第34話 悪夢の時間

 キサラの慟哭を打ち消そうとしているかのように、雷鳴を轟かせ、激しい雨が降り始める。


 エンネアの遺体を抱き寄せた羅刹鬼は、その場にうずくまったまま動かない。


 キサラの命を狙っていた神人も、空中で機体を静止させたまま微動だにしなかった。


 イルフリードのネブラ・ナーダは剣を構え、睨むようにアルカナの白い機体を見据えている。



 激しい雨は運河の水位を上昇させ、下水から溢れ出した雨水がトーチ・タウンの低地を冠水させていく。

 警報の音が鳴り響く中、アルカナ機は風の刃を打ち消すと、上空を見上げてそのまま墨色の雲間に姿を消した。


 エンネアの死が神人アルカナになにを与えたのかはわからない。


 だが、戦闘は中断され、キサラは生き延びた。


 アルカナの機体、ケイサス・アルカナムが彼方に消えるとゆったりとした風が空の雲を撫でていく。

 雨が止むと、周囲の戦況が明らかになった。


 哨戒に当たっていたルドラ率いるレーヴェ隊のみならず、哨戒をしていた帝国兵の間にも多くの犠牲者や負傷者が見留められる。


 イルフリードの指揮により生存者は即座に回収され、第七魔導研究所へと運び込まれた。


 羅刹鬼の手のひらのなかにあったエンネアの亡骸は、羅刹鬼から強引に降ろされたキサラと共に、第七魔導研究所へと運ばれる。


 悪い夢のような時間は続いていた。



 †



「『材料』は揃った。自分の務めを果たせ」


 実験室に集められた生存者を前に、イルフリードが抑揚なく告げた。

 生存者とは名ばかりの、もう意識のない者たちばかりだ。

 延命措置のための機械が運び込まれていたが、誰も繋がれてはいなかった。


「放っておけば、みんな死ぬ。この者たちはエンネアの部下だ。喜んで命を捧げるだろう」


「……あなたは聞いた?」


「何をだ?」


「彼らの遺言を」


「ああ、聞いている」


 イルフリードは即座に首を縦に振った。

 キサラにとっては見覚えのある、という程度の若い兵士たちだ。

 胸の辺りが頼りなく不規則に上下している。

 途切れ途切れではあるが、自発呼吸が残っているのは、エンネアとの大きな違いだ。


「……イルフリード」


 キサラは書きかけの鬼の骨の魔法陣の中に足を踏み入れた。


「その言葉を信じてもいいの?」


「責任は私が負う」


 若い兵士らの遺言が確かならば、エンネアはキサラの知らないところで軍人として成長していたのだろう。

 そうでなければ、少尉への昇進もなかったはずだ。


「……監視役とはいえ、部下を実験に使うのは気が引けるか?」


 イルフリードの問いかけにキサラは首を横に振った。


「いいえ。大切な人だからこそ、還ってきてほしいと思う――」


 鬼の骨の魔法陣が直ちに描かれ、瀕死の重傷者三名とエンネアの遺体がその中心に置かれた。


 ――彼岸の扉よ、禁忌の英知よ。


 どうか、祈りにこたえてほしい。


 消え往く者に新たな天命を。

 辿る輪廻は永遠に。

 愚かな願いを照らしてほしい――


 キサラの詠唱に反応し、鬼の骨が発光を始める。

 だが、頼りないほど小さな光はエンネアではなく、下肢を損傷した若い兵士の元へ収束し、静かに消えた。


「……そんな……」


 反魂術の失敗を悟り、キサラは喘いだ。


 エンネアの魂を呼び戻すための反魂術は、その魂を宿らせるには到らなかった。

 他二名の兵士の呼吸はいつの間にか止まって、静かに事切れている。


 鬼の骨から収束した光を集めた若い兵士は、小さく咳き込んで目を覚ました。


「…………あぁ……」


 悲痛な声で呻き、若い兵士は物言わぬエンネアを見た。

 その目からは瞬く間に涙が零れ落ち、噎び泣く声が実験室に静かに響いた。


 その彼の声もすぐに聞こえなくなり、実験室は再び静寂に包まれた。


 この場所には、イルフリードとキサラ以外に生者はない。


 だが、キサラはそれとは別の気配がすぐ傍にあることに気がついた。


「エンネア……」


 呼び声に反応するように、微かな気配が輪郭を帯びて行く。

 キサラの反魂術は、黄泉の国からエンネアの魂を呼ぶところまでは成功していたのだ。


『キサラさん。申し訳ありません』


 キサラの目にはエンネアの魂の姿が見えている。

 生前と変わらぬ軍服をまとった凜々しい姿で、エンネアは頭を垂れ、謝罪した。


「私の方こそ、ごめんなさい……」


 どう応えるべきか迷い、キサラはその場に膝を突き、深く頭を垂れた。


『安心してください。反魂術は成功しています』


 自分の死を受け容れた上で、エンネアはキサラの肩に触れるように手を伸ばす。

 キサラはその手のひらの感触が伝わったように、顔を上げた。


「え……?」


『失敗の原因は私にあります。私の意思で、部下の身体に定着することを拒んだんです』


「どうして――」


『目的を忘れてはいませんよね?』


 エンネアは唇に人差し指を添えて、片目を瞑って見せた。


「エンネアの魂を、取り戻せたか?」


「ええ」


 イルフリードの問いかけにキサラは頷いた。

 エンネアの声も姿も、キサラしか聞こえず、見えない。


『今の感情で私を選ぶのではなく、サヤさんを生き返らせるべきです。私の魂は、きっとその時にお役に立てるでしょう』


「エンネア……。私、そんなつもりであなたと――」


『わかっています』


 泣き出しそうなキサラの声を、エンネアは穏やかな表情で遮った。


「だったら、どうして……」


『わかっているからこそ、そうしたいのです』


 エンネアが切なく微笑みながら、宙を仰ぐ。

 隣室にいる羅刹鬼の視線がそこにあることを、キサラも察した。


『……羅刹鬼』


『なんでェ?』


 エンネアの呼びかけに羅刹鬼が胡乱うろんな声を出す。

 反応の早さから、キサラとの会話をずっと聞いていたことが窺えた。


『私の魂を守って』


『はン! 何から守ればいいンだ?』


『黄泉の国から』


 エンネアが穏やかに自分の足元を視線で示す。

 エンネアの足に絡みつくように、黒い髪のような細い木の根が幾つも伸びていた。


『喰っちまうぞ?』


『いいですよ。消えてしまうわけではないでしょう?』


 羅刹鬼の脅しにもエンネアは動じない。

 彼が本気でないことをわかっているのだ。


『チッ、やっぱ喰えねェなァ』


 羅刹鬼が渋々口を開く姿が、キサラには視えた。


『キサラさん。しばらくのお別れです。私を使って、必ずや反魂術を完成させてください』


「エンネア……」


 ――サヤを蘇らせる。


 キサラのその目的は、今やエンネアと二人の目的となった。


『そうすれば、私はサヤさんと一緒になって、キサラさんと共に生きられます』


 是とも否とも応えることの出来ないキサラの前から、エンネアの魂が姿を消す。


『いつまでも一緒ですよ』


 優しい声だけがその場に残る。


 ――どの道散る命ならば、最後にサヤに会いたい。


 キサラはサヤの勾玉を握りしめ、その場に崩れた。


 ――これは、この愚かな願いは……


 ――そのためだけに生きていた私の、どうしようもなく愚かな利己エゴだ。

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