第5話 豊穣の秋
夕焼けに赤蜻蛉が飛んでいく。
サキガミの里には、秋が訪れている。
キサラとサヤがシトゥンペの元に引き取られて三年目、ハクライの里が未曾有の大厄災によって滅びて三度目の秋だ。
尾根の上から見下ろすと、遠くにハクライの里の痕跡を見ることが出来る。
新たに植えられた若木が根付いて、かつての里の輪郭をなぞるように植わっている。
三年の年月をかけ、全ての生命を失ったハクライの里にも、緑が蘇るようになった。
里にはもう誰もいない、何も残されてはいないが、キサラは成人を機に、サヤとともに里に帰る心づもりでいた。
キサラとサヤは、この秋で十五歳になる。
ハクライの里、サキガミの里では成人とされる年齢だ。
「サヤはハクライの里の巫女……。里に帰れば、また里は蘇る――」
キサラの呟きを証明するように、サキガミの里を囲む山々の麓には、見事な金色の野が広がっている。
あの日キサラとサヤがサキガミの里に運んだ稲から生まれた、新たな息吹だ。
ハクライの里が滅び、サキガミの里では食糧の調達が困難になったが、それもこの三年の間に解消された。
サヤはサキガミの里で、巫女としての力を発揮し、サキガミの里に見事な実りを
キサラは、サヤが生み出したその景色を、尾根の祠を清めながら誇らしく眺めている。
「私たちが、ハクライの里を復活させるんだ……」
三年前はまだ子供の夢語りでしかなかったことだった。
だが、成長したキサラとサヤならば成し遂げられそうな夢として、現実味を帯びている。
「なぁ、面白いことを考えてンだな」
キサラの思考を読み取ったように、誰かの声がする。
「
「おめぇの頭ン中のごちゃごちゃが、五月蠅くて眠れやしねぇ」
キサラの問いかけに社の中にいる羅刹鬼が応じた。
「そっちに行ってもいい?」
「ハッ、もう来てンるのはわかってンだぞ」
広い間口が設けられた社に入ったキサラを、羅刹鬼が一笑して迎える。
社の横穴から羅刹鬼の元へと向かうキサラは、薄く西日が差し込む祭壇の前で歩を止めた。
ハクライの里を襲った大厄災の後、羅刹鬼はシトゥンペの指示で社の増築された区画へと移設された。
ハクライの里の跡地となった汚泥の中から、鬼の機兵――
白鬼は、羅刹鬼の祭壇と対になる位置に新たに設けられた区画に安置されている。
「白鬼は――」
「あいつァ、眠ったまンまだ」
キサラの呟きを羅刹鬼が引き取る。
「そう……」
キサラは振り返って薄闇に包まれた社を見渡し、再び羅刹鬼の祭壇へと歩を進めた。
「よォ。やっと来やがったかァ」
広い祭壇を持つ場ではあったが、両ひざを突いて鎮座している羅刹鬼は、やはり窮屈そうだ。
目を閉じ、眠り続けているはずの羅刹鬼は、確かにキサラを見つめていた。
実際は目を閉じているが、キサラは確かにその視線を感じ、羅刹鬼はキサラを『視て』いるのだ。
「酒が干上がっちまったぞ」
羅刹鬼が言う通り彼の足元に備えられた酒器が空になっている。
「明日にも用意するわ」
サキガミの里に来て三年、キサラには自分にはないと思っていた異能が目覚めていた。
それは、ハクライの巫女に備わっているとされる、死者と会話が出来るという異能だった。
巫女であるサヤは、死者の声を伝える役割を負っている。
鬼を含め全ての死者の声を届けることが出来るサヤの異能は、サキガミの里でも大切な仕事として機能していた。
巫女としての能力は開花しなかったが、キサラの異能は、蒼焔の呪術をさらに成熟させ、威力の異なる複数の魔法として確立している。
ハクライの里が残っていれば、呪術師としてキサラも里を守る側に回るはずだったが、それはもう叶わない。
サキガミの里では鬼の討伐のために戦士たちが編成されており、キサラもいずれそこに属することが期待されている。
サヤとは違い、なぜか羅刹鬼の声だけを聞き取ることが出来るキサラは、シトゥンペによると、羅刹鬼を機兵として操る操手としての適性を持っていると目されていた。
「約束は忘れンなよ。でねェと、てめぇの血を飲んでやる」
「酒の代わりになるとは思えないけど」
羅刹鬼の脅しをキサラは静かに受け流した。
羅刹鬼は面白くなさそうに鼻を鳴らし、溜息を吐いた。
「ハン! 阿呆が。わしにとって、ヒトってのは食いモンなんだよォ」
「そうらしいわね」
だからこそ討伐の対象とされるのだが、封印が施され、機兵として改造された羅刹鬼が人間を食べるとはキサラには思えなかった。
仮に食べるとしても、それ相応の理由がなければ――。
「あの巫女はどうした? 最近めっきり見ないぞ」
「豊穣の祈りに忙しいの。次の祭りの機会でもないと、ここには来られないと思う」
「……そうか、残念だなァ」
サヤが来ないと聞かされ、羅刹鬼は露骨に残念がった。
「ところで、お前はいいのか?」
「いいって、なにが?」
「『祈り』ってヤツだ。お前もハクライの里の民なンだろ?」
羅刹鬼の指摘にキサラは緩く首を横に振った。
この世界に残るハクライの里の民はキサラとサヤの二人。
それぞれに巫女としての素質を開花させているが、キサラの力はサヤと比べると赤子も同然だ。
豊穣の祈りを捧げ、あの見事な金色の野を実らせるような力はキサラにはない。
「そうだけど、私にはサヤのような力はないから……」
「はァン、確かに匂いが違うなァ」
どこからか羅刹鬼が鼻を動かして嗅ぐような音が聞こえてくる。
実際には羅刹鬼の肉体が動いているわけではないのだが、その仕草や気配はキサラには確かに伝わっていた。
「匂いでわかるの?」
「あァ、サヤの方が旨そうだ」
「取って喰うつもり?」
「さァな」
先ほどの発言といい、羅刹鬼の発言は冗談とも本気ともつかない。
だがやはり、キサラには危機感も恐怖も感じられなかった。
寧ろ素直に心の内を打ち明けている羅刹鬼に、好感さえ覚えていた。
「……ねえ、羅刹鬼。私はどうして羅刹鬼としか話せないのかな……」
「なんだァ? 他の死者と話したいってンのか?」
羅刹鬼の問いかけに、キサラは頭を垂れ、自分の足元を見つめた。
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「まどろっこしいなァ。わしには、人間の考えることはわからねェよ」
がしがしと乱雑に頭を掻いているような音がする。
羅刹鬼の溜息を聞きながら、キサラも溜息を吐いた。
「そうじゃなくて。サヤを助けるだけの力が、私にあればいいのに……」
「おめぇは、それをサヤが望んでると思ってンのかよ?」
それは違うだろう。
キサラは首を横に振る。
「なら、別にいいんじゃねェか?」
「…………」
羅刹鬼が答えを得たように締めくくろうとしたので、キサラは納得がいかずに羅刹鬼の巨躯を睨むように見上げた。
「そんな目でわしを見ンなよ。じゃあ、お前はどうしたいってンだ?」
誰かにそう聞いてほしかったのかもしれない。
羅刹鬼の問いかけで、自分が自問自答に疲れていたことにキサラはようやく気づいた。
「わからない。でも、成人したらハクライの里に戻って、サヤと二人で暮らしていきたいから――」
「はーっはははッ! そいつァ傑作だ! 神の怒りに触れた地に自ら戻るってンのか!?」
「……そこが私たちの里だもの」
羅刹鬼に笑い飛ばされ、震える声で返す。
肯定されるとは思ってもいなかったが、まさか馬鹿にされるとは思わなかったのだ。
「……本当はお父さんとお母さんと、里のみんなと……ずっと、一緒に暮らしていたかった……」
今でも繰り返し夢に見る、あの大厄災の日――。
凄惨な光景が脳裏に蘇り、キサラの目からはたちまち涙が溢れて頬を伝った。
「……おい、泣いてンのか?」
「違うわ」
目許を擦って顔を上げる。
夕暮れはいつしか過ぎ、夜の闇が迫っている。
社の中は、いつのまにか真っ暗になっていた。
「……迎えが来たぜ」
「――キサラちゃん」
羅刹鬼が促すと同時に、蝋燭の明かりが近づいてくる。
呼びかけられた声でサヤが来たことを悟ったキサラは、ゆっくりと振り返った。
「探したよ、キサラちゃん」
「サヤ……!」
サヤの姿を見るなり、押しとどめていたはずの涙が再び込み上げてくる。
迎えに来たサヤを前に、キサラは袖で強く目許を擦り、涙を拭った。
「……泣いてたの?」
「あ、うん……」
サヤが手にしている蝋燭の明かりしかない薄暗い洞窟でも、一目でわかるほど、瞼は熱を持っている。
「わしのせいじゃねェからな」
「キサラをあまり怖がらせないでね」
ばつ悪そうに言う羅刹鬼の言葉にサヤは微笑んで返し、キサラの長い髪を指先で
「帰ろ」
「うん……」
サヤに促され、キサラは羅刹鬼から距離を取る。
サヤはキサラと入れ替わりに羅刹鬼の足元に寄り。
手にしていた瓢箪型の陶器を傾け、空の酒器を酒で満たしてやった。
「……おォ、気が利くじゃねェか」
羅刹鬼が反応して喉を鳴らす。
酒器が溢れるほど注がれていた酒は、細い湯気を立てて煙のように立ち消える。
サヤは陶器から残りの酒を注ぎ、もう一度羅刹鬼に捧げた。
「有り難てェ」
酒を与えられた羅刹鬼が穏やかな吐息を吐いている。
どういう原理かはキサラには不明だったが、酒を摂取した羅刹鬼は満ち足りた様子でサヤに語りかけた。
「なァ、サヤ。ハクライの里に戻るつもりか?」
「……ええ。それが巫女としての、私の務めだから」
羅刹鬼の問いかけに、サヤは少し考えてから応じる。
彼女が自分と同じことを考えていたのがキサラには嬉しかった。
だが、羅刹鬼は、少し口調を変えて続けた。
「……過ちを繰り返すンじゃねェぞ」
忠告とも取れる羅刹鬼の言葉にサヤは応えず、ただ微笑んで彼に背を向ける。
キサラもサヤに続いて羅刹鬼の祭壇を後にした。
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