無粋だけど繊細なノッポとあくまでも天使なチビのお話

水野 精

第1話

 正門に続くゆるやかな坂を上りながら、永野祐輝は、満開の桜並木を新鮮な思いで眺めていた。

 新学期の始まりは、いつも、どことなく切ない気持ちとわくわくした興奮が入り混じった形容しにくい気分になるのが常だった。でも、今年は何となく今までの春とは違う気がする。それは、昨日の小さな出来事が原因だったかもしれない。


 昨日の夕方のことだった。実は 祐輝は学校に無断で土木作業のアルバイトをしている。夜中の道路工事や配管工事の作業員として、ほとんど毎日働いていた。

 昨日も仕事先に自転車で向かっていた。その途中の横断歩道で、偶然同じ高校の制服を着た少女と並んで信号が変わるのを待つことになった。何気なくその顔を見て、祐輝は思わずどきんと胸を高鳴らせた。初めて見る顔だったが、大変な美少女だった(少なくとも彼の目にはそう映った)。

(何年生だろう::新入生じゃないよな)

 彼がそう思ったのは、少女の制服がある程度古びていたのと、着こなしが慣れていたからである。


 あまり一心に見つめていたものだから、少女の方も視線を感じて彼の方に目を向けた。祐輝はあわてて視線をそらし、車の流れを見ているふりをする。心臓が高鳴っていた。

 信号が青になり、二人は同時にペダルを踏み出したが、突き当たりで二つの車輪は左右に分かれていった。祐輝は少し残念な気持ちを抱きながら、仕事場へ向かった。だが、反面、心が躍るような喜びも感じていた。明日からの新学期、その少女を捜し出す楽しみができた。


 そんなわけで、その日の朝、永野祐輝は数少ない幸福な気分の生徒の一人だったのだ。

 新しいクラスはまあまあだった。高校生活最後の一年を過ごすクラスだが、まず、担任が英語の吉本先生だったのはラッキーだった。彼女は新採三年目で、祐輝たちが入学したときに、新任の教師として赴任してきた。美人だし、気心も知れている。ただ、同じクラスに、友枝と大塚という嫌な奴らがいたのは気分を台無しにした。


 祐輝は二年前、入学早々、派手なケンカをやらかして退学寸前になったことがある。

 中学時代、バスケットボールでかなり名を知られた選手だった祐輝は、入学直後から数人の女子生徒に声をかけられ、メールアドレスを交換して欲しいと申し込まれた。そのうちの一人の女の子が、ある中学校のヤンキーグループのリーダーだった矢島という奴の彼女だった(矢島の一方的な思いこみだったらしいが)。

 当然、それを知った矢島は祐輝を呼び出し、手下たちと一緒に彼を痛めつけようと考えたのである。しかし、怪我をしたのは矢島たちの方だった。祐輝は別にケンカに慣れていたわけではなかったが、矢島たちが存外に弱かったのだ。友枝と大塚は、その時矢島の手下として、祐輝にぼこぼこにされた連中だった。

 おかげで、祐輝はバスケ部から入部を拒否され、鬱々とした二年間を過ごすはめになった。友枝と大塚の顔を見ると、その時の悔しさがよみがえってくるのである。


「おおい、祐ちゃん……部活行こう」

 ホームルームが終わり、クラスメイトたちは三々五々教室を後にしていく。昼食はどんなパンにしようかと考えていた祐輝のもとへ、小太りで、やけに色白で、黒ぶちメガネの暑苦しい奴がやってきた。


「ああ……昼めし食ったら行くよ」

「部室で一緒に食べようよ」

「いや…他にちょっと用があるからさ」

「ええっ、何の用?」

「おめえには関係ねえよ」

「そんな…水くさいじゃないのよ、祐ちゃん」

 祐輝は、ねっとりとからみついてくる吉田竜之介の腕から逃れるように立ち上がる。


 数人のクラスメイトが、二人のやりとりをクスクス笑いながら見守っている。その中に、例の友枝と大塚の顔を見た祐輝は、カーっと頭に血が上って荒々しく吉田を押しのけると、出口に向かって足音高く歩いていった。

「あっ、待ってよお、祐ちゃん」

 吉田はどんなに粗末に扱われても、祐輝にべったりくっついて離れない。


 二年前、バスケットボールをあきらめた祐輝は、しばらくの間何もやる気が起こらず、危うく矢島たちのグループに引き込まれそうになった。矢島は、祐輝をおだて、将来はこの学校を二人で仕切ろうと熱心に誘った。やけになっていた祐輝は、     何度か彼らと行動を共にし、いろいろな悪さをやった。

 しかし、やはり彼らとはどうしても相容れない部分があった。本音は一分でも一緒にいたくはなかった。どっちつかずの袋小路の中をさまよう日々が続いた。


 夏休みも近くなったある日の昼休み、矢島たちの目を避けるように校舎裏をぶらついていた祐輝は、部室棟の陰で不良たちにからまれている吉田竜之介と出会った。不良たちは二年生だったが、祐輝の姿を見るとあわててどこかへ姿を消した。事情を飲み込めず、ぽかんとしている吉田に、祐輝は何気なく声をかけた。

「もう、大丈夫だぞ。なんであいつらにからまれてたんだ?」


 吉田は まるであこがれの人に出会った女の子のように、顔を赤らめてはにかんでいた。祐輝は直感的に吉田のキャラクターを理解したように感じた。背筋にぞくっと悪寒が走った。そして、彼の直感は当たっていた。以来、吉田は祐輝の〝追っかけ〞になった。

 祐輝がその後演劇部に入ったのは なにも、 吉田の熱愛に屈したからではない。一つには、矢島たちから離れるきっかけを探していたこと、もう一つは、演劇という未知の世界が、バスケットボールへの未練を忘れさせてくれるのではないか、という淡い期待があったからでもある。

 売店でパンと牛乳を買いながら、祐輝はそれとなく周囲の生徒たちを見回していた。

 いったい彼女は何年生なのだろう。想像の中の彼女はますます美化され、甘ったるい切なさがつのっていく。


「祐ちゃん、どこ行くの?」

「だから、言ったろうが……用事があるの」

 まさか、謎の美少女を探して校内をうろつくなどとは、口が裂けても言えない。

「練習さぼっちゃだめだよ。地区予選は六月なんだからね」

 吉田の声を背中で聞きながら、祐輝は右手を挙げて返事をする。


 時々、昼食に利用する屋上へ向かいながら、彼はふと頭に浮かんだ台詞をつぶやいた。「…夢をいっぱい心につめこんだのに…いつの間にか、心が現実に押しつぶされて…夢はどこかへ消えてしまった…ひとかけらの夢さえ、今は…」


 六月に開かれる演劇の全国コンクール地区予選で、祐輝たちの演劇部は『月夜に降る雨』というタイトルの劇をやる。

 アーティストを目指して上京した一人の若者が、過酷な現実の中で傷つき、自暴自棄になっていくが、一人の少女との出会いをきっかけに少しずつ立ち直っていく。しかし、少女は不治の病に冒されていて、若者が初めてのステージで成功を収める姿を確かめた後、そっと立ち去っていく…、というストーリーの劇である。


 ストーリーそのものはよくあるパターンで、あまり気に入らなかったが、主人公の若者が妙に自分と重なる部分があるような気がして、祐輝はそれなりに熱を入れて練習に打ち込んでいた。なにしろ人数の少ない演劇部である。彼は、主人公の若者役に満場一致で推されてしまった。相手役の、不治の病に冒された少女が、吉田竜之介であることは何とも不満であったが……。

 しかし、吉田はひとたび舞台に上がると、全く別人に変身するのだ。その演技力には、祐輝も感嘆せざるを得なかった。今回の配役も、四人の女子部員が、とうてい吉田には及ばないと辞退した結果なのだった。


「…美しい月の滴が降りそそぎ…汚れた俺を濡らす…でも、次には笑い声が降ってきて… ずぶ濡れの俺をあざ笑う…いつもくり返す安らぎと苦しみ……」

 ギターをつま弾きながら歌う、主人公の台詞をそこまで口にしたとき、祐輝は雷に打たれたように硬直して、その場に固まってしまった。


 二年生の教室棟の廊下を行き交う生徒たちの中に、彼の方に向かって足早に近づいてくる一人の少女……。まぎれもなく、あの少女だった。


 階段下に、バカみたいに口を開けて立ったのっぽの祐輝の姿は、いやでも目立つ。しかも、その視線は自分の方をまばたきもせずに見つめているのだ。足早に歩いていた少女の足が、一瞬止まりそうになり、怖々と祐輝のそばを迂回するように通りかかる。

 祐輝ははっと我に返って、あわてて視線をそらし、目の前の階段を一気に五、六段駆け上がった。そして、立ち止まって、ちらりと後ろを振り返ると、少女は下りの階段を下りていきながら、やはり、ちらりと上を見上げたのである。再び視線が交わり、祐輝の体を高圧電流が流れた。あわてて前を向き、一気に屋上まで駆け上がっていった。


 屋上の出入り口の前には、立入禁止の立て札が立てられ、机や椅子が積み重ねられていたが、祐輝は二年前からよく、矢島たちとここにタバコを吸いに来たものだ。最近は先生たちの見回りが強化され、不良たちはほとんど来なくなった。


 屋上に出た後も、祐輝の心臓は激しく高鳴っていた。何か、空に向かって大声で叫びたい気持ちだった。

(やっぱ、可愛いよ。完璧、俺のタイプだぜ)

 祐輝はにやけた顔のまま、いつもの場所に行って座った。見慣れた風景が、特別美しく見えた。

(まさか、今日のうちに見つけられるなんて……もしかして、俺と彼女は運命の赤い糸に結ばれているのかも……)

 などと、乙女チックな幸福感に浸りながら、カレーパンにかぶりつく。

(思ったより背は低かったなあ……でも、あのくらいが可愛くていいよな……ショートカットもいいなあ……ちょっと天然カールっぽいみたいな……)


 先ほど目に焼き付けた映像を、頭の中で再生しながら、祐輝はふとあることに気づいた。

(あの子、何か背負ってたなあ……ラケットか…いや、何か楽器のケースかも……)

 残りのカレーパンを口に詰め込み、牛乳で一気に流し込むと、口をもぐもぐさせながら、ミルクパンと飲みかけの牛乳パックを紙袋に戻して祐輝は立ち上がった。手がかりはつかんだ。後もう少し頑張れば、彼女の正体が分かる。


「どうしたの、祐ちゃん、今日すごいよ……あたし、涙出ちゃったよ」

第三幕の立ち稽古が終わったとき、そでで見ていた吉田が飛び出してきて、抱きつきそうな勢いで叫んだ。

「ばあか…いつものことだろうが……」

「ううん…いつもとは違ってた……なんか、こう、オーラ出まくりって感じで……」

 吉田は少女の扮装で、両手を胸の前で合わせ 、うっとりと上を見上げながらつぶやいた。祐輝は相手にせず、次の場面の台本に目を向ける。次はいよいよギターを弾きながら歌うシーンが入っている、一番のやま場だ。歌詞は何とか頭に入ったが、ギターがまだおぼつかない。


「くそっ…ここがどうも上手く弾けねえんだよなあ……おい、ヨッシー、ギターが上手い奴、見つかったのかよ」

「ううん…軽音部の山村君に断られた後は、まだ、誰も……祐ちゃん大丈夫だよ。もうちょっと練習すれば、完璧なんだから……」

「ギターに集中するとさ……つい、台詞を忘れちまいそうになるんだよなあ……」




 祐輝はようやく本気でギターを練習しようと思い始めた。何しろ、今日は超前向きな気分なのだ。面倒なことは今のうちにやるにかぎる。嫌いな古文でさえ、今日ならすらすらと読めそうな気がした。


 部活を早めに切り上げて、いつもの仕事場へ向かいながら、祐輝は珍しく声を出して歌った。仕事が始まってからは、削岩機やブルドーザーの耳をつんざく音が味方になって、彼の歌声をかき消してくれたので、けっこう大きな声で歌うことができた。

 ふいに肩を叩かれて、歌うのをやめた。振り返ると、汚れた手拭いで汗を拭き拭き、一人の老人夫がにこにこしながら、手で水を飲むジェスチュアをした。いつも何かと親切にしてくれる藤崎さんだった。祐輝はうなづいて、アスファルトの破片を積んだ一輪車をその場に置いたまま、老人の後についていった。


 機械の音が一つずつ消えていき、あたりに車の音や人のざわめきが戻ってくる。十分間の休憩時間に、作業員たちはあちこちで何人かのグループで固まり、水筒のお茶を飲んだり、タバコをふかしたりした。

「祐ちゃん、よう続くなあ。学校はちゃんと行っとるんか?」

「はい。ちゃんと行ってますよ」

「授業料を自分でかせぐなんて、偉いねえ。今どきの若い者には珍しいよ」

 会社のリストラで、慣れない仕事をしている林さんが、メガネの汚れを拭きながら言った。


 祐輝はちょっとばつの悪い気持ちで、あいまいに笑いながら、ペットボトルのウーロン茶を一口飲んだ。

 実は、一年半前、工務店にアルバイトの面接に行ったとき、高校生は雇わないと断られそうになって、ついでまかせに、父親が病気になって働けず、授業料を自分で稼がなければならないからと、必死に頼み込んだのである。その話がどこからかもれて、藤崎さんたちの知るところとなってしまった。本当は、あり余ったエネルギーを何かで発散しないと、暴発しそうだと思い、放課後できるアルバイトを探した結果だったのだ。かせいだお金もほとんど使わず、部屋の貯金箱にはお札がぎゅうぎゅう詰めになっていた。


「あの……実は、父もようやく元気になったんで、今週いっぱいでバイトやめようと思ってるんです」

 またもやでまかせだったが、 最近 バイトの疲れが翌日まで響くようになっていたので、そろそろやめようと思っていたのは事実であった。

「そうかい……そりゃあ寂しくなるなあ」

 にこやかな藤崎さんの顔が急にしんみりとなって、祐輝は胸が少し痛んだ。

 

 深夜から降り始めた雨は、朝には本降りになった。せっかく咲いた桜が雨に打たれて、アスファルトの坂道に美しい模様を作って散っていた。その坂道を、傘をさして真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、続々と登ってくる。公立高校が一斉に入学式を迎える朝だった。


 それぞれの部活や同好会は、新入部員獲得を目指して、いろいろな趣向を考えて入学式が終わるのを待っていた。

 祐輝たち演劇部の面々も、奇抜な衣装をまとい、メイクをほどこして、体育館に続く階段の踊り場に待機していた。周囲の運動部の連中の騒がしさに気おされながらも、必死に場所を死守していた。


「なあ、部長……」

「えっ、なあに?」

 スプレーで金髪にし、サングラスをかけ、ロックシンガーに扮した祐輝のそばには、さすがの運動部の猛者連中も近づかなかった。

「新入生の勧誘も大事だけどさ…二年生の中にも有望なタレントがいるんじゃねえの?」


「さあ、どうかなあ……でも、たとえいたとしても、どうやって勧誘するの?」

 部長の和泉沙代子は、成績も学年トップクラスで、かなりの美形でもある。演劇部の面々はもちろん、部外者の連中も、好奇心と期待半々で祐輝との仲をうわさする者が多かった。しかし、沙代子の気持ちはいざ知らず、祐輝の方は全くそんな気は無かった 。むしろ気の置けない友人の一人であった。


「ポッキーたちと一緒に、明日ちょっと二年棟を回ってみるよ」

 沙代子は、ロングヘヤーを右手でゆっくりと後ろへかき上げると、冷ややかな表情で祐輝を見つめた。

「やめた方がいいわ 。そりゃあ あなた目当ての女の子たちは集まるかもしれないけれど、ユッキーファンクラブのお守りなんて、ごめんだわ」

「お、俺は、別に、そんなつもりじゃ……それに、そんなにモテねえし……」

「あら、そう思っているのは、ご本人だけじゃないかしら……」

 祐輝は小さくため息をつくと もう、 話を切り上げて階段に座り込んだ。他の部員たちは、あるいは興味深げに、あるいはおろおろしながら二人を交互に眺めてた。


「ゆ、祐ちゃん…ほら、もうすぐ式が終わるよ。ほら、ちゃんと立って……目立つところにいなきゃ……」

 吉田に引っ張られてしぶしぶ立ち上がった祐輝は、もう一度ため息をつきながら、階段下の出入り口付近にいる他の部の連中に何気なく目を向けた。


「お、おいっ、ヨ、ヨッシー……」

 祐輝は自分でもおかしいと思えるほど動揺しながら、吉田の頭を思い切りひっぱたいた。

「いっ、痛あい…何よ、祐ちゃんたら……」

「うるせえ…ちょっと来い」

 祐輝は吉田を引っ張って、階段下へ下りていく。

「何よ、祐ちゃん」

「しーっ…いいから、あれ、見ろ」

 祐輝は体を横向きにしたまま、あごで出入り口の方を示した。吉田はけげんそうな表情で、そこにたむろしている男女数人のグループを眺めた。


「なあに?あの人たちがどうかしたの?」

「あいつら、何部だ?」

「え?何部って……山村君がいるじゃない。軽音部の人たちよ。この学校で、唯一うちより部員が少ないサークル…ふふ……」

 祐輝は喜びに舞い上がりそうになりながら、吉田の背中をばんばんと叩いた。

「サンキュー!あはは……ヨッシー、お前良い奴だなあ、本当に……」

「え?あん…痛いよ…なあに?…祐ちゃんたら……」


 祐輝はすぐに階段を駆け上がり、元の場所からにこにこしながら下を眺めた。

(軽音部…そうかあ……イヤッホー……ついに…ついに、やったぜ)

 祐輝は心の中で叫びながら、熱心にベースのエレキギターをつま弾いているショートヘヤーの女子生徒を見つめた。まぎれもなく、あのマドンナだった。

(ん?…待てよ。あの子、ギターを弾いてるよ…な…)

 祐輝は、自分の強運を信じられない気持ちだった。これはもう、冗談ではなく、運命以外のなにものでもない。


 その後の時間は、まるで夢心地に過ぎていった。新入生の勧誘に、祐輝は自分でも驚くほどキザに、そして熱心に演技し、自分の役目を果たした。

「すごおい…七人よ、七人…去年の倍以上よ」

 吉田も他の部員たちも、興奮して入部申し込み書を眺めていた。

「でも、全部女の子だわ」

 沙代子がやや不満げにつぶやく。

「部長、ぜいたく言わないの。メイクすれば、男も女も関係ないんだから」

 三年生の河野由紀の言葉に、他の部員たちは一斉に吉田に目を向けながら、必死に笑いをかみ殺す。そんな中で、沙代子の冷静な声が響いた。

「さあ、練習に入るわよ、いい?」

 

 頭の中で何度も繰り返したシュミレーションをもう一度復習しながら、祐輝はのろのろと放課後の校庭を歩いていた。ヨッシーや二年で唯一の男子部員、ポッキーこと安井幸樹に頼もうかとも考えた。しかし、これだけは人まかせにするな、と自分の中の声が叱咤した。たとえ討ち死にになったとしても、自分で告白した結果なら後悔はしないはずだ。


 とはいえ、部室棟が見える所まで来たとき、彼の足は止まった。なぜか急に、中学二年の時、ある女の子に告白して無惨にも拒絶された思い出がよみがえってきた。その時のショックがトラウマになって、それ以来、女の子とつき合うことはおろか、告白したこともない。その方面では、祐輝は純情この上もなかった。


(やっぱり、遠くから眺めるだけの方がいいかな……彼女に嫌な思いをさせたくないしな ……あんなに可愛いんだ。彼氏がいるよな、きっと……いや、何をカッコつけてるんだ、祐輝。後悔だけはしないと、自分に誓ったじゃないか)

 いったん開き直ると、祐輝は驚くほど大胆に行動できる。やけっぱちな部分もないではなかったが……。


 軽音楽部は、昨年出来たばかりだ。部員は二年生三人、三年生三人の六人で、自分たちで好きな楽器を持ち寄り、合奏を楽しんだり、オリジナルの曲の作詞作曲に励んだりしている。秋の学園祭が、今のところ唯一発表の場だった。


「山村君、新入希望の子たちだけど、ここまで案内してきた方がいいんじゃない?ここ、わかりにくいでしょう?」

「ううん…大丈夫じゃないか?たった二人だけだし……」

「わたし、行って来ます」

 他の部員たちは一瞬手を止めて、にこにこしながら立ち上がった小柄な女子部員を見つめた。小さな部室にまたたく間に不安な空気が満ちていくようだった。


「真由ちゃん、行って来てくれる?ごめんね」

「はあい、じゃあ…」

 女の子は輝くような笑顔のまま、ドアから勢いよく駆け出していった。

「きゃああ!」

 それは、他の部員たちにとって、あまりにも早すぎる悲鳴だった。何かが起きると予感はあったものの、まだ、ドアを出てから何秒も経っていない。


 部員たちは、一瞬お互いの顔を見合ってから、一斉に出入り口に殺到した。

「木崎っ、どうした、こけたのか?」

 その場には、無惨にも、またこっけいな画面が繰り広げられていた。


 図体のでかい男子生徒が、あお向けにひっくり返り、その体の上に小柄な女の子がおおいかぶさった状態で倒れている。女の子の制服のスカートは派手にめくれ上がり。レースの飾りが付いたスリップとボーダー柄のパンツが丸見えになっていた。

 女の子はパニックに陥り、きゃあきゃあ言いながらスカートの裾を懸命に引っ張り下ろそうとしてもがき、男子生徒は放心状態で空を見上げて固まっていた。


 ようやく身づくろいを終えた女の子が、転がるように男子生徒の体の上から離れて立ち上がった。男子生徒は死んだように動かない。

「お、おい、あれって……」

「まあ、永野君……どうして、彼が……」

 部員たちは恐る恐るドアの陰から出てきて、祐輝の顔をのぞきこんだ。

「真由ちゃん、大丈夫?」

 上級生の女子部員の問いに、木崎真由はまだ荒い呼吸をしながら、真っ赤な顔で祐輝を見つめたまま、こくりとうなづいた。


 と、不意に祐輝が立ち上がった。真由も他の部員たちも、さっと後ろに下がって、まるでゾンビを見るような目で彼を見つめた。

「あー、その……」

 祐輝が声を発すると、真由と部員たちはごくりと唾を飲み込んだ。


 祐輝はその場の空気を感じ取って、悲しげにため息をついた。どうして、いつもこうなってしまうのか。中学のあの時も、告白しようとしたとたんに、周囲に野次馬が集まってきて、その喧噪の中で告白し、見事にふられたのだ。後には野次馬たちの爆笑の渦が待ちかまえていた。あんな思いは二度としたくはなかった。


「すまん…部室間違えた」

 祐輝は暗澹たる気分で頭を下げると、そのまま立ち去ろうとした。

「ちょっと、待って…」

 呼び止めたのは三年生の高田育美だった。

「部室を間違えたなんて、どう考えてもあり得ないわ。全く方向が違うもの」

「お、おい、高田……」

 他の部員たちは、できれば関わりたくない相手だったので、副部長の大胆な態度におろおろしながら見守っていた。

「何か、うちの部に用があったんじゃない?」

 祐輝は横を向いたまま、困ったように頭をかいた。

「ああ…実は…その……」

「もう、はっきりしないわね。男でしょ、しっかりしなさいよ」


 育美は、祐輝と同じ中学の女の子たちから、祐輝のことはいろいろと聞いていた。彼に対して興味があったからだ。その話からは、今みんなが持っている祐輝のイメージとはほど遠い彼の姿が想像できた。だから、むやみに彼を怖がったりはしなかったのだ。


 祐輝は一つ咳払いをすると、くるりと体の向きを変えて木崎真由と向かい合った。

「俺、今度の劇で、ギターを弾く男の役をしなくちゃならないんだけど…ギターが上手く弾けないんだ。それで、ギターを教えてくれる先生を捜している」


 軽音部の面々は、息をすることも忘れたように、じっと祐輝を見つめていた。祐輝の背後から新入部員の女子二人が現れ、挨拶しながら近づいてきたが、誰も応対する者がいなかったので、二人は困ったようにわきに立ったまま、その場の成り行きを見守るしかなかった。


「あ、ああ、その件なら、吉田に断ったはずだが……」

 山村が、おずおずとそう答えていると、横にいた育美が彼を押しのけて前に出た。

「ほうほう、そういうことか…ふふ……いいわよ。あたしが教えてあげるわ」


 育美にとっては思いがけない幸運の訪れだった。ずっと気になっていた男の子と深く知り合えるチャンスなのだ。二年間、その機会を待っていたが、彼が演劇部に入り、その理由が、同級生の才女で密かにこの高校のマドンナとささやかれている和泉沙代子目当てだという噂を聞くにおよんでは、あきらめざるを得なかった。しかし、その後、祐輝と沙代子がつき合っているという話は聞いていない。育美だけでなく、祐輝に思いを寄せていた他の女の子たちも肩すかしを食った気持ちを抱いていたのだ。


 軽音部の面々は、育美の大胆不敵な言動にあっけにとられて、育美と祐輝を交互に眺めるだけだった。

 期待に目を輝かせて見つめている育美に対して、祐輝は困ったようにうつむき加減で鼻の辺りを触っていたが、やがて顔を上げて真っ直ぐに木崎真由を見つめた。

「いや、この子がいい。どうか、よろしく」

「ええっ?」

 祐輝以外のその場にいた全員が、同じ声を上げて思わず後ろにのけぞり、よろけそうになった。これは、明らかに意図的な逆指名ではないか 。いったい その意図とは何なのか。


 育美は悔しげに唇をかみながら、今やパニックを通り越して放心状態の木崎真由に目を向けた。この場で、祐輝の思いを唯一感じ取っていたのは彼女だった。

「真由ちゃん、どうするの?」

「あっ…え…わ、わたし、あの……」

 真由は真っ赤な顔のまま、下を向いて何やら懸命に考えていたが、やがて今まで部員の誰にも見せたことがない強い表情で顔を上げた。

「お、お断りします……」

 低く、断固とした声だった。


 瞬時、沈黙が辺りを支配し、遠くのグラウンドから聞こえてくる運動部員たちの声が、やけにはっきりと聞こえていた。

「そうか……すまん。嫌な思いをさせちまったな」

 祐輝は、むしろすがすがしい表情で微笑すると、きちんと一礼してきびすを返し、もう振り返ることなく歩み去っていった。


 正門に続く坂道の桜並木はすっかり新緑の装いになり、夕暮れの風に涼しげに葉を揺らしている。まだ昼間の熱気が辺りを包んでいるその坂道を、木崎真由は小さなため息をつきながら自転車で下っていた。


 あの衝撃的な事件から一週間が過ぎようとしていた。幸い、その場を見ていたのは軽音部の者たちだけだったので、変な噂を立てられることはなかった。ただ、あの後、先輩の育美から聞かされた話が、この一週間彼女の気持ちを重くしていたのだ。

「あいつね…みんなが思っているようなヤンキーでも、乱暴者でもないのよ」

まだ、事件の余韻でざわめいている部室の中で、育美は微笑を浮かべながら言った。

「まあ、体とおんなじで、やることが規格外の所はあるかもしれないけどね……」

「でも、あいつ、あのケンカの一件以来、先生たちにマークされてたぜ。タバコでも何回か捕まっていたらしいし……」

「うん……それがね、彼と同じ中学出身の子たちからすると、信じられないことらしいのよ。中学時代の彼は、バスケット部のエースで、生徒会でも副会長として活躍、成績も常にトップクラスの優等生。当然、全校の女子のあこがれの的、アイドル的な存在だったらしいわ」


 部員たちは、育美の言葉が信じられないように互いの顔を見合わせている。

「バスケットで、私立の幾つかの高校から引っ張られたらしいけど、彼は行かなかった。家の経済的な負担を考えてのことだったみたい。中学時代の彼に関する幾つかのエピソードも、彼の優しさや正義感を伝えるものばかり……」

「ふうん…意外だな。まあ、確かに一年生の時の事件があまりにも衝撃的だったから…… みんなの中にイメージができてしまったところはあるよな」


「バスケットをできなくなって、やけになったのは確かみたいね。バスケットにずいぶん打ち込んでたみたいだから……そんな彼が、演劇部で頑張ってる。そして……」

 育美はまるで探偵になったように、人差し指を立てたまま部屋の中央を往復していたが、ふいに真由の方に顔を向けた。

「なぜか、ギターの先生として、木崎真由に白羽の矢を立てた」

 真由は唇をとがらせながら、困ったように目をぱちぱちさせた。

「このわたしの申し出を断ってよ。どう思う、真由?」

「し、知りませんよ……たぶん、みんなと同じで、わたしをからかおうと……」

「そこよ」

 真由も他の部員もびっくりして、育美に注目した。


「誰もがそう思ったはず……だって、ワルの永野祐輝だものね。でも、今わたしは、彼がそんな最低のことをやる人間じゃないってことを証言したわよね。ということは、さっきの彼の言葉は、うそいつわりのない彼の本心だった、ということになるのよ」

 しばらくの間、誰もが微動だにせず、ただ思い思いに視線をあちこちに飛ばして、育美の言った意味を必死に理解しようとした。結論はおのずから明らかなのだが、それを受け入れるのが難しかったのだ。

「ということは、何か、永野祐輝は……」


「ストップ!」

 育美は、山村を手で制して、小さく首を振った。

「今言ったことは、あくまでも私の推論だから、みんなもこれ以上せんさくしないで…… いい?……あとは、真由、あなたが考えることよ」

 育美はそう言うと、呆然とした顔の真由の前に立った。

「わたしは、別にあなたと永野君がうまくいけばいい、なんて思ってないわよ。むしろ、うまくいってほしくない、って思ってる……でも、あなたが、彼のことをうわべや噂で誤解しているんなら、彼の本当の姿を見てほしい、いいえ、見るべきだと思うの」


 真由は、祐輝に対する育美の思いをずしりと重く心に感じ取った。本当は、今すぐにでも育美に、自分のことは気にせず、彼にアタックしてください、と言いたかった。

 しかし、彼の本当の姿を見てほしい という、 育美の思いをむげにすることはできなかった。


(どうして、わたしなんかに……)

 この一週間、真由は何度もそう自問しては、ため息をくり返していた。

もちろん、真由も女の子だ。素敵な王子様やロマンチックな恋を夢見る心は持っている。いや、むしろ心の中は夢ばかりと 言っていい 。ところが。彼女もまた祐輝と同じように、対人関係のトラウマを抱えた一人だった。いや、それが幼い頃から蓄積され、彼女自身の中にしみこんだものだけに、いっそう深刻だったのだ。


 真由は幼い頃から生き物が大好きだった。犬や猫はもちろん、生き物と名のつくものは何でも好きだった。唯一苦手なものは、足の多い虫、つまりムカデやゲジゲジなどのたぐいだった。

 小学校の二年生の時、登校途中でつかまえた土ガエルをポケットに入れて学校に行き、それが教室の中を跳び回り始めた時、級友たちや担任の先生からごうごうたる非難を浴びた。

 また、四年生のある日の帰り道、何人かの男子が集団で一匹のヘビを棒でつついているのを見て、すごい剣幕で男子たちを追い散らし、傷ついたヘビを治療しようと家に持って帰り、母親を卒倒させたこともあった。

 これ以外にも、生き物に関係した小さなエピソードは数知れない。そのうえ真由には、何かに夢中になると、とたんに周りが見えなくなる性質がある。そのため、いきなり突拍子もない言動に出たり、注意力散漫でドジったりすることがたびたびあった。

 やがて、ついたあだ名が「ボケモン」。当時人気だったモンスターアニメのタイトルと天然ボケを合体させたものだ。


 そんな女の子はからかいやイジメの対象になりこそすれ、男の子の初恋の対象にはなるはずがなかった。中学校に入学してからは、普通の女の子になろうと、彼女なりに努力した。しかし、その努力の成果が表れる前に、彼女に関する噂と評価が学校中に広まってしまっていた。男子はおろか、女子にまで疎外される存在になった。


 真由ももちろん恋心を抱いたことは何度かある。しかし、それは決して彼女の外に出ることはなく、心の中で必死に押し殺された。同時にそれは、自己嫌悪との戦いでもあった。

 そんな悲しみの日々を唯一慰めてくれたのは音楽だった。真由は音楽にのめり込み、あらゆるジャンルの曲を聴きあさった。そして、いろいろな楽器の演奏に挑戦した。今の彼女の夢は、シンガーソングライターだ。すでに、自分で作詞作曲した歌も何曲かあった。まだ、誰にも知られてはいなかったが……。



 自宅に続く細い坂道を上り始める頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。白壁の続く坂を上りきったところに、大きな屋根付きの門が立っていた。真由は自転車を押しながら、とぼとぼとその門の中へ入っていく。


 吉田竜之介は、楽しくてたまらないといった様子で鼻歌を口ずさみながら、特価品の紅茶のペットボトルやのど飴などを次々にかごに放り込んでいた。

 明日から待ちに待ったゴールデンウィーク。演劇部は、毎年恒例の集中合宿に出かける。今日中に荷物をまとめて、明日の朝一番に宅急便で合宿先のJAの研修センターに送らなければならない。


 レジにかごを置きながら、彼は急に不安そうな表情になって宙を見つめた。

(祐ちゃん、大丈夫かなあ……ちゃんと用意できてるよね)

「お会計は千二百三円になります」

「あっ、はい」

 

 竜之介が祐輝のことを心配するのはいつものことだが、今回は少し事情が違っていた。この一週間というもの、祐輝はやけに明るかったのだ。しかも、吉田に対しても異様なほど優しかった。かと思えば、劇の練習では、自分の台詞を忘れるなど、今まで一度もやったことがないようなミスをしたり、わざとらしい演技をしてみんなをシラケさせたりもした。祐輝の中で、何かが狂ってしまったとしか思えなかった。

(きっと疲れているのよ。祐ちゃんのことだもの、きっと大丈夫)

 竜之介は自分に言い聞かせるようにうなづいて、自転車を勢いよくこぎはじめる。

 

 さて、その頃祐輝はというと、自分の部屋に寝ころんで、天井にちらちら揺れる水槽の反射光をぼんやり見つめていた。そばには、スポーツバックと何枚かのシャツや下着が無造作に散らばっていた。

 何度目かのため息をついた後、祐輝はのろのろと起き上がった。異常に疲れていた。まるで十七年間の疲れが一気に体に襲いかかってきたような感じだった。かつてバスケットボールで激しい練習をしていたときも、こんなにきついと思ったことはない。


(やっぱり精神的なショックからかなあ……俺ってそんなに軟弱な男だったのか)

 確かに、木崎真由のあのときの顔を思い浮かべるたびに、みぞおちの辺りがきゅうっと絞られるような鈍い痛みを覚えた。それほど自分は嫌われる存在だったのだ、とわかったことはショックだったが、同時に今の自分を見つめ直す機会も与えてくれた。


(バスケをやめてからの自分は、確かにくだらない奴だった。バスケをしていたあの頃の、生き生きとした自分に戻らなければいけない。そうすれば、木崎真由に見直してもらえるチャンスが来るかもしれない)

 祐輝はその一心で、この一週間を過ごした。しかし、それは自分でも何か空回りをしているのがわかるような、腹立たしい日々でもあった。そんなこんなで、今は何もやる気にはなれない祐輝だった。


「祐ちゃぁん……いるぅ?」

 辺りの静寂を破る甲高い声が、窓の下から聞こえてきた。吉田竜之介だ。

「あの、バカ…ちゃんと呼び鈴を押せって言ったのに……」

 祐輝は文句を言いながら、急いで部屋を出て階段を下りていく。

「まあ、吉田君、いらっしゃい」

「ああ、お母様、こんにちは。今日は一段とおきれいですね」

「あら、いやだ、もう…ふふふ……どうぞ、上がって」

 庭先でバラについたアブラムシの駆除をしていた祐輝の母親、敏子は、まんざらでもないような笑顔で、門扉を開いた。竜之介がそこから中に入ろうとしたとき、玄関のドアが荒々しく開いて、祐輝が飛び出してきた。

「あっ、祐ちゃん…」

「うるせえ、ちょっと来い」

 祐輝は竜之介の腕をぐいとつかむと、通りの方へ出ていった。

「祐輝、乱暴なことしちゃだめよ」

「ああ、わかってるよ。心配しないで」

 祐輝は母親に返事しながら、家からかなり離れた曲がり角の所まで、うむを言わせず竜之介を引っ張っていく。


「痛いよ、祐ちゃん」

「うるせえってんだ。近所中に響く声で俺を呼ぶなって、あれほど言ったじゃねえか」

 ようやく解放された竜之介は、むしろうれしそうに顔を輝かせて祐輝を見つめた。

「な、なんだよ」

「よかったあ…ふふ……元の祐ちゃんに戻ったね」

 こいつにはかなわない、と祐輝は心の中で苦笑し、ふっとため息をもらした。


「それで……何の用なんだ?」

「ううん…特別に用はなかったんだけど、持っていく荷物の準備はできたかなって、気になって……」

「ああ、今やってたところさ。心配すんな」

「うん、よかった……じゃあ、帰るね」

 竜之介はそう言うと、言葉とは裏腹にまた祐輝の家の方に歩き出す。

「お、おい、ヨッシー、どっちへ行ってるんだ?」

「え?だって、自転車が……」

 竜之介の指さす方向に、確かに買い物袋を前のかごに詰め込んだ彼の自転車があった。

 祐輝はまた小さなため息をついて苦笑しながら竜之介のそばに歩み寄る。

「何を買い込んだんだ、こんなに……」

「ふふ……飲み物とのど飴……練習の時の必需品でしょ?祐ちゃんの分も買っといたからね」

 こいつが女ならマジで惚れてたかも、と、祐輝は冗談抜きで思うことがあった。

「ありがとな。お前って、ほんと良い奴だな」


 竜之介は、まじまじと祐輝を見つめていたが、やがて何かを思い出したように、下を向いてくっくっとこらえきれない笑い声を漏らし始めた。

「な、なんだよ。俺がほめたことが、そんなにおかしいのか?」

 祐輝は自分の心を見透かされたような気がして、動揺しながら言った。ところが、竜之介が笑っていた理由は、全く別のことだった。


「ふふふ……そうじゃないの。祐ちゃんて、変わったタイプの人間に好かれる性質なのね」

「バ、バカ言うんじゃねえよ。お前だけだよ、そんな奴は……」

「ううん、違うよ。だって、さっきここに着いたとき、うちの学校の女の子が、なんだか思い詰めた様子で、あの辺りをうろうろしてたもの。ふふ……誰だと思うう?」


 祐輝には全く見当がつかない話だった。

「知らねえよ。誰なんだ?」

「あたしも確かに少し変わったタイプだけど……」

(少しかよ)

 祐輝は思い切り突っ込みを入れたかったが、竜之介の話をちゃんと聞こうと思い、ぐっと我慢した。

「あの子は〝超〞が付く変わり者なのよねえ。あたしの中学の後輩だけど、小学校の時から有名だったらしいわ」

「ふうん、どんな風に変わってるんだ?」

「なんでも、お金持ちのお嬢さんらしいんだけど、カエルやヘビが大好きで、ポケットに入れて持ち歩いているらしいの。うう…考えただけでぞっとする。少しおつむも弱いらしくて、突然変なこと言い出したり、叫んだり……」

「そ、そんな不気味な奴が、うちの学校にいたのか?」

 竜之介は楽しげに笑いながら、祐輝の顔をのぞき込んだ。

「祐ちゃん、もしかして、あの子に何かちょっかいを出したんじゃない?」

「バ、バカ言え、そんなことするか」

「ふふ…冗談よ。いくら祐ちゃんでも、あの木崎真由にはちょっかいなんか出さないわよね」


 祐輝の顔は一瞬のうちに青白くなった。

「い、今何と言った」

「どうしたの、祐ちゃ……」

「誰って言ったんだ」

 思わず竜之介のシャツの胸ぐらをつかんで、祐輝は叫んだ。

「き、木崎、木崎真由って……」

「で、どっちへ行ったんだ、その子は?」

「わ、わかんないわよ。あたしの姿を見たとたん、向こうへ走って行ったから……」

 

 竜之介の言葉が終わる前に、もう祐輝は走り出していた。

「ちょ、ちょっとお、祐ちゃんたらあ……」

 竜之介は祐輝の激変ぶりにおろおろしながら、半べそで自転車にまたがり、祐輝の後を追いかけていく。

 猛然と走り出した祐輝だったが、四つ角の手前で急に立ち止まり、追いかけてくる竜之介の方を振り向いた。

「ヨッシー、自転車貸せ。ほらっ……いいから、お前、後ろに乗れっ!」

「いったい、どうしたっていうのよ、祐ちゃん」

「うるせえ。さっき、お前、中学の後輩って言ったよな、彼女……」

「う、うん、そうだけど……」

「家、わかるか?」

「おおまかには……」

「よし、どっちだ?」

「左……」

 

 竜之介にとって、小学六年生の時、初めて乗って失神した遊園地のジェットコースターの恐怖に近い、祐輝の自転車の運転だった。絶え間ない悲鳴を乗せた自転車が、猛烈なスピードで路地から路地へと突っ込んでいく。

 辺りはようやく住宅街から、川沿いの田園風景へと変わってきた。都心から離れたこの辺りには、まだかつての武蔵野の面影を残した森や田園が点在している。そんな多摩川の支流の小さな川沿いの道を、祐輝と竜之介を乗せた自転車が風を切って走っていく。


「あっ…」

 向こうに小さな橋が見える緩やかな登り坂にさしかかったとき、祐輝は小さな叫び声を上げてブレーキレバーを引いた。

「ヨッシー……サンキューな……いいか、このことは、絶対誰にも言うな。俺とお前だけの秘密だ。いいな?」

 自転車を降りて、竜之介に渡しながら、祐輝は真剣な顔で言った。

「う、うん、わかった……でも、あの子がいったい何だっていうの?」

「俺の今後の人生の……」

 祐輝は思いっきり大げさな言葉と表情を作って、低くうめくように語った。

「重大な鍵を、あの子が握っているんだ」

「ええっ!そ、そんな……」

 竜之介は、自分がその鍵を握っていないことに猛烈なショックと少女への嫉妬心を覚えて身を震わせた。

「ヨッシー……芸の道だ。あの子が持っているという天性のエンターテインメント性を、ぜひ身につけたい。あの子に教わりたいんだよ」


 祐輝のでまかせを、しかし、竜之介は感激もあらわに信じ込んだ。

「そっかあ……すごいわ、祐ちゃん。そんなこと考えもしなかった……」

(だろうな)

「わかった。頑張ってね。」

「うん…じゃあな」

 何度も手を振って去っていく竜之介に、心の中で謝りながら、祐輝はゆっくりと前方に視線を戻した。川岸のコンクリートに座って、西日にキラキラと輝く川面を見つめている少女。間違いなく、例のあの子だった。

 

 祐輝は彼女を驚かせないように、なるべく足音を立てないようにして近づいていった。彼がすぐそばまで近づいても、まだ真由は気づかず、思い詰めたような顔でじっと川の流れを見つめている。

 祐輝はどうやって声をかけようかと、めまぐるしく頭の中で考えた。しかし、いつも考えすぎた時にかぎって失敗ばかりしてきたことを思い出した。

〝自然に…そう、自分らしく……それでいいんだ〞

 いつものように開き直って、足元の小石を拾い、川に向かって投げる。それは小さな音を立てて、真由の見つめる川面を波立たせた。

 

 真由ははっと我に返って、いつの間にか自分の斜め後ろに立っている長身の少年を見上げた。

「あっ……」

「待って…頼むから、逃げないでくれ。俺、これ以上近づかないから……な?」

 引きつった顔で立ち上がろうとする少女に、祐輝はあわててそう言った。

 真由はどぎまぎしながら立ち上がり、制服のスカートのお尻についた泥をぱたぱたとせわしなくはたいてうつむく。

「ど、どうして…ここに……」

「ああ…あの、君が、さっき俺の家のそばにいたって、ヨッシー…ああ、いや、吉田っていう奴に聞いて……それで、俺に何か用だったのかなって……」

 

 真由はようやく顔を少し上げて、ちらりと上目遣いに祐輝を見たが、すぐにまたうつむいた。

「はい……あの、どうしても聞きたいことがあって……」

「うん。何でも聞いてくれ」

 祐輝は、こうして木崎真由と話ができることだけでも、深い感動を覚えていた。近くで見る彼女は、やはりとてつもなく可愛いかった。

「あ、あの……ど、ど……」

 真由は、突然手足をせわしなく動かし始め、それを自分で腹立たしく感じているように顔をしかめた。

 祐輝ははらはらしていた。このまま真由が走り去っていくのではないかと気が気ではなかった。できることなら、彼女をしっかりと抱きしめて、安心させてやりたいという激しい衝動に駆られていた。

「ど、どうして、わたしを……あの……」

「うん……」

「ギターの……」

「うん」


 祐輝はかがんで、真由の顔を正面からしっかりと見つめた。

 真由も恐る恐る、顔を上げて祐輝を見つめた。そして、不思議なことに、今まで混乱していた心が、すーっと落ち着くのを覚えたのだった。

 しばらくの間、二人はじっとお互いの目を見つめ合っていた。

「この前のことだろ?」

 祐輝の問いに、真由はこくりとうなづく。

「俺、始業式の前の日に、君を初めて見たんだ……君は覚えてないだろうけど……」

「お、覚えています。横断歩道のところで……」

「えっ、俺だと気づいていた?」

 真由はもう一度こくりとうなづいた。

「そうか……それで、嫌な気がした?」

 真由は再びうつむきながら小首を傾けて、言いにくそうにもごもごと答えた。

「 い、いえ あの 嫌とかじゃないんですけど……永野先輩って、有名ですから……その…こ、怖い人だって……」


「そっかあ……俺って、そんなふうに思われていたんだ……」

 真由は驚いて、改めて目の前にいる一つ年上の男の子を見つめた。確かに高田育美の言ったことは本当かもしれない。背が高く、肩幅も広く、真由からすると近づきがたい壁のような感じだ。特に制服の時はそんな近寄りがたさを感じる。しかし、今、ルーズなポロシャツにジーンズ姿で立っている彼は、どこにでもいる普通の男の子に見える。いや、普通だろうか。今、笑いながら川の方を向いている彼の横顔……きれいだ……この前も、いや、その前の、学校の廊下で会ったときも、心のどこかでそんな変なことを考えていた。

 でも、髪型が怖すぎる。今どき誰もしてないよ、リーゼントなんて……。


「俺さ……」

「えっ…あ、はい」

 祐輝は再び真由の方を向いて、両手を体の横にぴったりとくっつけて「気をつけ」をしていた。真由も思わず同じ姿勢をとる。

「一目惚れなんだ……君に」

 

 真由は数秒間祐輝を見つめて、それが冗談ではないことを理解した後、ふっと肩の力を抜いて下を向いた。真由の心は急激に冷静さを取り戻し いつもの、悲しみに包まれていく。

 予想していた答えではあったが、むしょうに腹立たしかった。


「あの……」

「あ、ああ……」

 祐輝の方はというと、生まれて二回目の告白をして、人生で一番長い瞬間を味わっていた。

「どうして……わたしなんかに…いえ、いいんです、答えなくても……わたしのこと何も知らないのに、おかしいです……嫌なんです、そんなの……」

 祐輝は、不思議なくらい素直に少女の悲しみを理解できるような気がした。そして、優しい気持ちになった。もう、自分の恋の結末など、どうでもよくなった。

 真由はそんなつもりはないのに、涙が独りでに溢れてきてポロポロと頬を伝って流れ落ちていった。

「ご…めん…さい……」

「いや…俺の方こそ、ごめんな……何回も嫌な思いさせて……」

 祐輝はそう言うと、ふーっとため息をつきながら川岸の方へ歩いていった。


「確かに、君の言う通りかもしれない。君のこと、何も知らないのに好きになるっておかしいよな。でも、恋の始まりなんて、そんなもんだと思ってた。誰でも、相手のこと、良く知らないところから始まって、もっと知りたいと思うようになる。それが恋ってもんじゃないかって……あはは……似合わねえよな、俺には、こんな臭いセリフ……」

 真由は涙を手でこすりながらうつむいている。

「…そんなに俺って、嫌いなタイプなのか?」

 祐輝は真由の様子を見て、苦笑しながら尋ねた。


「先輩…視力、いくつですか?」

 真由の声は低く、怒ったような響きがあった。

「えっ…?」

「わ、わたしに…一目惚れなんて……視力Dマイナスでしょ?」

「Dマイナス?…いや、俺は、特別目は良い方だ」

 真由は、突然絞り出すようなうめき声を上げながら、自分の頭をかきむしり始めた。祐輝はわけがわからず、オロオロとそれを見守るしかなかった。

「どうして、そんなに優しいこと言うんですか……どうして……うう…う……」

「ど、どうしてって……その……」

「変ですっ……全然、似合わないですっ……」

「うっ……ま、まあな……」

 真由は顔を両手で覆って、声を上げながら泣いた。これまでの辛い思いが、いっぺんに溢れてきて、祐輝に対する精一杯の憎まれ口となって吐き出されていった。そして、そんな自分がまた嫌でたまらなかった。


「先輩……」

 ようやくひくひくと肩を震わせながら泣きやんだ真由が、ポケットからハンカチを取り出しながら言った。

「もしかして、変人が好きなんですか?」

「君さ…自分のことを変人なんて言うなよ」

「わたし、別に、自分を変人だなんて思ってません。周りが…そう言うだけで……」

「じゃあ、なんで、俺が変人を好きだなんて……」

「だって……吉田先輩と仲が良いでしょう?あの人、オカマだって、みんな言ってますよ」

「ああ、ヨッシーか。あはは…そうだな、確かにそういう傾向にはあるな……」

(認識甘いですよ…)

 真由は、夕日をまともに受けて笑っている祐輝の顔を見つめながら、心の中で突っ込みを入れた。

「うっとおしく思うこともよくあるよ……でも、あいつには良いところもあるし、尊敬できるところもあるんだ。あいつの演技を、ぜひ舞台で見てやってくれ。びっくりするぜ、きっと……」

「そ、そうですか……あの、わたしも実は、みんなから変人て思われてるんです。さっきも言いましたけど……自分ではそんなつもりはないんですけど……小学校の頃から、そう言われて……あの……」

 真由の目にまた涙が溢れてきて、あわててハンカチを目に持っていく。

「だったら、俺と同じじゃねえか……」

 祐輝は笑いながら、そっと真由の頭に大きな手のひらを乗せて、優しくポンポンと叩いた。

「自分じゃ、そんなつもりはないのに、怖い奴だって思われてさ……君もそう思っていたんだろう?」

 真由はようやく弱々しい笑顔を見せて、祐輝を見上げた。

「だって、怖いですよ、その髪型……」

 祐輝は謎が解けたような嬉しげな顔で、リーゼントに固めた頭に手をやった。

「ああ、これかあ……あはは……これはな、小学校の頃夢中で読んだバスケット漫画の主人公の髪型なんだ。俺のあこがれのヒーローだったんだ」


 祐輝はそう言いながら、空中に向かってシュートを打つ真似をする。しなやかな長身が空中にふわりと浮かび上がるように見えて、真由はうっとりとなった。

 真由もその漫画は見たことがある。 、確かに 祐輝は体つきまでその主人公にそっくりだ。ただし、顔は、真由が夢中で読んだ少女漫画のヒーローだったが……。

 いつしか、夕日が赤い光で辺りを包み込むころになっていた。その夕日を横から浴びながら、祐輝は真由を正面から見つめた。


「こんな風にさ…これからも、話だけでもできないかな……」

 真由はうつむいて、ハンカチを握りしめながら小さな声で答えた。

「でも…先輩…みんなの笑い者になりますよ……わたしなんかと話をしたら……」

「…そうか……俺とは話しもしたくないのか。そんなに嫌われちゃ、どうしようもないな……」

 真由ははっとして顔を上げ、ぶるぶると首を横に振った。

「ち、違いますっ。あの……とっても…楽しかった…こんなに男の人と、楽しくお話ができたのは初めてです……」

「でも、ずっと泣きっぱなしだったぜ……」

「ご、ごめんなさい……わたし、いつもは、思っていることの半分も言葉にできなくて… …でも、 、今日は 心の中のものがどんどん溢れてきて……泣きたくなって……不思議です。こんなこと、初めて……」


 祐輝は優しく微笑みながらかがみ込んだ。

「もし、今つき合っている彼氏がいるんなら、きっぱりあきらめる」

「そ、そんな人、いません……いるわけないです……」

「じゃあ、いいんだな?」

「ほ、ほんとに、いいんですか?わ、わたしで……」

「俺とつき合ってくれるか?」

 真由は夕日と同じ色になって祐輝を見つめ、また目に涙を溜めながら、ついにこくりとうなづいた。


「よっしゃあ!あはは……やったぜえ」

 祐輝はその時、間違いなく自分が今世界で一番幸せな男だと感じた。今なら、この川でさえジャンプして飛び越えられそうな気がした。

一方、真由はまだ信じられない思いで、祐輝の背中を見つめていた。まさか、自分が告白される立場になることなんて、絶対ないと思っていた。しかも、相手は、ついさっきまで学校で一番怖いと思っていた先輩の男の子だ。自分は、とんでもない選択をしたのではないか、という不安が急激にこみ上げてきた。しかし、その一方で、彼女の直感が叫んでいた。

(いいえ、この人なら信じられる。ありのままのわたしを受け入れてくれる)

(それに)

 真由は再び顔を赤くしながら、思わずにやけた。

(なんといっても、かっこいい。髪型以外は……)


「送っていくよ」

 突然、頭の上から聞こえてきた声に、真由はあわてて顔を引き締め、上を見上げた。

「な、何もしない。約束するから……そんな不安そうな顔すんなよ」

「ふふ……怪しいけど、信じます」

 二人は、並んで夕暮れの道を歩き出す。

 お互いに聞きたいことは山ほどあったが、その話題が相手にどんな反応を起こすか不安だったので、なかなか聞けなかった。

「あ、こっちです。あの小高い丘の上に、わたしの家があるんです」

「へえ…なんか、大きな木がたくさんあって、良い所だな」

 辺りには水田や畑が多くなって、用水池も所々に見られるようになった。人家はまばらで、こんな寂しい道を真由が毎日通っているなんて危険だ、と祐輝は思う。


「あの…先輩……」

「あ、ああ、何?」

「バスケットボール……もう、やらないんですか?」

 祐輝は少し考えてから、葡萄色の空を見上げた。

「やりたいよ……でも、前ほどあせったりはしなくなったな。今でも、こっそり練習はしてるんだ。一人でさ……。でも、今は演劇の方が大事だな。中途半端なことはしたくないんでね」

 真由は真剣にうなづきながら、一番聞きたい質問を切り出すタイミングを待っていた。と、その時、数メートル先の道を茶色い、細長い生き物が斜めに横切り、道の端の所で立ち止まって立ち上がるのが見えた。真由は、反射的に立ち止まり、もう、その生き物に目を釘付けにされていた。

 祐輝もそれに気づき、立ち止まって真由の見つめる先に目を向けた・

「イタチか……久しぶりに見たなあ」

イタチは、数秒間辺りを見回してひくひくと鼻を動かしていたが、やがて道の向こうにさっと姿を消した。

 真由はまだびっくりしたような顔で立ったまま、イタチが消えた辺りを見つめていた。

 

 噂に違わぬ真由の生き物好きをかいま見て、祐輝は微笑ましい気持ちになった。

「なあ、あのさ……真由ちゃんて呼んでいいかな?」

「えっ…あ…はい……真由でいいです。〝ちゃん〞は、ちょっと照れくさいっていうか、幼過ぎる感じだし……」

「うん…じゃあ、真由って呼ぶことにする。俺のことも、祐輝って呼んでくれ」

「いえ、そんな……先輩を呼び捨てになんかできませんよ」

「そうか?…別に、いいって思うけどな」

「あ、じゃあ、祐輝先輩って呼ぶことにします」

「あはは……あんまり、変わんねえみたいだけどな。まあ、それでいいや」

 二人は笑いながら、また並んで道を歩き出す。


「真由は、ほんとに可愛いな。さっき、イタチを見つめていたとき、俺、イタチになりたいって、マジに思ったよ」

「そ、そんな……からかわないで下さい……」

「からかってるんじゃないって……ほんとにそう思ったんだ」

 真由はようやく一番聞きたかった質問への手がかりをつかんだ。そして、勇気を振り絞り、どきどきしながら口を開いた。

「あ、あの……一つ、聞いていいですか?」

「ああ、何でも聞いてくれ」

「わたしの、どこが…その……どこに、一目惚れなんか……」

 

 祐輝は不意に立ち止まり、真由の方を向いた。

 真由は恥ずかしさのあまり、横を向いてうつむき、もじもじと手足を動かしている。辺りは夕闇に包まれ始め、真っ赤になった真由の顔を隠してくれた。なぜ、そんなことが聞けたのか、自分でも不思議だった。


「真由、自分がどんなに可愛いか、少しはわかってるはずだぞ。毎日、鏡ぐらい見るだろう?もし、気づいてないなら教えてやるよ……」

 祐輝はそう言うと、うつむいた真由の前に立ち、そっと彼女の顔を両手ではさんで自分の方に向けさせた。

「ほら、小さな顔に、こんなに見事な配置で目や鼻や口が並んでいる。眉もきれいな半円形だし、広いおでこも可愛い。今まで、誰も君に可愛いって言ったことがないなんて、言わせないぞ」


 真由は幸せだった。この瞬間がずっと続いてくれたらいいのに、と思った。

「どうなんだ?誰も君に今まで教えてくれなかったのか?」

「あ、あの……ち、父はよく可愛いって、言ってくれます。ち、小さい頃は何度か他の人にも……」

 

 祐輝はため息をつきながら、今度は真由の肩に優しく手を置いてかがみ込んだ。

「俺はラッキーだったな。他の男が、木崎真由の魅力に気づく前に告白できた。テレビのアイドルなんて目じゃないね、真由の可愛さの前では……」

「お、おおげさすぎます……」

「俺がそう思っているんだから、それでいいんだ。もっと可愛いところも挙げられるぜ。今日気づいたんだけど、声もすげえ可愛いよ。それに、この天然カールっぽい髪も……」

 あんまりまともに正面からほめられると、逆にバカにされたような気持ちになることが、これまでは多かったが、今日はなぜか素直にうれしいと思った。永野祐輝が決してうそを言う人間ではないと、信じたからかもしれない。真由の中に、心地よい自信が生まれ、目に見える世界がより美しく感じられた。

 

 祐輝は、真由を抱きしめたいという衝動と必死に戦いながら、立ち上がった。

「さあ、暗くなる前に帰らないと、家の人が心配するぜ」

 真由はうっとりと微笑みながら、こくりとうなづく。

 

 再び歩き出したとき、真由は何かふわふわした雲の上を歩いているような気分だった。こんなに幸せな気持ちになったのは、ずいぶん昔、父が誕生日のプレゼントに、欲しかったウサギをくれたとき以来だと思った。それと同時に、彼女は、今横を歩いている初めての彼氏、永野祐輝を不思議な気持ちでちらりと眺めた。

 こんなにハンサムで、背が高く、優しすぎるほど優しいのに、なぜ、世の女の子たちは彼を放っておいたのだろうか……いや、違う。

 

 真由は突然あることを思い出して、がく然となった。

(ああ、育美先輩に、殺されるかも……どうする、真由……やっぱり、この人とは一緒にいてはいけないの?)

 真由は必死に自分に問い続けた。

(今ならまだ間に合う。一週間くらい泣いたら、忘れられるかも……本当にそう?真由… …この先、絶対に後悔しないって言えるの?……ううん、言えない。やっぱり、だめ。たとえ、育美先輩に殺されても…わたしは…)

 真由は短い時間に結論を出して、しっかりとうなづいた。いつの間にか、暗くなった坂道を上り始めていた。街灯が続いていたので、横を歩いている祐輝の顔を見ることができた。


「先輩……」

「うん、なんだ?」

「携帯、持ってます?」

 祐輝は立ち止まって、鼻の辺りを指で触りながら苦笑した。

「ああ、持ってることは持ってるんだけど……ほとんど使わねえから、机の中にしまってあるよ」

「ふふ……よかった。じゃあ、アドレス教えてください。それから、番号も」

祐輝は思い出しながら、携帯のメールアドレスと電話番号を言った。真由は自分の携帯を取り出して、それに手慣れた指使いで登録していく。


「ああ、そうだ……」

 祐輝は真由の細い指を見つめながら、思い出したことを告げた。

「明日から、俺、幕張の方へ行くんだ。演劇部の集中合宿でね。真由は、連休、どうするんだ?」

「そうですか、合宿に……わたしは、別に、これといった予定はないです。たぶん、部活に行くぐらいで……」

「ううむ……四日も会えないのかあ……」

 

 四日……真由の脳裏に、幕張の海岸を並んで歩く祐輝とあの美人の先輩、和泉沙代子の姿が浮かんできた。胸がきゅうっと締め付けられるような切なさを覚えた。

「あ、あの、携帯、必ず持っていってくださいね」

「ああ、忘れるもんか……でも、心配だなあ……部活の行き帰り、気をつけるんだぞ。変な男に声かけられたら、大声で助けを呼ぶんだぞ」

「そ、それは、大丈夫だと思いますけど……」

 まだ心配そうな祐輝の顔を見て、真由はようやく自分の取り越し苦労を捨て去る気持ちになった。

 

 もう、目の前に我が家の門が見える所まで来ていた。

「あそこがわたしの家です。すみません、ずいぶん遠くまで送らせてしまって……」

「おお、すげえな。もしかして、この塀も真由んちのものか?」

「ええ……中はほとんどが林や池なんですけど……あの、何か飲み物、飲んでいきませんか。こ、紅茶、入れるの、得意なんです……」

「ああ…いや…また、日を改めて来るよ。ちゃんとした服着て、手みやげくらい持ってこないとな」

 祐着はそう言うと、笑いながら片手を上げた。

「じゃあ、また…四日後にな……」

 真由はまた突然、この楽しかった時間がもう二度と来ないような気がして、いたたまれなくなった。


「あの、先輩……」

「なに?」

 真由は必死に自分に言い聞かせた。恋を追いかけすぎたらだめなんだ。男はそんな女の子からは逃げ出したくなるものなんだ、と。

「あ、ありがとうございました……」

「ああ……こっちこそ、ありがとうな。今まで生きてきて、一番楽しい時間を過ごさせてもらったよ……じゃ、な……」

 真由は坂道を下っていく祐輝の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。そして、彼が見えなくなると、急いで門の中に駆け込み そのまま、我が家の玄関まで走っていった。


「ただいま」

 靴を脱ぐのももどかしく、彼女は広い廊下を駆け抜け、突き当たりの階段を二階へと駆け上がっていった。

「ん?今のは、確かに真由ちゃんの声だったよな?」

 真由の父は、リビングで新聞を読んでいたが、いつもと違う娘の様子に、心配になって立ち上がった。夕食の支度をしていた母親も、夫の声を聞いて台所から出てきた。

「走っていく足音が聞こえましたけど、真由だったんですか?」

 二人は顔を見合わせて、不安に包まれながら廊下に出ていく。真由が中学生の頃までは、何度か同じようなことがあった。たいていは誰かにいじめられて帰り、部屋に閉じこもってずっと泣いていたものだ。ときどきは、帰り道でカエルやクワガタなどを捕まえて、それを急いでケースの中に入れようとしていたこともあった。   

 今日はいったいどっちなのか。


「真由…いるの?」

「真由ちゃん、パパだよ。何か、あったのかい?」

 両親が、恐る恐る真由の部屋の前に立って声を掛けた直後、いきなりドアが開いて真由が顔をのぞかせた。その顔は泣いた様子はなく、むしろ、笑いを懸命にこらえているような感じだった。


「なに?二人とも……」

「ああ、いや、大丈夫かなあ、って……」

「その顔だと、何もなかったみたいね。安心したわ」

「う、うん、何もないよ……あ、わたし、お風呂入りたいんだけど……」

「ええ、どうぞ……あなたが上がったら、夕食にしますからね」

 真由はにっこり微笑んでうなづくと、再びドアをバタンと閉める。

 両親は顔を見合わせて、同時に首を傾けた いつもの。娘とは明らかに様子が違うのだが、原因はまったく見当がつかなかった。

 真由は机の前に座って、懸命に携帯の文字盤を叩いていた。気の利いた言葉を考えて文にしては、また消して考え込んだ。

 

 窓の外には丸い月が輝き、ケヤキの若葉に青い光の滴を降らせている。真由は何度目かのため息をついて、窓の外に目を向けた。

 恋というものが、こんなに突然に、こんなに激しく始まるものだったなんて、思ってもいなかった。かつて、真由が経験した恋は、もっとふわふわしていて、ちゃんと心の中におとなしく納まっていてくれた。でも、今は、心が独りでに外へ出てきて、真由の体をどこかへ引っ張っていこうとする。その行く先はもちろん、彼の元だ。永野祐輝……彼の顔を思い浮かべるだけで、胸が苦しくなり、彼の元へ飛んでいきたくなる。


「だめっ、だめよ、真由……自分を見失ったら、必ず悲劇に向かう。どんな小説も、漫画も、それを教えてくれているじゃない……冷静に…冷静によ……」

 真由は何度もうなづきながら、立ち上がった。風呂に入るために、ドレッサーを開いて着替えを選んだ。ところが、小物入れから下着を取り出そうとしたとき、不意に一週間前の、あの事件のことが脳裏によみがえってきた。あの時、真由は祐輝の体の上であられもない姿をさらしてしまったのだ。

「な、なんで今頃、あの時のこと思い出すのよ、もうっ……」

 自分に腹を立てながら、真由はおぼつかない足取りで部屋を出ていく。


 立川駅に集まった部員たちは言葉を失って、階段口からのっそり現れた長身の少年を見つめた。

「おはようさん……あれ、俺が最後か?」

「ゆ、祐ちゃん、か、髪、いつ切ったの?」

「ああ、これ?夕べ、鏡見ながら、自分で切った……おかしいか?やっぱり……」    


 祐輝は、中学以来ずっと続けてきたリーゼントをすっぱりとやめて、短く切っていた。

 その理由は、誰も知らなかった。

「ううん……とっても素敵……」

 竜之介の目はすでにハート型に近かった。

「先輩、いいっすよ。やっと、現代人になったっていうか……痛っ」

 安井の頭をこづいた後、祐輝はスポーツバッグをベンチに置いて、ジーパンのポケットをごそごそと探り始める。

 それまで黙って祐輝を見ていた沙代子が近づいてきて、髪をかき上げるいつもの仕草をしながら話しかけた。

「 何か 心境の変化でもあったのかしら?ふふ……確かに、少しは変わってもらわないと、コンクールが心配ではあるけど……」

 

 祐輝は携帯の着信を確認すると、にこやかな顔を沙代子に向けた。

「おう…まかせとけ。合宿で俺の進化した姿を見せてやるよ」

「あら、それは楽しみだわ…」

 沙代子の言葉が終わらないうちに、ホームに電車が入ってきた。部員たちは手荷物を持って、一斉に移動を始める。


 真由は信号待ちのたびに携帯を取り出し、メールを開いて眺めては、思わずクスクスと独りで笑っていた 。そこには 髪を短く切った祐輝の、照れくさそうな写メールがあった。

 昨夜、ベッドでため息ばかりついて眠れずにいた真由の耳に、十二時を過ぎた頃、突然メールの着信を知らせる音楽が聞こえてきた。真由がベッドから跳び起きて、携帯を開くと、その祐輝からのメールがあったのだ。

 自転車で二十分あまりかかる学校への道のりも、今朝は少しも長くは感じなかった。

(先輩…今頃、電車の中ですか?わたしのメール、ちゃんと読んでくれましたか?早く会いたいです。でも、わたし、我慢します。だから、きっとお返事下さいね)

 鼻の奥がつーんとなって、思わず涙が溢れてくるのを、真由は自分でも驚きながら手でこするのだった。

 

 京葉線の電車の窓の外には、春の日ざしに照らされた東京湾が広がっている。乗り継ぎの時間も含めて、かれこれ一時間半近く満員電車に揺られている演劇部の面々はさすがに疲れた様子で黙り込んでいた。


「祐ちゃん…さっきから、携帯ばっかり眺めてるけど、誰と交信してるの?」

 竜之介が、ようやく人が少なくなった通路を祐輝のそばまでやってきた。

「ああ、ゲームだよ、ゲーム……ほら、お前もやるか?」

 明らかに、今あわてて画面を切り替えたのは見え見えだったが、竜之介はあえてそれ以上は追及しなかった。


「ねえ、あれはどうだったの?」

 竜之介は声をひそめて、祐輝に尋ねた。

「あれ?」

「ほら、あの子よ、木崎…」

 祐輝はあわてて竜之介の口を手で押さえ、辺りを見回す。

「ヨッシー…名前を出しちゃあ、おしまいだぞ。いいか、聞けよ……」

 

 うなずく竜之介に、祐輝は真剣な顔でささやいた。

「俺は、生まれ変わった……新生永野祐輝だ……彼女はすごいぞ…インスピレーションの宝庫だ……これからも、彼女にいろいろ教わるつもりだ……いいな、口が裂けてもこのことは秘密だぞ。もちろん、彼女にも近づくな」

 竜之介は感激にしゃがれたような声を上げながら、何度もうなづく。


 一時間に一通の割合で、真由からのメールが届いていた。内容はたあいもないものだったが、祐輝にとっては貴重な宝物で、元気の源でもあった。

 宿舎に着いて早々、休む間もなくランニングに始まり、夕食までみっちりと体力トレーニングが続いた。バスケ部出身の祐輝にとっては、どうということもないメニューのはずだったが、終わる頃には相当へばっていた。やはり体力がかなり落ちていることを思い知らされた。

 祐輝がそう感じるくらいだったので、他の部員たちにはまさに地獄の特訓だった。メニューを考えた沙代子自身、予定よりかなり早く練習の終了を告げ、夕食まで休憩を宣言した。


「ああ、もう、あたしダメ……死んじゃうわ」

 海岸公園のベンチに倒れ込んだのは、竜之介ばかりではなかった。ほとんどの部員たちが、宿舎に帰る前にあちこちのベンチで体を休めていた。

「あれ?ねえ、部長、祐ちゃんは?」

「まだ、海岸にいたわよ」

 

 祐輝は美浜海岸に続く美しい砂浜を歩きながら、何度も携帯のシャッターを押していた。

 真由から『写真、いっぱい送って下さいね』とメールで頼まれていたからだ。

「よし…こんなもんかな。あいつ、まだ部活中かな。ちょっと声を聞きたいな」

 写メールを送った後、祐輝は真由の携帯の番号を押そうとして、不意に手を止めた。

「いや、やっぱりやめとこう。今あいつの声聞いたら、飛んで帰りたくなっちまう」

 祐輝は携帯を閉じると、目の前に広がる海に目を向けた。愛しいもの、守りたいものがあるということは、こんなにも人に充実感を与えるのだ、と、祐輝は改めて実感するのだった。


 夕食後、祐輝たちは体育館を借りて一幕ごとの通し練習を始めた。ところが、その練習は最初から祐輝の独壇場になった。ついこの前まで、ミスを連発していた祐輝とはまるで別人のようだった。彼は完璧に主人公の青年を演じていた。いや、完璧すぎたのだ。

 他の部員たちが声もなく舞台に見とれている中で、沙代子は眉間にしわを寄せて、何度も唇をかみしめていた。


「ストップ……はい、オーケーよ。じゃあ、十分間休憩ね」

 沙代子は二幕の途中で練習を止めて、竜之介や他の部員たちに囲まれてステージを下りてくる祐輝を待ち受けた。

「ああ、もう、あたし、燃え尽きそうよ。すごい、すごいわ、祐ちゃん……」

「だから、言ったろうが……新生永野祐輝ってな」


「永野君、ちょっと、いい?」

「え、ああ……」

 祐輝は、深刻な顔の沙代子を不審に思いながら、彼女の後について体育館の出口へ向かった。

「何だ、部長?俺の演技、まだ不満か?」

「ええ……すごく不満よ」

 沙代子は薄暗いロビーの片隅に立って、じっと祐輝を見つめた。

「ちぇっ…俺、一生懸命やってるんだぜ。少しはほめてくれてもいいじゃねえか」   


 ちょっと間があった後、思いがけない言葉が沙代子の口から聞こえてきた。

「ごめんね……」

「えっ…ちょ、ちょっと、部長……」

 突然、沙代子が顔を手で覆って涙を流し始めたのを見て、祐輝はあわてた。

「ごめんなさい…えへ…バカみたいよね……あのね、祐輝君……」

 沙代子は珍しく下の名前で祐輝を呼んでから、うつむきかげんで続けた。

「あなたの演技は、完璧だったわ。見ていて何度もぞっとしたくらいすごかった……でもね、本番はまだ一ヶ月後なのよ。ピークをそこに合わせなくちゃいけないの……」

「ああ、わかってるよ……ちゃんと、調整するさ」

「いいえ、わかってないわ。あのね、人間の感性って不思議なもので、感動のピークを過ぎると、二度と同じ感動は味わえないの。俗に言う、マンネリ化に陥ってしまうわけ…… それは演技にも言えることなのよ。今、あなたと主人公の若者はぴったりと一つに重なっている。でも、このままあなたが役に慣れてきたら、どんどんずれが大きくなっていくの……どんどん永野祐輝が前に出て来ちゃうのよ」

 

 祐輝にはまだ話の内容はよく理解できなかったが、沙代子の真剣なまなざしに負けてうなづいた。

「わかった……それで、どうすりゃいいんだい?」

「あなたはしばらく別メニューで、ギターと歌の練習に打ち込んでほしいの。もちろん体力トレーニングは一緒にやってもらうわ。いい?」

「了解……」

 祐輝は手を上げて承諾すると、去っていこうとした。

「祐輝君……」

「ん?まだ、なんかあるのか?」

 

 沙代子はためらいがちに祐輝のそばに近づいてきた。

「嫌な女って思ってるでしょうね……」

「いや、そんなことは一度も思ったことないぜ……」

 祐輝は微笑みながら続けた。

「部長はいつも冷静で、正しい判断を下してくれる。みんな信頼してるよ」

「そうね……でも、〝信頼〞イコール〝好き〞じゃないでしょ?」

「え、ま、まあ、それは……」

 祐輝は沙代子のまなざしに押されるように、一歩後ろに下がった。

「祐輝君…わたし……」


「休憩時間、終わったよお。二人とも、何やってんのお?」

 まるで計ったようなタイミングで、竜之介が体育館の中央付近から、大きな声で叫んだ。

「おう、今行く……さあ、部長、みんな待ってるぜ」

 沙代子は明らかにすねた顔で祐輝をにらんでから、つかつかとロビーを出ていった。


「はいはい、三幕、病院の場面から始めるわよ。ほら、ぐずぐずしないの……なあに、ヨッシー、そのメイク。健康なブタじゃないんだから……」

「まっ…ひどおい、あんまりな言い方だわ……」

 フロアーのいつもの喧噪を何か遠くのことのように感じながら、祐輝はそっと体育館から出ていき、自分の部屋に戻った。

 部屋の中は暗かったが、座卓の上に置いていた携帯が、着信があったことを示す緑の光を放っていた。

 祐輝は灯りをつけると、さっそく携帯を開いて着信履歴を見た。七時からほぼ二十分おきに、真由からのメールや着信が来ていた。祐輝はリダイヤルを押して携帯を耳に当てる。二回の呼び出し音のあと、あの一番聞きたかった声が聞こえてきた。

『もしもし、先輩ですか?もしもし……』

 祐輝は目をつぶって、うっとりとその声に聞き惚れた。

「やあ、俺だよ……元気だった?」

『もう、びっくりしたじゃないですか。黙ってるんだもん……』

「あはは…ごめん…真由の声に聞き惚れてた……今、何してる?」

『今ですか?ギターを弾いてました。先輩が帰ってきたら、ちゃんと教えてあげられるように練習してるんですよ。ふふ……』

「そっか…楽しみにしてるよ。実は、俺も今からギターの練習なんだ……」

『あ、そうなんだ。ふふ…わかんないところがあったら、電話下さいね』

「ああ、そうするよ……なあ、真由……」

『はい…』

「真由の顔、写真で送ってくれよ」

『あちゃあ、やっぱり、そうきましたか……』

「なんだ?その変なリアクション…」

『いえ、あの、先輩がそう言ったらどうしようって、ずっと悩んでいたんです』

「なんで悩むんだ?」

『だって…先輩には、一番可愛いわたしの写真を持っていて欲しいんです。だから、どんな服着て、どこで写そうかって、迷ってて……』

 祐輝は今すぐにでも、真由を抱きしめに飛んでいきたい衝動に駆られた。

「いいから、すぐに送るんだ。あと、一分後だ」

『ええっ…そんな……わ、わかりましたよ……』

「真由……」

『は、はい……』

「大好きだ……」

 真由は携帯を耳に当てたまま、わなわなと唇を震わせ始める。すぐに涙が溢れてきて、ぽとぽとと楽譜の上に落ちていった。

『お前、今笑いこらえてるんだろう?いいぜ、笑っても…俺は急性真由中毒さ……大声で叫んでやろうかな。愛してるぜ、真由、おお、マイ・ハニー……』

「せ、先輩っ、もう……ふふ……バカ……」

 長いまつげに溜まった涙の滴を手でこすりながら、真由は切ないため息をつく。

「あ、そうだ、ねえ、先輩……」

『うん、なんだ?』

 真由は立ち上がって、机の上に置いていた本を取り上げると、パラパラとページをめくった。

「先輩の血液型、何ですか?」

 真由はきっと祐輝はO型だと確信しながら、O型が好きな女の子のタイプのところを眺めた。

『俺は、確かB型だったな。それが、どうかしたのか?』

「ええっ……そ、そんなあ……」

 真由はショックを受けて、血液型の相性のところを開いた。真由はA型だ。どんな本を見ても、A型とB型の相性は最悪なのだ。

『なんだ、血液型占いの本かなんか、見てるのか?お前、信じてるのか?』

「ううん、今日限り、信じないことにします。大丈夫です」

『ああ、そうさ。血液型なんかで左右されてたまるかよ。真由は真由で、俺は俺だ。俺は真由が好きだ。真由の何もかもが好きだ』

「うん…わたしだって……先輩が…大好きです……」

 しばらくの間、幸せな沈黙が続く。真由はうっとりと目をつぶって、受話器の向こうの祐輝の息を吸い込むように、大きく深呼吸をした。

『真由……』

「はい……」

『そろそろ、ギターの練習始めるから……写真、必ず送るんだぞ』

「うん……頑張ってね……」

『おう……じゃあ……』

 通話が切れた後も、真由はしばらくの間、そのツーツーという音を聞いていた。こんなに切ないほど幸せな気分を、永遠に心に閉じこめておきたかった。

 

 次の日の朝、目を覚ました祐輝は、ひどく体が重く感じられた。昨日のトレーニングの疲れが残っているのだろうか。今まで感じたことがない虚脱感だった。

「だらしねえな、あれくらいのトレーニングで……よし、気合いを入れていくぞ」祐輝はベッドから出ると、ジャージーを着込んで、洗面所へ向かう。

「あれ?…」

顔を洗った後、鏡に映った自分の顔を見て、祐輝は首をかしげた。顔色が黄色く、目の下にうっすらと黒い隈ができていた。もしかすると病気かもしれない、と思いながら食堂へ向かう。


「祐ちゃん、おはよう」

「おう、おはよう」

 階段の手前で竜之介が後ろから追いついた。

「聞いたわ、部長から……」

「そっか……まあ、あいつの言うことは正しいと思う。しばらくはギターの練習に打ち込むさ」

 竜之介は珍しく悲しげなため息をついて、祐輝の腕をそっと抱きしめた。

「演劇って、難しいものねえ。上手すぎてもダメだなんて……」

「ああ…そうだな」

 竜之介の腕から自分の腕を引き抜きながら、祐輝はうなづいた。


 食堂にはすでに他の部員たちが集まっていた。祐輝と竜之介もプラスチックのトレイを持って、みそ汁や御飯などを受け取っていく。

「おはよう…ギターの練習は進んだ?」

 祐輝がテーブルに着くと、やけににこやかな顔で沙代子が尋ねた。

「ああ、ばっちり……後で聴かせてやろうか?」

「ええ、ぜひ聴かせて……でも、その前に、今日はあなたにお願いがあるの。この新入部員七名に、腹式呼吸と発声・活舌の特訓をしてやってほしいの」

 祐輝は肩をすくめながら、向かい側の後ろの方に並んだ一年生の女の子たちに目を向けた。ほとんどが祐輝めあてに入った女の子たちである。期待に舞い上がりそうな様子で顔を見合わせている。


「ふむ…まあ、しかたねえな。わかったよ」

「ふふ…ごめんね。本当はわたしがやるつもりだったんだけど、あなたがやった方が効果が上がるんじゃないかって思って……」

 竜之介を除く二、三年生の部員たちは、クスクス笑いながら祐輝の困った顔を眺めている。一方、竜之介は不満たらたらの顔で、喜ぶ一年生たちを睨みつけていた。

 

 祐輝は朝食もあまり食べなかったが、彼の異変に気づく者は誰もいなかった 。そのため祐輝自身も、そんなに大したことはないのだろうと考えて、体力トレーニングに参加したのである。

 ところが、海浜公園の周回コースのランニングが二週目に入った直後 、事件は起こった。祐輝が突然、めまいと激しい嘔吐感に襲われて、道のわきにしゃがみこんだのである。


 部員たちはあわてて彼を宿舎まで抱えていき、救急車を呼んでもらった。すぐ近くに総合病院があり、祐輝は救急車でそこへ運び込まれた。

 診察はずいぶん長い時間がかかった。部員たちは全員不安な気持ちで待合室に座り、診察が終わるのを待っていた。

 特に、竜之介は不安にいたたまれず、パニックになりかけたが、沙代子と安井に何とかなだめられながら椅子にうずくまっていた。

 

 やがて十一時になろうとする頃、ようやく一人の中年の医師が待合室に現れて、部員たちの元へ近づいてきた。

「永野祐輝君の関係者の方ですね」

「あ、はい…」

 沙代子の声はさすがに少しうわずっていた。部員たちは一斉に医師の周りに集まってきた。

「ええ、まず、お断りしておきますが、診断結果につきましては、基本的にご本人か、ご家族の方だけにお知らせすることになっております 。どなたか ご兄弟はおられますか?」

「いいえ、あの、わたしたちは高校の演劇部の者で、今合宿をしているんです。あの、彼は、永野君はそんなに重い病気なんですか?」

 

 医師は小さなため息をつくと、言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。

「まだ、はっきりとはわかりませんが、すぐに入院治療の必要があるでしょう。あなたたちは東京の高校生ですか?」

「はい、立川南高校です」

「ふむ…では、紹介状を書きますので、できれば今日の内にご家族に迎えに来てもらってください。詳しいことはその時にご家族にお伝えします」

「わかりました。すぐに連絡します」

 医師は軽く頭を下げると、廊下の奥へ去っていった。

 

 祐輝は病室のベッドの中で、ぼんやりと白い天井を見つめていた。先ほど、医師がやってきて、診断結果を告げた。それは祐輝にとってあまりにもショッキングな内容だった。

「肝臓にあきらかに腫瘍と思われる影が見られます……」

 レントゲン写真を見せながら、医師は言った。

「そのため、恐らく、肝機能が弱まり、体内の毒素が分解されにくくなっているのでしょう」

「腫瘍って…あの…ガンということですか?」

 祐輝の問いに、医師は静かにうなづいた。

「そういうことです……ただし、転移性の悪性腫瘍かどうかは、もっと詳しく調べないとわかりません」

 

 医師はそう言った後、呆然となった祐輝に言い聞かせるように、ゆっくりと続けた。

「ガンの告知は、本当はあなたの了解を得てからすべきことでした。しかしながら、あなたの年齢や今後の治療のことなどを総合的に考えて、告知した方が良いと判断しました。ご了承下さいますか?」

「あ、はい……教えてもらって良かったです。ありがとうございます」

 医師は小さくうなづくと、後のことを看護師に指示して病室を出ていった。


 看護師は点滴の状態を確認すると、バインダーとボールペンを手に祐輝のそばに立った。

 幾つかの質問に答えながら、祐輝は何か非現実的な世界にいるような感覚に襲われていた。夢であってほしかった。しかし、その一方では、現実を冷静に受け止めている自分もいた。何か自分が二つに分裂してしまったような、不思議な感覚だった。

 

 看護師が去ってしばらく経ったとき、病室のドアが静かにノックされ、沙代子と竜之介が入ってきた。沙代子はやや青ざめて硬い表情で、竜之介は泣きはらした目をハンカチで押さえながら祐輝の枕元に近づいてくる。

「おう…迷惑かけちまったな」

「祐ちゃん…うう……」

「おいおい、ヨッシー、泣くなよ、縁起でもねえ……俺が死んじまうみてえじゃねえか」

「う…うう…だって……」

 沙代子が無言で非難するように竜之介の背中を叩いてから、顔を近づけて祐輝の顔をのぞき込んだ。

「入院しなくちゃいけないんだって……お母様に連絡しといたわ。夕方までにはこちらに来られるそうよ」

「ああ、すまなかったな……それに、練習に穴あけちまって……」

「そんなことは気にしなくていいの……ゆっくり体を休めて治療しなさい。元気になってもらわなくちゃ、困るんだからね……あなたの代役なんていないんだから……」

「うん、大丈夫だ。肝臓の機能が弱っちまっただけらしいからさ……すぐに復活してみせるさ」

 沙代子はにっこりしてうなづくと、枕元から離れた。代わって竜之介が祐輝の枕元にしゃがみこむ。

「祐ちゃん、あたしにできることがあったら、何でも言ってね。毎日お見舞いに行くからね」

「ああ、ありがとな。でも、毎日のお見舞いは勘弁してくれ……いいか、ヨッシー、俺は入院中、不治の病と向き合う女の子の心境を味わってみるつもりだ。退院したら、その結果をお前に教えるよ。だから、入院中は俺が呼ばない限り、来るんじゃない。いいな?」

 竜之介にとっては辛い通告だったが、祐輝の言葉は絶対だった。

「わかったわ……きっと、一週間もしないで退院できるわよね」

「ああ、そのつもりだ」

 竜之介はようやく泣きやんで枕元を離れる。


「じゃあ、わたしたち、宿舎に戻るから……東京の病院がわかったら、連絡ちょうだい」

「 ああ 了解……あ 、そうだ、すまねえけど、俺の荷物 誰かに運ばせてもらえねえか?」

「ええ、ポッキーが今持ってきている途中だと思うわ。じゃあね」

 

 沙代子と竜之介がドアの向こうに消えると、病室は再び静寂に包まれた。明るい春の日ざしが、白で統一された壁や天井を照らしている。祐輝は大きく一つため息をつくと、目をつぶって眠りの世界に入っていく。

 

 真由は何かもやもやした不安を感じながら、合奏の練習にもあまり身が入らなかった。というのも、昨夜のメールを最後に、祐輝からの連絡が途絶えていたからだ。

 劇の練習が忙しいからだ と、 自分に言い聞かせていたが、寂しさと不安といらだちの混ざったものが、彼女の心を重くしていた。逆に言うと、それほど真由の恋は急性で一途なものになっていたのだ。心の余裕なんて、今の真由にはなかった。

 休憩時間になると、真由は部室から飛び出して校舎の裏に走っていった。いけないとは思ったが、思い切って電話をしてみることにした。しかし、受話器の向こうから聞こえてくるのは呼び出し音だけ……。真由は思わず涙ぐんで、怒ったように携帯を荒々しく閉じると、肩を怒らせながら部室へと帰っていく。

 

 祐輝は迷っていた。自分の病気のことを、真由に知らせるべきかどうか。もし、悪性のガンで、あまり生きられる時間がなかったとしたら……。逆の立場になって考えると、絶対に教えてほしいと思う。しかし、教えれば、真由を悲しませるだけの結果になることは目に見えていた。

(いや 俺が考えるほど悲しまないかもしれないじゃないか 。だって まだ、 俺たちはただ、話をするだけの関係だ。恋人同士なんて言う段階じゃない。今なら、まだ真由の心にちょっと悲しい思い出が一つ残るだけで、また新しい恋を見つけられるさ)

 真由の新しい恋、新しい恋人……それは、永遠に祐輝が知ることのできないものだ。これまでの人生で、数えるくらいしか流したことのない涙が、はからずも彼の目尻から流れ落ちていった。

 

 自宅から電車で二駅の町にある都立病院に、祐輝は入院した。両親は驚き悲しんだが、これから行われる精密検査の結果に一縷の望みを託していた。結果が出るまでには少なくとも三日はかかると担当医は言った。


「あの…友人に連絡をしたいんですけど、電話かけに行っていいですか?」

 祐輝は点滴の取り替えに来た看護師に尋ねた。

「んん…本当は絶対安静なんだけどね……じゃあ、トイレに行って来るということで…… ただし、五分以上はダメよ」

「はい。ありがとうございます」

 祐輝は看護師に礼を言うと、ベッドから起き上がった。

「祐輝、大丈夫?」

「うん、昨日まで走ってたんだ、なんてことないよ。ああ、母さん、バッグのポケットから携帯取って……」

 心配顔の母親を部屋に残し、祐輝は点滴を押しながらエレベーターに向かう。

 

 部活からの帰り道、力無く自転車のペダルをこいでいた真由は、突然鳴り出した携帯の呼び出し音に、あわてて自転車から飛び降りた。その場に自転車を倒したまま、もどかしい気持ちでバッグを開け、怒って封印していた内ポケットから携帯を取り出した。表示を見ると、間違いなく祐輝からだった。とたんに涙で目がかすみ、手が震え始める。

「はい…もしもし……」

『ああ、よかった…なかなかつながらないから、どうしようかって思ったよ……真由…… どうかしたのか?』

「……いいえ…何でもないです……先輩こそ、どうしたんですか?…わたし、何度も電話したんですよ……練習、そんなに忙しかったんですか?……あの…ごめんなさい……勝手に電話しといて…文句言って……嫌な女ですよね……ごめ…なさい……」

 受話器の向こうから聞こえてくる真由の涙声に、祐輝は胸が詰まって何も言えなくなった。

 

 この 時 、祐輝は決意した。病気のことは真由に話すまい と 。いずれはわかることだが、 真由を泣かせるのは最後の最後だけでいい。

「ごめんな……どうすれば、許してくれる?」

 真由は、自分のわがままな思いを優しく受け入れてくれる祐輝に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「ううん……もう、いいんです。変ですよね、わたし……まだ二日しか経ってないのに、もうずいぶん長く先輩に会ってないような気になって……寂しくて……」

『俺もだよ……今も、待ち受けの真由の写真見てたけど、なんか遠くに感じちゃってさ……寂しいよ』

 

 真由の焼けつくようだった胸の奥が、すーっと心地よく潤っていく。自分だけが苦しみを味わっているのではない。彼も同じ気持ちなのだ。そんな一体感が、真由に安心と冷静さを取り戻させた。

「先輩……真由も我慢します。だから、先輩も演劇の練習に集中してください……」   


 祐輝は辛かった。真由にうそをつかなければならないことが、胸を苦しくする。

「うん……そうだな……」

『うん…走るのと一緒ですよ。あまり最初から飛ばしすぎると、すぐ息切れしちゃいます…ふふ……わたしたちには、これからずっとずっと続く時間があるんだから……』


(ずっとずっと続く時間……)

 祐輝の胸はさらに苦しく締め付けられた。つい昨日までは、あまりにも当然のことで考えもしなかった。しかし、もしかすると自分には、わずかな時間しか残されていないのかもしれないのだ。その底知れない恐怖と絶望感……。


「なあ、真由……」

『はい…』

「初めてのデートは、どこに行こうか?」

 真由は思わず声を上げそうになって、辺りを見回した。さいわい人通りが途絶えて彼女を見ている者は誰もいない。赤くなった顔にこみ上げる喜びを溢れさせて、真由は大きく一つ深呼吸をした。

「わたし、どこでもいいです……先輩と一緒なら……」

『そうか……じゃあ、考えておいてくれよ、今度の日曜日までに』

「はい……あ、でも、土曜日じゃないんですか?」

 

 真由は一日でも早く祐輝に会いたかった。

『あ、ああ、土曜日は、ちょっと用事があるんだ……』

「そうですか。わかりました。そうですよね、先輩、帰ってきてすぐだし、疲れてますよね……じゃあ、日曜日、楽しみにしてます」

『うん…じゃあ、またしばらくは連絡出来ないかもしれないけど、すねないでくれよな』

「わ、わかってますよ、いじわる……」

受話器の向こうから聞こえてくる小さな笑い声に、真由は祐輝への切なくなるほどのいとおしさを感じて、目を閉じた。

『じゃあ、切るぞ……』

「先輩、一つお願い、いいですか?」

『ああ、何?』

「わ、笑わないでくださいね。絶対ですよ」

『うん、約束する』


 真由は目を閉じたまま。すぐそばに祐輝がいると想像しながら言った。

「キ、キスしてください…受話器に向かって……」

 今度は祐輝が思わず周囲を見回す番だった。近くにはタバコを吸っているおじさん二人と、タクシーの運転手二人が話をしていた。その人たちから見えないように背を向けて、声をひそめた。

「じゃ、じゃあ、いくぞ……」

『はい…』

 祐輝も自然に目を閉じて、真由の姿を思い浮かべる。そして、真由に聞こえるように、唇で小さな音を作った。

 二人の世界から音が消え、優しい時間だけがゆっくりと流れてゆく……。

 

 ドアが静かに開いて、担当の医師と初めて見る若い医師、そして看護師が一人入ってきた。祐輝はベッドの中で、両親はベッドのわきに立って彼らを迎え、無言で頭を下げた。検査の結果が告げられる日だった。

 この三日間、祐輝は血液検査、CTスキャン、内視鏡検査などを次々に受けて、少々うんざりしていた。これから、こういう毎日が続くのかと思うと、憂鬱この上もない気分だった。


「では、診断の結果をお話しいたします。どうぞ、お座りになって下さい」

医師は両親に向かってそう言うと、看護師が持っていたカルテを受け取って、メガネをかけ直した。

「ええ……まず、今のところ、体の他の部位への転移は見られません…」

 両親のほっとする息づかいが横から聞こえてくる。祐輝もひとまず安堵した。

「しかしながら、組織の検査の結果は、悪性の胚芽腫でした。つまり、このままいくと、転移する可能性が非常に高い、ということです」


 両親は無言だった。その顔を見なくても、どんなに衝撃を受けているかは容易に想像できた。

「そうですか。それで、どんな治療を……」

 祐輝は意外に冷静な自分自身に驚きながら、医師に尋ねた。

「ええ、いくつか選択肢はありますが……抗ガン剤と放射線の組み合わせというのが今のところ妥当だと思われます」

「手術は出来ないんですか?」

「ううむ……もちろん、その選択肢もあるのですが……」

 

 医師は難しい表情でためらいがちに答えた。

「さきほど転移はないと言いましたが、もしかすると、腹膜やリンパ節に、検査ではわからなかった転移があるかもしれません。その場合、手術をすることで一気に病状を悪化させる危険があります……」


 祐輝は両親の方に目を向けた。母親はあわてて涙を拭いながら祐輝を見つめる。

「父さん、母さん……俺、手術を受けたい」

 父も母も、息子の心を懸命に読みとろうとするかのようにじっと見つめた。そして、おもむろに父祐作が口を開いて、まず医師に尋ねた。

「先生、お答えにくい質問だと思いますが……抗ガン剤と放射線の治療をするのと手術をするのとでは、どちらが生存率は高いとお考えですか?」

「それは、確かに答えにくい質問ですね。やってみないとわからない、というのが正直な所です。ガンに対しては現在のところ、確実な治療というものはありません。たとえ、手術が成功しても、再発の可能性は残ります。ですから、最終の決断はご本人とご家族にゆだねるしかありません」

「そうですか……」


 祐作は苦渋の表情で下を向いていたが、やがて息子の方に目を向けた。

「一か八かの手術に賭けるか……どうしても、そうしたいのか?」

 祐輝はしっかりとうなづいた。

「うん……俺、生きたいんだ、どうしても……」

 息子の静かな、それだけに悲痛な叫びに、敏子は涙をこらえることができず、その場にうずくまった。祐作も懸命に涙をこらえながらうなづいた。


「わかった……では、先生、息子の希望通りに……」

「ふむ……わかりました。そうなると、できるだけ早い方がいいでしょう。来週の火曜日はどうですか?」

「はい、いいです。お願いします」

 祐輝はそう言ってうなづいた後、続けて医師に尋ねた。

「あの、先生……身辺の整理をしときたいんですが、明日、一度家に帰ってきていいですか?」

「ええ、いいですよ。ただし、あまり体に負担をかけないようにね」

 そう言うと、医師たちは部屋を出ていった。


「身辺整理だなんて、祐輝ったら……うう…う……」

 家族だけになったとたん、敏子は声を出して泣き始める。祐作はそんな妻の背中をさすりながら、むしろ誇らしげに息子を見つめていた。

「学校のことなら、父さんたちが説明に行くから心配しなくていいぞ」

「ああ、そっちのことは頼むよ……実は、父さんたちに言っておきたいことがあるんだけど……」

「うん、何だ?」

 

 祐輝は少し照れながら、うつむきかげんで口を開いた。

「俺、今、好きな子がいるんだ。まだ、話をするぐらいで、デートもしたことがないんだけど……ずっとその子と一緒に生きていきたい、そのくらい好きなんだ……」

 両親は、あっけにとられた顔で聞いていたが、思わず顔を見合わせて微笑まずにはいられなかった。

「そうか……あはは……高3にもなって、彼女の一人もいないって、いつも母さんと心配していたんだ……そうか、それはよかったなあ」

 祐作はそう言って無理に笑顔を作ったが、敏子の方はすぐにまた涙目になって、息子を見つめた。


「その子、知ってるの?病気のこと……」

「いや、まだ話してない……明日、初めてのデートをする約束をしてるんだ……もしかすると最後のデートになるかもしれないから、どうしても約束をかなえたいんだ。行っていいだろ?」

 とうとう、祐作までもがこらえきれずに、うめくように泣き始める……。


 その日の夕方近く、制ガン剤の点滴を終えて、帰宅予定までの一時間ほどをベッドで休んでいた祐輝の元へ、和泉沙代子が一人でふらりと訪ねてきた。

「こんにちは。ふふ…家に帰れるんですって?ナースステーションで聞いたわ」

「よお……合宿の帰りか?」

「ええ…もう、くたくた……」

 沙代子はおおげさな身振りでそう言うと、祐輝のベッドの横に来て座った。

「お疲れさん……他のみんなは?」

「うん……みんな一緒に来るってきかなかったんだけど、部長命令で帰したの。ヨッシーが、最後までだだこねて大変だったけど……」

 祐輝は想像して笑ったが、沙代子の目に何か複雑な思いが表れているのを感じ取った。

「どうして、一人で?……」

 

 その問いに沙代子は、うんとうなづいたまま言葉を考えるようにうつむいていた。

「わたしの勘なんだけど、思ったより病気重いんじゃない?」

 祐輝は驚いて、しばらく答えに窮していたが、沙代子にはすべて話しておいた方が良いと考えた。

「さすがだな……ほんと、感心するよ。思慮深くて、手回しが完璧でさ……」

「からかわないで。どうなのよ、いったい……」

 珍しく感情を露わにした沙代子に、祐輝は真面目な顔になって見つめた。

「からかってるんじゃないぜ。むしろ、感謝の気持ちでいっぱいなんだ。一人で来てくれてよかったよ」

 祐輝はそう前置きすると、自分の心を奮い立たせながら続けた。

「俺、ガンだったんだ……」


「ええっ……うそ……ねえ、うそでしょう?」

 これほど取り乱した沙代子を、祐輝はこれまで一度も見たことはなかった。

「うそや冗談でこんなこと言えるかよ」

 沙代子はとうとう祐輝の腿の上に突っ伏して、身も世もなく、ワアワアと声を上げて泣き出した。彼女が初めて見せたそんな姿に、祐輝は自分が慰められる立場であるにもかかわらず、いじらしさを感じて、そっと彼女の肩に手を置いた。心の中で、真由に謝りながら……。

 

 沙代子はしばらくの間、何やら意味不明な文句を言いながら泣いていたが、ようやくひくひくとしゃくりを上げながら顔を上げた。

「どうして?……どうしてあなたが、そんな病気にならなくちゃいけないの?」

 逆に自分の方がその答えを聞きたいと祐輝は思った。でも、もうそんなことは考えてもしかたがない。

「みんなにはさ……お前から伝えてくれよ。六月までには絶対に退院してみせる。 だから、ちゃんと練習しとけってな」


 沙代子は、自分の思いを告白するのはもう少し先に延ばそうと決心した。今、祐輝に必要なのは、押しつけの愛じゃない。彼がこれから精一杯病気と闘えるように、よけいな心配をかけないことが、本当の愛だ。

 沙代子 が 涙を手で拭って答えようとしたとき、ドアが開いて母親の敏子が入ってきた。手術の承諾書などの手続きを済ませて来たのである。

 

 母親の顔を見た祐輝は、瞬間的にまずいと感じて、あわてて口を開こうとしたが、母親の方が一瞬早かった。

「あら、こんにちは。この方が、真由さん?」

あちゃあ、と思ったが、もう間に合わなかった。

「真由?」

「あはは…いや、昔の友人の話をしたもんだから、間違ったんだ。母さん、この人は演劇部の部長で、和泉沙代子さん……ほら、いつか、話したことあっただろう?成績はいつも学年でトップで、美人で……」

 

 沙代子は、祐輝のあわてぶりに、おおよそのことが理解できた。そして、まだ見ぬ恋敵に対して激しいジェラシーを感じた。

「そんな、見え透いたお世辞はけっこうよ」

 沙代子はぶっきらぼうにそう言うと、立ち上がって敏子ににこやかに頭を下げた。

「和泉です」

「あ、まあ、そ、そうだったの…ごめんなさいね。ああ、和泉さん、お名前は祐輝からよくうかがってますよ」

「ふふ…きっと、高ピーな女だとか、言ってるんじゃないですか?」

「い、いいえ、そんなこと……」

 もう、祐輝は両手を上げて、思わずくっくっと笑い声を漏らし始める。沙代子も敏子も、それにつられて笑い出した。

「ふふ……安心したわ。これなら、きっと、ガンなんかに負けないわよね」

「ああ、負けるもんか」


 沙代子は優しくうなづくと、敏子の方を向いて安心させるように言った。

「祐輝君から、ガンのことは聞きました 。でも きっと彼は元通りになります 。ううん、なってもらわないと困るんです。彼は…大切な人なんです。あの…たくさんの人たちにとって……わたし、今日から毎日神様にお祈りします」

「そう…ありがとう……本当に、ありがとう……」

「い、いえ……じゃあ、失礼します」

 沙代子は、自分の言葉に動揺したかのように、そそくさと頭を下げると、ドアを開いて出ていった。敏子があわてて後を追いかけていく。


 真由は地に足が着かない気分のまま、自転車に乗って門から飛び出していった。真由にとって、生まれて初めてのデートの朝だった。五月の澄んだ青空から太陽の光が降り注ぎ、幸福に満ちた真由の顔を輝かせていた。

 駅に着き、モノレールに乗り換えて向かったのは、動物公園……。昨夜まであれこれ悩んだ末に、祐輝に告げた〝行きたい場所〞だった。祐輝は、予想が当たったと、大喜びで承諾した。


 モノレールから降りて動物公園の入り口に向かう頃から、真由はもう涙が溢れてくるのが抑えきれなくなっていた。いくら冷静になれ、と自分に言い聞かせても、沸き上がってくる思いは抑えきれない。

 祐輝は、日ざしの中をこちらに向かって近づいてくる麦わら帽子の女の子に気づいてベンチから立ち上がった。白いTシャツに、小さなフリルに縁取りされたスモック風のチェック柄のワンピースをはおり、くるぶしの上までのスパッツをはいた真由が、祐輝の前に立っていた。

 真由は麦わら帽子の下から祐輝を見上げた。涙のせいで顔がよく見えない。手で涙をこすろうとしたとき、大きな腕が優しく彼女の体をすっぽりと包み込んだ。

日曜日なので人出は多かったが、もう、二人とも誰に見られてもかまわなかった。真由は、しっかりと祐輝の大きな背中に手を回してその胸に顔をうずめ、しばらく声を殺して泣いていた。


「俺が一緒にいると、泣かせてばかりだな……」

「ごめんなさい…あんまりうれしくて……泣き虫はもう治ったと思ってたのに……」

 真由はようやく祐輝から離れて、恥ずかしそうにうつむく。

「じゃあ、入るか?」

「はい…」

 二人は並んで歩き出したが、真由の方からそっと祐輝の手を握った。

「すごく可愛いぜ……帽子も、よく似合ってる」

 祐輝は前を向いたまま、小さな声でささやいた。

「うれしい……あの、先輩も、かっこ良いです。かっこ良すぎて、心配なくらい……」

 祐輝は鼻の辺りを触るいつもの癖をしながら、照れくさそうに笑った。

そんな祐輝を見ながら、真由は少し気になることがあった。入り口のゲートを通り抜けた所で、思い切って尋ねた。


「 ねえ 先輩……ちょっと顔色が悪いみたいですけど、疲れているんじゃありませんか?」

「えっ、そうか?大丈夫だぞ」

「そうですか…それなら、いいんですけど……」

 祐輝は笑いながら前に駆け出してジャンプし、そのまま空中で反転して着地した。

「なあ、動物には詳しいんだろう?いろいろ、教えてくれよ」

 真由の不安はまだ完全には消えなかったが、祐輝がそばにいる幸せがそれを覆い隠した。

「そんなに詳しくはないですよ。ただ、好きって言うだけで……」

 

二人はそれから広い公園内をゆっくりと歩いて移動した。合間には何度か、休憩所で一つの飲み物を分け合って飲み、真由が用意していたデジカメでたくさんの写真を撮った。いつしか、二人は腕をしっかりと組み、もう二度と離れまいとするかのように体を寄せ合って歩いていた。


「次はアフリカパークですよ。サファリの草原が再現された、この公園の目玉なんです」

「ああ……」

 祐輝は何やら気のない返事をすると、立ち止まって真由の方を向いた。

「なあ、この辺りは人もあまりいないし、ゆっくり話ができるな?」

 真由は祐輝が何を言いたいのか、すぐにはわからず、小首を傾けて祐輝を見つめた。

「あそこの木陰に行こうぜ」

 二人はポプラの並木の下にあるベンチに行って座った。

 

 祐輝は青空を見上げ、何か特別のものであるかのように微笑みを浮かべた。

「きれいだなあ……今日は真由が一緒だから、なおさら空が美しく見えるよ」

 真由は隠れていた不安が再び心の中に芽生え始めた 。それに幸せすぎて、心のどこかで、こんな幸せが自分に長く続くわけがない と、 悲観的に考える真由もいた 。こんなに。 素敵で、こんなに優しい彼氏ができたこと自体、そもそも奇跡なのだ。


「真由の将来の夢は何?」

「えっ…しょ、将来の夢ですか?……」

(先輩とずっと一緒にいて…先輩のお嫁さんになって…料理を作って……いっぱい赤ちゃん産んで……きゃっ……な、何、変なこと考えてるのよ、わたしったら……)

 真由はしまりのない顔で微笑んだかと思うと、真っ赤になって手で顔を覆った。


「そ、そんなに言いにくいことなのか?」

 祐輝は思わず吹き出しそうになりながら、ぐっとこらえて尋ねた。

「あ、いえ、あの……シ、シンガーソングライターです……」

「おおっ…すげえな。じゃあ、もう曲なんか、作ってるの?」

「は、はい……でも、まだ、人に聴かせられるようなものじゃないです」

「そうかあ…シンガーソングライターかあ……かっこいいなあ……」

「そ、そういう先輩は、将来の夢はなんですか?」


 祐輝は再び空に目を向け、まぶしそうに目を細めた。もし、〝将来〞というものが、約束されたものであるなら、やりたいことはいっぱいあった。

「そうだなあ……以前の夢は、プロのバスケットボール選手だったよ。でも、高校でやらなかったから、ちょっと難しくなったな。今は、俳優なんかもいいかなって思い始めてる……でも、一番の夢は……」

 祐輝は、そこで真由の方に目を向けて、少し恥ずかしそうに言った。

「真由とこれからも一緒に生きてゆくことだ……」

「そ、それは夢なんかじゃないですよ。わたし、殺されたって、先輩にくっついて離れませんから……絶対、離れませんから……」

「うん……」

 

 祐輝は不覚にも泣きそうになって、あわてて顔をそむけ、立ち上がった。こんなにいとおしい、大切なものが見つかったとたんに、神は最も過酷な運命を祐輝に与えたのだ。

 祐輝は辛かった。何もかも真由にうち明けて、思い切り泣きたかった。


「先輩…どうしたんですか?」

「あはは…いや、感動してるんだ……ありがとうな、真由……」

「感謝するのは、わたしの方ですよ……」

 真由も立ち上がって、祐輝の大きな背中に後ろからそっと抱きついた。

「わたしを見つけてくれて…ありがとう……」

 祐輝の背中がかすかに震えていた。しばらくの間、彼は無言だったが、やがてゆっくりと体の向きを変えて真由と向かい合った。


 見上げた真由の顔の上に、祐輝がゆっくりと顔を近づけてくる。真由は目を閉じて、その歓喜の瞬間を待ち受けた。しかし、祐輝の温かい唇は、彼女の広いおでこにそっと押しつけられただけだった。かすかな失望を感じながら、真由は目を静かに開いた。


「俺、詩を書いてみるよ。いろんな言葉が思い浮かんでくるんだ。よかったら、その詩に曲をつけてみてくれないか」

 祐輝の口から出てくる言葉は、いつも真由を驚かせ、時には混乱させる。しかし、後になって思い返すほどに、その言葉の一つ一つが彼女を勇気づけ、自信を与え、温かいもので包んでくれた。出会ってからまだ一週間足らずなのに、こんなに彼に夢中になってしまったのは、そんな彼の発する言葉の魔法にかかったせいかもしれない。

「うん……楽しみにしてます」

「ああ……じゃあ、行くか、アフリカン・サファリ……」

「アフリカパークですよ…ふふ……」


 真由はまだ夢心地で窓の外を眺めていた。初めてのデートは、真由に思い描いたとおりの、いやそれ以上の感動を与えた。幸せすぎて、次に祐輝と会うのが怖かった。でも、もう会いたくなった。門の手前で「さよなら」を言ってから、まだ三十分も経っていない。もしかすると、祐輝はまだ家に帰り着いていないかもしれない。

 真由は我慢できずに、携帯の番号を押した。呼び出し音が鳴り始めたとき、やっぱり我慢しなければ、と思い直して、切ろうとしたが、その前に祐輝の声が受話器の向こうから聞こえてきた。

『もしもし…真由か?』

「あ、先輩…ごめんなさい。もう、おうちですか?」

『ああ、あと三十メートルってとこかな。何か、忘れ物か?』

 真由は声が聞けたことで少し満足し、微笑みを浮かべた。

「はい、そうなんです……」

『何?』

「今日、わたし、将来の夢を聞かれたとき、一番の夢じゃなくて、二番目の夢を答えちゃいました。先輩にうそはつきたくないので、訂正します」

『あ、ああ、そうか……わかった』

 真由は大きく一つ深呼吸をすると、思い切って告白した。

「わたしの一番の夢は……先輩のお嫁さんになることです」

 窓の外の夕焼けと同じくらい赤くなって、胸をドキドキさせながら、真由は受話器の向こうから聞こえてくる返事を待った。


 とても長く感じられる間があって、ようやく祐輝の声が聞こえてきた。

『うん…ありがとう……じゃあ、俺たちの夢は同じなんだ』

「うん……ふふ…まだ、つき合って一週間も経ってないのに…それに、デートも一回だけなのに、おかしいですよね、こんな話になるなんて……」

『あはは……そうだな…でも、つき合っている長さは関係ないんじゃないかな……なぜ、こんなにも真由のことを好きになったのか、自分でもわかんないんだ……もしかすると、真由も、俺に引きずられているのかもしれないけど……いいんだぞ、無理に俺に合わせなくても……』

 真由は、途中からがく然となって祐輝の言葉を聞いていた。

「…何を言ってるんですか……」

 懸命に心を抑えた真由の声は、自分でも驚くほど低く、かすれていた。

「わたしのこと、そんな風に見てたんですか?……」

 受話器の向こうからは、ため息のようなものしか聞こえてこない。

「こんなに…先輩のこと、好きなのに……先輩には伝わってなかったんですか?」

『真由…俺…』

 祐輝は別に意図してさっきのようなことを言ったわけではなかった。軽い冗談のつもりだった。ただ、真由の真剣さを過小評価していたのは事実だった。

 めまぐるしくいろいろなことを考えているうちに、祐輝は、ふと、これは良いきっかけかもしれないと思った。

 自分はあさって運命を懸けた手術に臨む。もちろん、成功することを信じている。しかし、万が一失敗、あるいは手術が不可能という事態になったとしたら、自分も真由もその後、地獄の苦しみを味わうことになるだろう。愛すればこそ、その苦しみはより大きなものになるに違いない だったら。今のうちに真由が それほど、 悲しまなくてもいいように、自分への思いを冷ましてやるのは良いことだ。


 祐輝は瞬時にそう考えて、無理に笑い声を絞り出した。表情はむしろ苦痛に満ちていた。

「あはは……何、むきになってるんだ。俺たち、まだつき合い始めたばかりじゃないか。俺は、まだ、真由のことをすべてわかっているなんて、言うつもりはない。俺のことも、まだ、全部知っているわけじゃないだろう?……恋なんて、熱病みたいなものだって、よく言うじゃないか。それに、真由は優しいから、俺を喜ばせようと無意識に俺の期待に応えようとしているのかもしれないし……」


 真由はいつしか涙をポロポロと落としながら、祐輝の言葉を聞いていた。何が悲しいのか、よくわからなかった。むしろ、祐輝の言うことは正しいと、頭ではわかっていた。世の中の普通の男女は、恐らく祐輝が言うような、手探りの関係から恋を始めるのだろう。でも、真由には、もうそれができそうになかった。

 このわずかな期間に、真由は自分の全てを祐輝にゆだねてしまっていた。祐輝が望むなら、今すぐにでも彼と結婚することだってできる。それも、ごく自然に……。

 

 それではいけないのだ、と真由は理解した。祐輝が、自分以外の女性を選ぶ余地を残してあげなければいけないのだ。それは、真由にとって、体を引き裂かれるような苦しみを伴う理解だった。

『……今後、俺よりももっと好きになる相手が、現れるかもしれないし……』

 祐輝の声は苦痛にかすれていたが、もう真由はそれに気づく状態になかった。

「そうですね……わかりました……」

 

 少しもわかってはいなかった。そんな相手が現れるはずもないし、祐輝以外の男性に、今と同じような感情を抱くのは無理だった。

「そうか……じゃあ、当分は連絡できないから……さよなら……」

 急いで電話を切った後 祐輝 は声を押し殺して泣いた。真由の悲しみを想像するだけで、激しく胸は痛んだ。


(どうして、いつもこうなんだろう)

 灯りがともった街灯の下に座り込んで、祐輝は自嘲の笑いを浮かべた。

(バスケット部に入れなかったときもそうだ……何か、人生の重大な岐路に立ったとき、必ず不幸が襲ってくる。まるで、幸せになっちゃいけないんだって、神様が考えているとしか思えないよ……)

 ただ、今回は自分ばかりでなく、一番大切な人まで不幸に巻き込んでしまうことが辛かった。

 祐輝は力無く立ち上がると、うなだれたまま目の前にある我が家の門に向かって歩いて行く。


 月曜日の朝だった。ほとんどの生徒たちは、連休の疲れを顔に表して、重い足取りで学校への坂道を上っていた。その中に真由の姿もあった。いつもなら、自転車で上り切る坂を、今日はゆっくりと押して上っていた。くせ毛の髪はいつもより乱れ。目は明らかに泣き続けたことがわかるように、はれぼったくなっていた。

 昨夜、ベッドで泣いて泣いて、泣きながら様々な疑問が沸き上がってきた。どうにも納得がいかなかった。


「よお、木崎、頭にハムスターがいるぞ」

 教室に入ると さっそくからかい好きの男子が 、くしゃくしゃの真由の髪をからかった。周囲のクラスメイトもクスクスと笑い声を漏らす。いつもなら言い返す真由だが、今日はその元気もなかった。


「お、おい、どうしたんだ?そんなに傷ついたのか?悪かったよ」

 いつもと様子が違う彼女に、からかった男子も心配そうに謝った。しかし、真由は曖昧な返事をしたまま、自分の席に座り、英語の教科書を出して読み始めた。他のクラスメイトたちは、心配そうに、あるいは不安そうに声もなくそれを見守るのだった。

 その日の授業は、結局何も頭の中には入らなかった。考えれば考えるほど、祐輝の変容ぶりが、わざとらしく思えてならなかった。

(誰か他の女の子を急に好きになったのかしら……でも、デートの時はあんなに優しかったのに、あり得ないわ……わたし、やっぱり何かへまなことしたんだわ。それしか考えられない。先輩ががっかりするようなこと……何かしら……)


 放課後になり、軽音部の部室に向かいながら、真由は懸命に考えた。そして、二階の階段を下りきったところで、真由ははっと顔を上げて、思わず笑みを浮かべた。

(わかった…きっと、そうよ、間違いないわ…)

ようやく一つの結論を導き出した真由は、急いで靴を履くと、グラウンドへ走り出ていった。


「あ、来た来た……」

 部室棟が見えるところまで来たとき、真由の前に高田育美が現れた。何やら意地悪そうな表情だった。

「ちょっと聞きたいことがあって、待ってたのよ」

「な、何ですか?」

 育美の顔つきからして良い話であるはずがない。真由は早く話が終わってほしいと願いながら、育美が近づいてくるのを待った。


「友達から聞いたんだけど……昨日の夕方、あなた、永野君とえらく楽しそうに川沿いの道を歩いていたそうね?」

 育美は、真由の顔をのぞき込むようにしながら、ゆっくりと周囲を回った。

「どういうことかしら?彼のこと、嫌いじゃなかったの?」

「でも……永野先輩のこと、ちゃんと知るべきだって言ったの…先輩です……」

「ああ、そう…つまり、彼のことを知るために、一緒に歩いていたってわけね?」

「い、いいえ……そういうわけじゃ……」

「そういうわけじゃなかったら、いったい、どんなわけよ?」

 真由はうつむいて唇をとがらせながら、ぼそぼそと答えた。

「えっ?何?」

「デ、デートです……」

 その答えを聞くと、育美は唇を引き結んで、真由をにらみつけた。

「デート?あんたが?永野祐輝と?……」


 育美は今更ながらよけいなアドバイスをしてしまった と、 後悔して、自分に腹が立った。

 しかも、その怒りを真由にぶつけても、自分がみじめになるだけだった。

「そ、それで……うまくいったの?デート……」

 真由はうつむいたまま黙っていたが、やがて壊れた振り子時計のように、かくかくと首を横に振った。

 

 育美は思わずにんまりしそうになった。やっぱり、という思いだった。しかし、真由を可哀想だという気持ちも少しはあった。そもそも、永野祐輝がこの木崎真由のどこを気に入ったのか、育美には理解できなかったのだ。

 確かに、顔立ちは可愛いと思う。背が低い割にはスタイルもまあまあだ。軽音部の男子の中にも、真由に密かに思いを寄せている者がいることも、耳に入ってきている 。しかし、真由のどんくささと天然ボケは超一級品だ。並大抵の男では、許容範囲の限界を軽く超えるのは目に見えている。たぶん、今度のデートでも、何かやらかしたに違いない。恐らく、真由にとっては初めてのデートだったはずなのに……。


「何やらかしたの?」

 育美の声には優しさがこもっていた。しかし、真由は言いたくなかった。言えば泣き出してしまいそうだった。

「わ、わかんないです……でも…たぶん、わたしが悪いんです……」

(うん、まあそうでしょうね……)

 育美は心の中でうなづきながら、真由の肩を優しく抱いた。

「そう、落ち込みなさんな。彼だけが男じゃないわよ。真由のこと、好きだっていう奴もいるんだから……」

 育美は精一杯優しく慰めたつもりだったが、それを聞いた真由は、初めて見るような怒りの表情で顔を上げたのだった。


「わ、わたしが好きなのは、祐輝先輩だけです。たとえ…たとえ嫌われても…殺されても……ううっ…う……あ、愛…してる…で…す……ううう……」

 育美は、ただ茫然として、泣き崩れる真由を見つめるばかりだった。こんなに激しいものを、真由が持っていたことを初めて知った驚きと、このわずかな期間に、これほど深く彼女が祐輝に思いを寄せたことが信じられなかったのだ。

「わ、わかったから、泣かないでよ、もう……わたしが泣かせたみたいじゃない。ほら、真由、泣かないの」

「ごめ…なさい……」

 真由は涙を手でこすりながら立ち上がった。


「ねえ、一つ聞いていい?デートは何回したの?」

 育美の問いに、真由はハンカチで涙を拭きながら一回だけだ、と答えた。

「一回だけ?それで、そんなに愛しちゃったわけ?」

 真由は、今度は耳まで赤くなって、なおさら顔を上げられなくなった。

「まさか、キスとか……ううん、それ以上の関係まで……」

「そ、そんなこと、してないです……」

 真由は真っ赤になった顔を上げて反発した。

「だって、普通じゃないわよ。たった一回のデートで、そこまで思い込むなんて…」

「わ、わたしにも、わかりません……先輩も…あの、祐輝先輩も、どうしてこんなに好きになったのか、わからないって……恋愛は長さじゃないって……」

「うおおい…言ってくれるわね、真由ちゃん……へえ、永野君が そんなこと、 言ったの?」


 育美は微笑みを浮かべながら、ぽんと真由の肩をたたいた。

「まさに、『チッチとサリー』みたいね、あなたたち……知ってる?昔のマンガだけど……」

 真由もようやく笑みを浮かべながら、育美に目を向けてうなづいた。

「はい、知ってます。でも、わたし、あんなにチビじゃありませんよ……背もまだ伸びてますし……」

「はいはい、負けたわ……わたし、あきらめる、永野君のこと……」

 育美はすっきりした表情でそう言った しかし。 、真由は逆にまた悲しげな表情になった。

 

 それを見た育美は、ため息をついて言った。

「どんなドジをしたか知らないけどね、真由……永野祐輝が、それほどのことを口にしたのなら、わたしなら、くよくよ悩んだりしないよ。また、よけいなアドバイスかもしれないけどね。彼は、そんなドジをするところも含めて、きっと、真由のことを好きなのよ。言ったでしょ、チッチとサリーだって……サリーは、ドジなチッチが好きなの。チッチはそれを知らないんだけどね」

「育美先輩……」

 真由はうれしかった。これから、祐輝に会って聞き出す勇気が湧いてきた。

「じゃあ、部活、行こっか」

「あ、あの…わたし、ちょっと、用事を済ませて来ます」

「ふうん、そう……じゃ、先に行っとくわ」

「あ、ありがとうございました」

「また、ドジして振られちゃえ」

 育美は憎まれ口を叩くと、手を振って去っていった。

 真由はそれを見送ると、さきほどまでよりも何か元気が出てきた気持ちになって、演劇部の部室の方へ走り出した。

 

 演劇部の部室は、まるで真冬に逆戻りしたかのように、全員が固まったまま身動き一つせず、じっと下を向いて黙り込んでいた。やがて、その中で、吉田竜之介が絞り出すような声を上げながら、床の上に泣き崩れ、他の部員たちも次々にすすり泣きを始めた。祐輝がガンに冒されていることを告げた和泉沙代子は、気丈な様子でみんなを見回し、付け加えて言った。


「わかってると思うけど、このことは絶対他言しないようにね。それにね、永野祐輝は、決してガンなんかに負けたりはしない。そんなこと、神様がするはずないじゃない。だから、わたしたちは、彼が戻ってきたとき、恥ずかしくないようにしっかり練習をしておきましょう、いいわね?」

 部員たちはようやく顔を上げて、それぞれがしっかりとうなづいた。


「じゃあ、一幕から通していくわよ。準備してて……」

 沙代子はそう言うと、部室から外へ出ていった。彼女自身が一番泣きたかったのだ。やっとの思いで我慢していた涙が、ポロポロと頬を流れ落ちていった。ハンカチを取り出して、それを拭いながら、彼女はふと、近くに人の気配を感じて顔を上げた。

 

 隣の部室棟の陰から、見知らぬ女の子が彼女の方を見ていたが、目が合ったとたん、あわてて陰に隠れた。

「ちょっと、あなた……隠れなくていいから、出てらっしゃいよ」

 沙代子の声に、女の子はおずおずと建物の陰から出てきた。

 やっぱり、初めて見る顔だった。ボブカットの髪は赤っぽく、あちこちがぴんぴんと跳ねている。やせて小さく、制服を着ていなかったら、中学生と間違えそうな幼い感じだった。


「入部希望の一年生?」

 沙代子はてっきり新入生だと思って、そう尋ねた。

「あ、い、いいえ、あの……」

 真由はいきなり和泉沙代子に出くわして、動揺していた。沙代子の大人っぽい美しさに比べると、自分がいかにも見劣りするように思えた。

「部長、何してるの?練習は…じ……あれ?」

 ちょうどそこへ竜之介が現れ、真由に気づいた。

「木崎真由……どうしたの?」


「真由?」

 沙代子はその名前を聞くと、改めて目の前にいる女の子を見つめた。

「そう…あなたが、真由さんなの……それで、どんな用?」

 真由は、沙代子が自分のことを知っているふうなのを不思議に思いながら、答えた。

「あの、永野先輩はいらっしゃいますか?」

 沙代子と竜之介は、一瞬お互いの顔を見合わせた。

「あのね、祐ちゃんは……」

「ちょっと、ヨッシー……」

 沙代子は竜之介を手で制して、小さく首を振った。

「ここは、わたしにまかせて……練習始めさせといてくれない?」

「そお…わかったわ。まったく、ちょっと、声掛けられたからって調子に乗っちゃってさ……」

 竜之介は真由をにらみつけるとぶつくさと、文句を言いながらドアの奧に去っていった。


「ふふ……気にしないでね。彼って、永野祐輝の崇拝者なのよ……ちょっと、その辺りまで歩かない?」

「は、はい……」

 二人はフェンスに沿って、グラウンドの周囲に続く銀杏並木の間を歩き出した。

「あなた、二年生なの?」

「はい……」

 沙代子は立ち止まって、真由を正面から見つめた。恐らく、この子が、永野祐輝の〝思い人〞なのだ。


「ふうん……確かに、よく見るときれいな造作をしてるわね……」

「え、あの……」

「ふふ…ねえ、あなた……祐輝君のこと、好きなんでしょ?」

 真由は、いきなり真剣を喉元に突きつけられて、パニックになりかけた。しかし、ここで否定するわけにはいかなかった。もう、それどころじゃないのだ。真由は開き直った。とたんに、すーっと心が落ち着いていった。

 

 真由は、沙代子の目をしっかりと見つめて、こくりとうなづいた。

「はい」

「そう……どのくらい好きなの?」

「えっ、ど、どのくらいって……」

「ちゃんと答えて。あなたの答えによって、これから話す内容が変わってくるわ」


 沙代子も真剣だった。祐輝がどんな思いで、今目の前にいる少女に自分の病気のことを隠したのか、それを確かめなければならなかった。

 もし、自分が祐輝の恋人だったとしたら(まだ、その望みを決して捨ててはいなかったが)、命に関わる病気のことを絶対に隠して欲しくない。愛する人の悲しみ、苦しみを自分も一緒に背負いたいと思う。

 では、反対に、祐輝の立場だったらどうか。自分がガンであることを、恋人にうち明けるだろうか。自分だったら、やはりうち明けるだろう、と沙代子は思う。本当に愛していたら、そうするはずだ。とすると、祐輝は沙代子のことを本当に愛していて、今目の前でうつむいている真由という子のことは、本当には愛していない、ということになる。

 

 真由はゆっくりと目を開き、顔を上げて沙代子を見つめた。その目を見たとき、沙代子はふと、どこかでこの目を見たことがある、と思った。いつか見た映画の中だったような気がした。

「わたしは、先輩を…愛しています…誰よりも……」

 沙代子は迷った。この子の気持ちは、間違いなく本物だ。しかし、祐輝はガンのことをこの子に話していない。どうすればいいのか。今話すべきか、それとも、祐輝の判断を尊重すべきだろうか。

 

 やはり、最終的な判断は祐輝が下すべきだ。沙代子は決断した。それに、他の女の口から、愛する人の病気のことを知らされたとしたら、この子のプライドが許さないだろう。

「そう……わかったわ。ねえ、最後に彼と話したのはいつ?」

「え、あの…ゆうべですけど……」


〝ゆうべ?〞沙代子は軽いめまいにも似たジェラシーを覚えた。運命の手術を二日後に控えた夜、祐輝はいったいどんなことをこの子に話したのだろう。根ほり葉ほり聞き出したいのを我慢して、彼女は尋ねた。

「彼、何か変じゃなかった?」

 真由は驚いた。どうして、この人はそのことを知っているのだろう。そもそも、この人と永野祐輝とはどんな関係なのか。同じ部の仲間というだけとは とうてい、 思えなかった。


「あの、先輩に何かあったんですか?」

「ええ……彼は今とても苦しんでいるの……」

 目の前の女の子が、急激に青白くなっていくのがわかった。

「とにかく、彼は今、ここにはいないわ。居場所を教えるけど、約束してほしいの」        

 真由は小さく震えながら、うなづいた。

「彼の苦しみを救えるのは…悔しいけど、あなただけよ。ただし、あなた次第では、彼はもっと苦しむことになる。いい?……もし、あなたが、これ以上彼を苦しめるなら、わたしは遠慮なく、彼を奪うわよ」

「なぜ…なぜ、先輩は苦しんでいるんですか?わたしのせいですか?……わたしが、消えれば、先輩は苦しまないんですか?」

 真由の青白い頬を涙が流れ落ちていく。


(なるほど…この子に話さなかったわけだわ……)

 沙代子は、ようやく祐輝の気持ちがわかったような気がした。と同時に、目の前の憎い恋敵であるはずの女の子が、急にいじらしく思えてきた。


「いいえ、そうじゃないわ…ふふ……二年間、ずっと彼のそばにいて、わかってたつもりだったのに……ほんと、バカなのよ、あいつ……苦しみも、悲しみも、嫌なことはみんな自分一人で背負って……そんな生き方しかできないやつなのよ……」

 沙代子は遠くを見つめながら言った。その目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちるのを真由は見た。

「彼をいろいろ問いつめたり、疑ったりしないで、信じること……できる?」

 真由はしっかりとうなづいた。

「そう……いいわ。今、彼が居るのは……」

 

 真由は鬼気迫る顔で、猛然と自転車を走らせていた。

 沙代子が教えてくれたのは、隣町にある都立病院の場所と病室の番号だった。

 なぜ、病院なのか、いったい、何がどうなっているのか、真由は混乱するばかりだった。しかし、とにかく祐輝に会いたかった。会わねばならなかった。

 何度もよろけたり、人や車にぶつかりそうになりながら、真由はようやく駅に着いた。電車を待つ時間ももどかしく、おろおろとホームを往復し、やっと入ってきた電車に飛び込む。周囲の乗客は、髪が跳びはねて汗だくの女子高生を異様なものを見るように眺め、そばに近づかなかったが、真由はもうそんなことも気にしなかった。


「あっ、思い出した…『ジェニーの肖像』のときのジェニファー・ジョーンズ……」

 三幕の立ち稽古の途中、沙代子は突然そう言って、部員たちを驚かせた。

「何なの?いったい……ジェニファー・ジョーンズがどうしたってのよ」

「あ、ごめんなさい……ふふ…気にしないで。今の演技、とっても良かったわよ、ヨッシー……」


 沙代子はそう言った後 台本に目を落とし、祐輝のセリフの部分を指でそっとなぞった。祐輝には何としても生きていてほしいし、そう信じている。でも、そうなることは、彼女の恋が終わることを意味していた。

(まっ、仕方ないか……いつかはわたしの魅力に気づいてくれるって、待っていたのがいけなかったのよね。あなたもバカだけど、わたしもバカだわ。大バカだわ……)

 

 祐輝はようやく出来上がった詩を読み返しながら、真由の顔を思い浮かべていた。いつも思い浮かぶのは、真由が泣いている顔ばかりだ。無理に、笑っている顔を思い浮かべても、すぐに泣き顔に変わってしまう。

「ほんとに……ごめんな…真由…泣かせてばかりで……」

 小さな声でつぶやきながら、祐輝は涙ぐんだ。


 突然、ドアが開く音がして、祐輝はあわてて涙を手で拭った。当然、母親か看護師だろうと思い、泣いた顔を見られないように反対側を向いた。と、なぜか、何の声も物音も聞こえてこない。ようやく変だと思って、ドアの方に向き直った。

「あっ……ま、真由……」

 

 ドアの向こうに、大きく肩で息をしながら、今にも泣きそうな顔でこっちを見つめている真由の姿があった。祐輝はベッドから下りると、手を差し伸べながらゆっくりと真由の方に近づいていった。

 真由は溢れてくる涙をごしごしと手でこすりながら、懸命に泣き声を上げるのをこらえていた。祐輝がゆっくりと近づいてきて、まるで壊れやすいガラス細工に触れるように、真由の震える体をそっと、そっと抱きしめる。真由は、祐輝の背中に傷がつくほど強く爪を立てて、彼にしがみつく……。

 病室の前を通りかかった患者や看護師たちは、思わず目を丸くし、それからあわてて見ないふりをしながら足早に去っていった。

 ようやく泣きやんだ真由は、すまなそうに祐輝を見上げてはにかんだ。祐輝は優しく微笑みながら腕をほどき、真由の肩を抱いてベッドの方へ歩いていく。そして、彼女を椅子に座らせると、いったんドアを閉めに行った。


「明日、手術なんだ」

 ドアを閉めた祐輝は なるべくさらりとした口調で言った。真由はびくっと体を震わせ、床を見つめたが、取り乱さなかった。

「ガンなんだ…肝臓の……ごめん……どうしても、言い出せなくて……」

「い、いつ、わかったんですか?」

「先週の水曜日にな……合宿の二日目に、倒れたんだ。病院に担ぎ込まれて、それでレントゲン検査で見つかったんだ。すぐにこの病院に入院させられて、いろんな検査を受けて……悪性の腫瘍だとわかって……」

 

 祐輝は罪を告白する罪人のようにうなだれたままそう言うと、ベッドにどっかりと座り込んだ。

 真由は黙って下を向いたまま、ポトポトと床に涙を落としていた。

「それで…あんなことを……わたしが、心変わりするとでも思ったんですか……バカです ……無理して…デートをしてくれたり……ほんと…に…バカですよ……」

「うん……バカなんだよ、俺って……」

 

 真由は椅子から立ち上がると、ゆっくりと祐輝のそばに近づいていった。うなだれた祐輝の肩が、後ろから優しく抱かれる。

「わたしが付いてます……ずっと、ずっとそばにいます……先輩のこと守ります……何も心配しないで……」

「真由……」

「先輩は元通りになります……絶対なります……だって、目の前に浮かんでくるんです… 結婚したわたしたちが……広い芝生の庭で、大きな犬と可愛い子供たちと…笑いながら遊んでいる、あなたの姿が……だから……」

 祐輝は顔を上げて、真由と向かい合った。涙の跡がまだ乾かない顔を微笑ませて、真由は祐輝を見つめた。

「しっかり手術を受けてください……」

「うん……頑張るよ」

 祐輝は、久しぶりに心が軽くなる心地よさを感じて、ふうっとため息をついた。

「さあ、ベッドに入って……体、休めないと……」

「あはは……なんか、世話焼きの奥さんになりそうだな」

「ええ…嫌になるくらいつきまといますから……」


 祐輝はベッドに横になり、真由はその枕元に手を重ね、その上にあごを乗せてくっつくくらいに近くから祐輝を見つめる。

「部長に聞いたのか?」

「はい……」

「そっか……あいつには感謝しないといけないな。弱気な俺の代わりに、真由に病気のこと教えてくれたんだ……」

「すごい人です……何もかも見抜いているみたいで……美人だし……ねえ、先輩、どうして、和泉さんを恋人にしなかったんですか?」

「うーん……どうしてかなあ……ずっと、一緒にいたのに、一度もそんな気は起きなかったなあ……」

 

 天井を向いて考え始めた祐輝に、真由は唇をとがらせて、さらに顔を近づける。

「ダメですよ、今さら心変わりなんて……」

 祐輝は笑いながら体を横向きにして片肘をつき、真由とまともに向かい合った そして、片手で真由の髪や頬をそっと撫でていく。真由の顔は、祐輝の大きな手のひらにすっぽりと入りそうなほど小さかった。


「ねえ、先輩……」

 真由はうっとりと祐輝を見つめながら、少し赤くなって言った。

「わたしって、やっぱり子供っぽいですか?」

「ん?なんだよ、いきなり……」

「正直に言ってください。先輩から見たら……背も低いし…む、胸もあまり大きくないし……キ、キスもできないくらい、子供に見えるんですか?」

 今度は祐輝が赤くなって、体の向きを元に戻し、天井を向いた。

「そ、そんなことねえよ……」

 祐輝はいったん言葉を切ると、一つため息をついてから続けた。

「正直に言うよ……俺、キスしたことないんだ。だから、正直、怖いんだ……」

 

 真由はとうとうベッドの上にはい上がって、祐輝の上に覆い被さるようにして見つめた。

「わたしだって、したことないです……でも、じゃあ、したいですか?」

「ああ……で、でも、俺、薬くさいだろ?……」

 真由は微笑みながら小さく首を振って、顔を近づけていく。時間は止まり、周囲の音は消えた。二人の心臓の高鳴りだけが聞こえていた。


 ガチャッとドアが開く音がして、母親の敏子が入ってきた。家の用事を済ませて、付き添いのために来たのである。

「あら、お客様だったの?」

 ベッドのわきに直立不動の姿勢で立った女の子を見て、敏子は驚いたように立ち止まった。

「ああ、あの、この子は……」

「き、木崎真由です。は、は、初めまして」

「まあ、あなたが本物の真由さん?……そう…どうも、初めまして…ふふ……」

「ほ、本物……?」

「あ…あはは……い、いや、実は、もう両親には君のこと話したんだ……」

 

 敏子は、にこにこしながら近づいてきて、バッグやスーパー袋を付き添い用のソファベッドに置くと、改めて真由の前に立った。

「まあ、可愛い。ふふ……可愛いは失礼ね。とっても、美人……祐輝って『赤毛のアン』のファンだったものね。イメージ通りじゃない?」

「か、母さん、よけいなことを……」

 真由は思わず吹き出しそうになりながら、赤くなった祐輝を見つめた。

「ふふ……どうぞ、座って……ちょうど良かったわ、メロン買ってきたの……あっ でも、 そろそろ夕食の時間ね」

「そうだ、忘れてた。真由、そろそろ帰らないと、暗くなっちゃうぞ」

「ううん、いいんです。これから家に電話します」

 真由はそう言うと、驚く祐輝を尻目に、今度は敏子の方に向いて真剣な表情で言った。

「今夜は、ここに泊まらせてください。お願いします」

「え、あの……」

「ずっと…しゅ、手術が終わるまで、付いていたいんです。お願いします」

 

 祐輝も、敏子も思わず涙をこぼしそうになって、手を顔に持っていった。

 深々と頭を下げたままの少女に、敏子は駆け寄って優しく胸に抱きしめた。

「ありがとう……祐輝は幸せ者だわ……」

 

 真由の両親は娘から事情を聞くと、すぐに病院に駆けつけてきた。黒塗りの高級外車が玄関の前に止まり、病院にはややそぐわない服を着た男女が降り立った。駐車場係の老人は、あっけにとられて見ていたが、おずおずしながら言った。

「あのう、すいません…車はこっちの方へ……」

「あっ、どうもどうも……はいはい、向こうね。じゃあ、ママ、先に行ってなさい」

「そうするわ。あっ、後ろの座席にある荷物、忘れないでね」


 その夜、祐輝の病室は思いがけず、にぎやかな声に包まれた。まるで、明日の手術を祝う宴会のような感じだった。

 仕事先から直接駆けつけた父の祐作も、事情が飲み込めぬまま、真由の両親から丁寧な挨拶を受けて、ただぺこぺこと頭を下げるばかりだったが、妻から事情を聞いてようやく笑い声をあげた。

「ああ、なんだ、そうだったのか。あはは……ああ、こちらが、真由さん……どうも、祐輝の父です。わざわざすみませんね、バカ息子のために……」

「バカはよけいだろう?」

 祐輝のつぶやきを横で聞きながら、真由は頬を染めて頭を下げた。

「あ、いいえ…こちらこそ、すみません、驚かせてしまって……」

「いやいや、手術の前夜ということで、どうやって息子を励まそうか、悩んでいたところです。おかげで、こいつも元気をもらったでしょう、なあ、祐輝」


「ああ、もう、何も思い残しはないよ」

 その言葉に、一瞬部屋の中を気まずい沈黙が流れた。祐輝は、しまった、と後悔して言い直そうとしたが、その前に真由が口を開いた。

「なに一人で納得してるんですか、先輩……」

 怒ったような顔と口ぶりであった。

「わたしは、思い残しがいっぱいあるんですから、元気になってやってもらわないと許しませんよ」

「う、うん、わかった…約束します」

 両方の親たちは思わず微笑みを浮かべて、お互いの顔を見合った。この可愛いカップルが、どうかこれからたくさんの幸せを味わえますようにと、心の中で祈らずにはいられなかった。


 真由の両親は、明日娘を迎えに来ると告げて帰っていった。祐輝の両親も見送りに出ていき、病室はまた静寂を取り戻した。

「良いご両親だな…会えて良かったよ」

「すみません…疲れたでしょう?二人とも来るなんて思わなかったから……」

「いや、ほんとに、ありがたいと思ってる……普通なら、可愛い娘が病院に泊まるなんて言ったら、許さないよ。真由はよほど信頼されてるんだな」


 真由は微笑みながら、ちょっと小首を傾けて椅子に座った。

「わたし、小さい頃は病気がちで 、ほとんど家の外に出してもらえなかったんです。

  でも小学校に上がるちょっと前、どこかの大学の偉いお医者様が、わたしを診察しに来て、両親に言ったんです。今でもそのときの先生の言葉は、はっきり覚えています。『この子を元気にしたかったら、外で思いきり遊ばせなさい。泥だらけになっても、少々怪我をしても、放っておくことです』って、そうおっしゃって……それ以来両親は、わたしがしたいことを、自由にさせてくれるようになったんです……」

 

 祐輝といつの間にか病室に戻っていた敏子は、じっと真由の話に聞き入っていた。

「それから、わたし、外で遊ぶようになって、どんどん健康になって、病気にもかからなくなって……だから信頼っていうより、両親は怖いんだと思います。わたしを自由にさせておかないと、また病気がちになるんじゃないかって……」

「まあ、そうだったの……でも、偉いわ、ご両親もだけど、真由ちゃんも……こんなにしっかりした、優しい娘さんに育って……」

「い、いえ、そんな……もっと、しっかりしないと…先輩の…お、およ……」

 真由の言葉は、最後の方はごにょごにょと何を言っているのか、祐輝には聞き取れなかった。


「さあ、まだ話したりないでしょうけど、今夜は我慢して、祐輝を寝かせましょう」     

 敏子はそう言うと、不満顔の息子に言い聞かせるように付け加えた。

「元気になったら、好きなだけ話せるんだから……今はしっかり眠って、明日に備えないと……」

「はいはい、わかりました。ちゃんと、寝ますよ」

「よろしい。ふふ……じゃあ、真由ちゃん、一緒にお風呂に行きましょう」

「あ、はい……」

 真由は椅子から立ち上がって、祐輝の方を向いた。何か言おうとしたが、言葉より前に泣きそうな顔になった。祐輝はあわてて笑顔を作って言った。

「じゃあな、おやすみ……たぶん、帰ってくる頃には、俺、眠ってるから……また、明日な……」

 真由は何とか泣くのを我慢して、弱々しく微笑みながらうなづく。

「おやすみなさい……」

 真由はやっとそれだけ言うと、背を向けて両親が持ってきてくれた着替えの入ったバッグの方へ歩いていった。


 敏子には、痛いほど真由の気持ちがわかっていた。どんなに信じていても、やはり恐ろしい不安は心の中から消えることはなかった。愛する息子を失う恐怖と絶望感に、今にも足元から崩れ落ちそうになる。この子も今、同じ恐怖と必死に戦っているのだ。

「あの、お待たせしました……」

 用意を済ませた真由が、努めて明るい声で振り返った。

「うん……じゃあ、行きましょう」

 敏子は今日初めて会ったばかりのこの少女に、自分の娘のような親しみと愛情を感じていた。同時に、息子の見る目の確かさを誇らしくも思うのだった。

 

 誰もいなくなった病室は、しーんと静まり返り、嫌でも自分自身と向き合わざるをえなくなる。

 しかし、祐輝は不思議と静かで満ち足りた心境だった。それもこれも、真由をはじめ、自分を支えてくれる人たちのおかげだと感謝せずにはいられなかった。

 手術の結果について、不安が全くないと言えば、うそになる。正直なところ、今日真由が来てくれていなかったら、自分の方から彼女に電話していたに違いない。そして、自分の恐怖や絶望、この世への未練を彼女に訴え、泣いていただろう。現実の真由に会い、触れられたことで、どんなに心が安らいだことか。

 

 ああ、いつの間にか、こんなにも彼女は自分の心の支えになっていたのだ、と改めて祐輝は思う。と、そのとたん、急に病室の中の寂しさを感じて、彼は目をつぶった。そして、できるだけ楽しいことを思い浮かべようとした。


 真由との最初の出会い……。祐輝がまず惹かれたのは、彼女の端正な横顔だった。かなり以前から、彼の中には一つの理想の少女像があった。さっき、母親の敏子がはからずもばらしてしまったように、アニメで見た「赤毛のアン」の主人公、アン・シャーリーである。

 決して美人ではないが、想像力が豊かで、心優しい少女……。祐輝はモンゴメリーの原作訳本を買って、続編も含め夢中になって読んだ。小学校を卒業する頃には、すっかり「赤毛のアン」に恋してしまっていた。

 しかし、現実には、そんな少女がいるはずもなく、やがて、その思いは彼の心の奥深くに固く封印されてしまったのである。


 ところが、真由を初めて見たとき、その封印されていた思いが一気に解き放たれてしまったようだった。なぜなのかは、わからない。彼の直感が、真由とアンとを結びつけてしまったとしか思えない。そして、その直感は間違っていなかった。

 心ない周囲の者たちが、真由を変人扱いしたのは、おそらく彼女の底抜けの優しさと感受性の鋭さを理解できなかったせいだろう。まだ一週間足らずの彼女との交際だったが、祐輝にはそのことがはっきりとわかる。真由は日本人にはごく少ないタイプなのだ、外見も、性格も……。理解できないものを疎外してしまうのは、人間の悪しき性(さが)だ。

 

 祐輝はついつい憤激して目を開き、ベッドを叩いてしまった。静寂の中に、ベッドのきしむ音と自分の息づかいだけが聞こえた。その寂しさから逃れるように、再び目をつぶった。

 あんなに優しい子を変人扱いするなんて、本当に許せない。そう考えたとき、つい先ほどの、キスの瞬間の陶酔が、唐突によみがえってきた。

(キスって、本当に甘いんだ)

 真由の温かい唇を感じながら、祐輝は心の中でつぶやいた。真由は可愛い舌もおずおずと入れてきた。最初は驚いてとまどったが、その舌を自分の舌で触れ、優しくくるんだときのめくるめく陶酔……。


 可愛い鼻息が祐輝の鼻をくすぐった。真由はずいぶん長く息を止めていたようだ。しかし、いったん鼻で息を再開し始めるや、彼女はさらに強く唇を押しつけ、大胆になった。いったん唇を離したときの、真由の赤くぼーっとなった顔は印象的だった。とても可愛いと思った。顔の位置を変えて、二人は再び唇を重ねていった。


 残念だったのは、三回目に真由が祐輝の上に覆いかぶさろうとしたとき、ドアを開く音がして、敏子が入ってきたことだ。真由のあわてぶりも可愛いかった。

 

 初めてのデートの日……。真由の麦わら帽子を見て、祐輝は思わずこう叫びそうになったものだ。

〝なんで、お前はアンの麦わら帽子をかぶってるんだ!〞

 真由が祐輝の好みを知っているはずもなかったが、祐輝の運命論に確信を与えたのは間違いなかった。やはり、彼女とは運命の赤い糸で結ばれていたのだ、と……。

  祐輝の脳裏には、真由との思い出が次々によみがえってくる。まるで、何年も一緒に過ごしたかのように……。

 

 病院の近くにあるレジャー施設の温泉に入って帰ってきた真由と敏子は、音を立てないように、そっと病室のドアを開いて中に入った。

「ずいぶん静かね。もう、寝たのかしら……。」

 敏子の問いに、真由はそっと足音を忍ばせてベッドに近づいて行く。

「眠ってるみたいです……」

 祐輝はおだやかな顔で、安らかに寝息をついていた。

「あら、本当に眠ったみたいね。ふふ……」

 背後からのぞき込んだ敏子は、そう言って小さく笑うと、そっと真由の肩を抱いてベッドのそばから引き離した。

 

 同じ女として、今の真由の気持ちは痛いほどよくわかる。きっと真由は、明日が祐輝との永遠の別れになるかもしれない、と悲観的に考えているはずだ。そうであれば、今すぐにでも眠っている祐輝を起こして、話をしたい、その腕の中に抱きしめられたい、と思っているに違いないのだ。

「さっきのメロンの残りを食べましょう。湯上がりにはおいしいわよ」

 敏子はそう言うと、ラップに包んだメロンが載った皿を持ってきて、台がわりの椅子の上に置いた。


「ねえ、真由ちゃん……」

「はい…あ、どうも……」

 敏子は、メロンの一切れにつま楊枝を刺して、真由に渡しながら言った。

「ひどい母親だと思うかもしれないけれど……あの子が手術をしたいって言ったとき、本当は反対してでもやめさせたかったの……もし、手術が失敗して寿命が縮むくらいなら、たとえ、あと半年の命と宣告されても、抗ガン剤治療の方が良いって……だって、その間に、どんな奇跡が起きて治るかもしれないし、新しい治療法が見つかるかもしれないじゃない……」

 真由は真剣な顔でうなづいた。敏子は唇を震わせながら、しばらく言葉に詰まっていたが、やがて、ふっと微笑みを浮かべて続けた。

「でもね……その後、あの子が言ったのよ、自分には好きな子がいるって……その子とずっと一緒に生きていきたいって……だから、手術を選んだんだ、って、そう言いたかったのね……あんな真剣な思いを告白されたら、もう、反対なんてできなかった……わが子ながら、なんて強い子だろう…なんて素敵な子だろうって思った……」

 敏子はそう言うと、もう涙をいっぱいためて唇を震わせている真由に近寄り、優しく腕の中に抱きしめた。

「あなたがあの子に、あんな強い心と素敵な恋をくれたのね……ありがとう、真由ちゃん ……たとえ、あの子の命が、明日終わったとしても、あの子は決して不幸じゃなかった、と断言できる……誰よりも幸せな恋をしたんだもの……」

「お母さん……」

「真由ちゃん、約束して……あの子の命がある限り、どうか愛してあげて……でも、あの子の命の火が燃え尽きたら、決していつまでもあの子の幻を追いかけたりしないで……一日も早く忘れて、新しい素敵な相手を見つけてほしいの……ううん、こんなこと言うのは早すぎるって、わかっているのよ、でも……」

 

 敏子もいつしか涙で頬を濡らしていた。声を殺して泣きながらうずくまっている真由を、そっと抱き起こして、しっかりと見つめながら続けた。

「わたしね、このまま長くあなたと一緒にいたら、今度はあなたを手放せなくなるような気がするの……ううん、きっとそうなってしまう……あなたが、新しい彼氏を見つけたりしたら、きっと、あなたを恨んでしまう……ね、だから……」

 真由は懸命に泣くのをがまんしながら、何度も首を横に振った。

「先輩は……必ず元気になります……わたし…信じてます……わたしは、先輩のお嫁さんになるんです……お母さんとも、ずっと一緒に暮らします……だから、そんなこと、言わないでください……」

「ああ、真由ちゃん……ごめんね……ごめんね……」

 二人はもう一度しっかりと抱き合って、しばらくの間涙を流していた。

「わたしって、ダメな母親ね……でも、真由ちゃんに勇気をもらったから、もう大丈夫よ……ふふ……じゃあ、明日に備えて、わたしたちも寝ましょうか」

「はい……」


 二人は涙を拭いて微笑み合うと、立ち上がった。そして、ソファと簡易ベッドを二人で動かし、並んで寝られるようにした。

 敏子が洗面所に出ていった後、真由は祐輝が眠るベッドに近づいて、彼の寝顔を見つめた。祐輝は、相変わらず安らかな寝顔で眠っていた。


(先輩……安心して眠ってください。わたしは大丈夫です。先輩のことだから、きっと、自分のことよりわたしのことが心配なんでしょう?ほんとに、ずっと泣いてばかりで、心配かけてごめんなさい。でも、悲しくて泣いたのは一度だけですよ。あとは、幸せすぎて泣いちゃったんです。先輩と出会ってから 、ずっと夢の中にいるみたいです。今でも……。これからも、きっと同じです。ずっと、いつまでも、わたしたちの夢は続いてゆくんです……愛しています……この世の誰よりも……これからも永遠に……)


 輝かしい太陽の光が、白いカーテン越しに病室の中を明るく照らしている。雲一つない五月の朝だった。

 真由は、祐輝が目を覚ます前からずっと、彼のベッドのそばに寄り添っていた。もう、話す必要はなかった。ただ、見ているだけで良かった。


「その服、すごく似合ってる……可愛いよ」

 薄いブルーの手術服に着替えた祐輝は、台車が来るのを待ってベッドに座っていた。真由は、白いサテン地のふんわりとしたワンピースを着ていた。昨夜、特に母親に頼んで持ってきてもらった服だった。まるで、ウェディング・ドレスのようだと、祐輝は言おうとしてやめた。真由の決死の覚悟を感じ取ったからだった。


「ああ、そうだ、忘れるところだった……」

 祐輝はそう言うと、枕の下から一冊のノートを取り出した。

「これ、俺が書いた詩だよ。結局、一つしか完成しなかったけど……三ページ目のやつ……よかったら、曲付けてくれないか?」

 祐輝の差し出すノートを抱きしめるように受け取って、真由はうなづいた。

「へたくそだけど、笑うんじゃないぞ……」

 真由は必死に涙をこらえながら、ぶるぶると首を横に振る。


「永野さん、じゃあ、麻酔に行きますよ」

 台車が病室の前に止まり、看護師が声をかけた。

「はい」

 祐輝は返事をして、ゆっくりとベッドから下りた。

「じゃあ、行って来る……」

 真由は唇を震わせながら、それでもしっかりと祐輝を見つめてうなづいた。

「がんばっ…て……待ってます…から……」

「うん……」

 祐輝はにっこり微笑むと、優しく真由の頭を手で撫でた。

「ありがとな……」

 祐輝がゆっくりと遠ざかり、やがて台車の音が聞こえてくる。真由は廊下へ走り出ていった。


 明るい通路の向こうに、祐輝を乗せた台車が遠ざかってゆく。涙にかすんだ真由の目には、もう、その長く続く光の通路しか見えなかった。


 敏子にそっと肩を抱かれたとき、真由の腕から一冊のノートが滑り落ちて、廊下に小さな音を響かせた。真由はそのノートを拾い上げると、涙をこすりながら、中を開いてみた。最初のページから、落書きのようにたくさんの文字が紙面を埋め尽くしていた。そして、祐輝が言った三ページ目を開いた。そこだけはきれいで、丁寧な字で一つの詩が書かれていた。

「これ、あの子が書いたの?」

 敏子の問いに、真由は小さく何度もうなづいた。そして、詩を読みながら、とうとうこらえきれずに、ポトポトとノートの上に涙を落とし始めた。敏子は真由の肩を抱きしめながら、涙に濡れた紙面に目を落とした。そこにはこんな詩が書かれていた。


結論なんて出ない

答えなんてない

大切なものは あの頃に置いたまま

みんな大人に なってゆく

青春

せつなく 甘酸っぱい

蒼く未熟な 果実の頃


行く先なんて見ない

行くあてなんてない

どんなに腕を伸ばしても 届かないまま

あこがれはいつも 遠ざかってゆく

青春

苦しく ほろにがい

ゆうべの夢の 続きの中


結論なんて出ない

答えなんてない

大切な人は あの頃に残したまま

みんな他人と 結ばれてゆく

青春

悲しく なつかしい古い日記の 涙のあと

ああ それが青春

暗く 温かい

月夜に唱う 思い出の歌

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無粋だけど繊細なノッポとあくまでも天使なチビのお話 水野 精 @mizunosei

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