこの手の問題に対する愚痴が共有されるが、どうしてこうなっているのかを議論することは今やほとんどない。解決策の提案も最初の方は頻繁にやっていたが、一年も経たないうちに「解決策なし」として放置されることになった。なんせ手動式の時計の針を遅らせても、夜中の誰も見ていない内に元に戻っている。何か不思議な力がかけられているとしか思えず、ならば人間風情には処置なしだ。しかし誰も何も提案しなくなったからと言って家族全員が順応したかと言えばそうでもない。これに順応しているのは五人家族の中で恐らく俺だけで、それは俺が一番長く家に居るからだろう。外に出ることがなければ不便なことは少ない。たとえこれが54分だけではなくて6時間とか7時間とかズレていても、そこまで不便なことにはならないだろう。妹曰くいわゆる引き籠りというやつらしいのだが、必要があっても外に出ないのと必要がないからこそ外に出ないのとでは多少見方が変わるであろう。会わなければいけない友人はいないし、娯楽は全てインターネット上で完結する。オンラインゲームの情報をまとめたブログのアフィリエイトでそれなりの収入もある。外に出る必要がなければどれだけ家に居ようと自由ではないか? ……もっともそれが詭弁であることは俺自身理解している。俺が外に出ずに済んでいるのは主に炊事面での母親の献身があってこそだし、あらゆる物事を自分の人生から遠ざけることで緊急性を削ぎ落しているからにすぎない。遊び盛りの弟に冷ややかな目で見られるのも無理のない話だ。


 だから俺はこう言うことにしている。「俺が家に居つづけるのは54分の原因を究明し、時間についての世紀の大発見をするためでもあるのだ」と。思えば小学生の頃の将来の夢は物理学者だった。当時の人気テレビドラマの影響だった。


「ニュートンは木から落ちるリンゴを見て重力のことに思い至った。ニュートンが重力で落ちるリンゴを見たように、俺も54分前の時空によって起こる違和感を見つけなければならない」


 もちろん大言壮語したからには実現する努力はしなければならない。幸いにも物理学の知識は大学の授業のおかげで多少ある。ただ基礎教養程度で理解できる現象だとは思っていない。そのために現代物理学、特に相対性理論の教科書や印刷した論文を部屋に集めてコツコツと読んでいるが、まだ半分も目を通していない。勉強が遅々として進まないのは、俺自身この問題に真剣になりきれていないからだろう。なんと言っても俺が家族の中で最も被害が少ないのだ。もっとも妹は県外の大学へ進学してあまり家に寄りつかなくなってしまったため、彼女の被害も俺と同じくらい少ない。家に帰った時にうっかり忘れて、地元の友人との大事な予定に遅れたりする程度だ。「お前のせいで家に瘴気が籠ってる。気持ち悪い」とは彼女の言で、そのためだけに県外の大学に受験した疑惑すらある。


 さて、この家の謎に取り組んでいた俺はある日とんでもない事実を発見した。この家はマンションの構造上電波が殆ど入らない程奥まった位置にあり、インターネットその他の通信は家の中にある一つのルーターを介して行う。そのルーターの発信する時間情報が基盤の破損により間違った変換がなされ、それが54分のズレとして現れたようだった。電子機器の時間がズレていたのはこれが問題だった。一方、電波時計がズレていた理由は、そもそも一度も電波を受信していなかったというだけだった。最初の間違った時間のまま時を刻んでいたわけだ。物理学は何一つ関係なかったのだ


 しかしそこで俺ははたと思い至った。デジタルのものが狂うのは理屈がわかった。しかし手動式の時計も狂っていたではないか? 手動式の時計が狂ったのだとすれば、それは人の手によって狂わされていないとおかしい。はたまたこれは本当に超常現象だったのか? 俺は当時唯一狂わす機会がありそうだった母に問い詰めた。すると母は詭弁を弄することなくすぐに白状した。


「ほら、なんもわかってなかったときは、時計がズレとる思って間違えてスマホに合わせてしまったんよ」

「でもそのあとにも手動式をズラしたことあったよね?」

「あーあれか」母は天パの頭を掻きながら恥ずかしそうに言った。「ほら、ウチの三人兄弟で家に残りそうなのってアンタくらいやったろ? 父ちゃんも平日はあんま帰ってこんし、アンタだけでも家に残ってくれりゃええって思って……ほらあんたって物理学者になりたい言うてたやん。なんかこう、興味の引けるものがあればええかなって思って」


 それは小学生の頃の話だ。どうやら母親は54分前どころか15年前の時間に囚われていたらしい……が、母親の好意に甘えて部屋に引き籠っている俺も同じようなものなのだろう。

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