第20話 羅刹鬼との酒宴

 実験室が片付き、殺処分された魔獣の片付けを含めた清掃を清掃員に命じ終えると、時計は深夜を回っていた。


 必要な道具を研究室に引き上げたキサラとエンネアの気配に、隣室の羅刹鬼が反応した。


『なァ、喉渇いてねェか?』


「そう言えば、そうね」


 羅刹鬼の遠回しな誘いにキサラが微笑む。


「羅刹鬼に、なにか言われましたか?」


 そう問いかけてくるエンネアは、明らかにキサラと羅刹鬼の会話に興味を持った様子だ。


「お酒が欲しいみたい。用意出来る?」


「勿論です。私たちも飲みましょうか」


「飲めるの?」


 エンネアの返答にキサラは驚いて声を上げた。


「興味があります。それに――」


 酒の調達に自動扉の向こうへ向かうエンネアはそこまで言ってキサラを振り返った。


「あの鬼の話も、聞きたくなりました」



 †



 研究室の一角。

 キサラが仮眠に使用している二人掛けのソファと低いテーブルが置かれた場所に、酒と干した肉や果物などの肴がすぐに用意された。


『はははっ、こりゃァいいぜ』


 隣室からも羅刹鬼の声が聞こえてくる。

 キサラは微笑んで、隣に座したエンネアを見つめた。


「羅刹鬼、随分喜んでいるわ。たくさん用意してくれたのね」


「どれが好みかわからなかったので、一通り供えてきました」


 そう答えるエンネアがテーブルの上を示す。

 キサラたちの分も、様々な種類の酒が用意されている。


「どれがいいですか? イルフリード様のお勧めはこれだそうです」


 そう言いながらエンネアがよく冷えた麦酒を示す。

 用意された中でも特に冷えていて、早く飲んだ方が良さそうだと判断したキサラは同意した。


「じゃあ、乾杯」


 グラスに注ぎ、取りあえず乾杯する。

 一口飲んだところで、二人とも咽せた。


「……っ、とっても苦いのね」


「ほ、本当ですね……」


『わしには水のようなもンだがなァ』


 唸るキサラとエンネアを余所に、羅刹鬼が楽しそうに笑っている。


「羅刹鬼は水だって」


「酒豪なんですね」


 エンネアは感心したように呟いて、別のグラスに氷水を注いで一息に飲んだ。

 舌をちらりと出して息を吐き出しているところを見るに、余程麦酒が苦かったらしい。


「ふふふ、そうかも。どのくらい用意してあげたの?」


 二口目の麦酒は苦みの中にも甘さを感じられた。

 キサラは喉を鳴らして水のように飲み、そこからの余韻を楽しんだ。


「ワインの赤と白、それとビール、あと、ウィスキーに清酒、それからラム酒ですね。あっ、グラナートも少しだけ」


「グラナート? それ、とても珍しいお酒じゃなかった?」


 思いがけない名にキサラが驚いて目を瞬かせる。

 貴重な山葡萄を用いて作られる極上の葡萄酒は、皇帝への献上品にも用いられるほどだ。

 エンネアは頷き、小さな酒瓶に移されたラベルのない酒を指した。

 真紅の美しい液体が瓶を満たしている。

 その存在感は見た目にも特別だった。


「はい。イルフリード様が、キサラさんと飲むと話したら是非に、と」


『親睦を深めろってことなンだろうなァ。はははは』


「……そうかもね」


 どのくらい飲んだのか、羅刹鬼はいつになく上機嫌だ。


「どうしました?」


「羅刹鬼が、今夜は飲み明かせって」


「いいですね、それ」


 エンネアは頷いて、グラナートが入った瓶を手に取り、空のグラスを満たした。


「できそう?」


「もう、頭がふわふわして、ちょっと良い気分です」


「水も飲んだ方がいいわよ」


 エンネアのグラスには、氷だけが残されている。

 水を注ぎ足しながらグラナートに口を付けると、仄かな甘みと芳醇な香りが口いっぱいに広がり、爽やかな酸味が引いていった。


 エンネアもグラスを持ち上げて氷水を飲み干すと、グラナートを舐めるように飲んだ。


「……はぁ、なんかいいですね」


「そうね」


 酒に耐性があまりないのか、エンネアの頬は桃色に色づいている。

 キサラはグラナートを味わいながら、エンネアの身体が自分の方に傾くのを微笑ましく見守っていた。


「……思えば、ここに来てずっと一緒にいたのに、こうして話すことってなかったものね」


「キサラさんはぁ、どぉして話しかけてこなかったんですぅ?」


 しっかり喋っているつもりなのかもしれないが、エンネアの口調は甘えたような口調に変わっている。

 それが本来の彼女なのだと今更気づき、キサラは悔やむように応えた。


「私は、目先の研究のこと――サヤとハクライの里のことしか見ていなかったから」


「ここもぉ、足がかり程度、というわけですか……」


「…………」


 舌っ足らずな言葉遣いではあるが、頭の方はまだしっかりしているらしい。

 キサラにしなだれかかるようにしながら、エンネアはグラナートを舐めて続けた。


「他言しませんよ。イルフリード様もお気づきのようですが」


「あの人の勘は確かだわ」


「そうなんですよぉ! 物凄く鋭くてびっくりします」


 キサラが笑うと、エンネアが急に姿勢を正して大声を上げ、喉が渇いたのかグラスの水を一息に飲み干した。


「このお酒だって、羅刹鬼に届けるとしか言わなかったのに……」


 氷を口に含んだのか、カラコロと音がしている。

 すっかり気の緩んだ様子のエンネアがキサラには嬉しかった。


「私たちが仲を深めることを歓迎してくれているようね」


「普通は任務の妨げになると言われそうなものなんですけどねぇ……」


 グラナートが気に入ったのか、それとももう自身の酒量の限界を把握したのか、エンネアがちびちびとグラナートで唇を湿らせながらぶつぶつと呟いている。


「そうではないこともあるのよ」


「え?」


 エンネアは不思議そうに目を瞬かせ、キサラを見上げた。


『体の良い人質が手に入るンなら、安いもンだろうよ』


「…………」


 羅刹鬼の発言が、恐らくイルフリードの目論見に最も近い。

 それをエンネアに伝えるべきか否か、キサラは壁の向こうを見て暫し沈黙した。


「……羅刹鬼が何か言ってます?」


「エンネアが心を開いてくれたようで、嬉しいって」


 無難な言葉で濁すと、羅刹鬼が小さく噴き出した。


『当たらずしも遠からずだ。なァ、この赤い酒はちぃっと少ねェがまだあンのか?』


「私の分をあげるわ」


 そう言いながら立ち上がると、エンネアも合わせて立ち上がった。


「お酒、足りませんでした?」


「グラナートが気に入ったみたい。持って行ってくれる」


「はい! ……あ、でもキサラさんの分がないです」


 空になったキサラのグラスを見、エンネアが眉を下げる。


「もし気になるなら、もう一口分けてもらえる?」


「喜んで」


 エンネアは微笑み、自分のグラスを差し出し、隣室の羅刹鬼の元へ向かった。


『おゥ! これだこれだァ! 血みてェな赤に濃厚な味わいってヤツが気に入った! なァ、キサラ!』


「そうね、美味しいわ」


 羅刹鬼が上機嫌でグラナートの感想を伝えてくる。

 まさにその通りだとキサラも薄く笑った。

 サヤの死後、こんな風に笑ったのはいつぶりだろう。


 思えば、羅刹鬼とこうして対話したことさえ久し振りだ


 エンネアが研究室に戻り、キサラの隣に座る。

 次に開けた甘い葡萄酒が気に入ったようで、エンネアは両手でグラスを持ち、ちびちびと口に運んでいたが、やがて眠くなったのか言葉少なになっていった。

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