第3話  秋刀魚の味

(1)

 「誰だい?小津の“『秋刀魚の味』を観ながら秋刀魚と日本酒で飲もう”なんて企画した奴は。」

軽食喫茶名画座のカウンター席で岡田氏が壁に貼ってある次回上映予定の張り紙の文言を見てマスターに話しかけた。

「柴田さんですよ。あの人は呑兵衛だからね。」

マスターがニコニコしながら答えた。

「秋刀魚とお酒を注文しないといけないのかい?」

岡田が珈琲をすすりながら呟いた。

「そこは自由ですよ。でも、あの映画を観ていたら酒飲みは飲みたくなります。」

「あぁ。俺も昔、銀座の並木座で観ていて途中、飲みたくなって仕方なかったよ。」

「あの小料理屋、なんて言いましたっけ?」

「若松。」

「そう!若松。あの店、何故か『彼岸花』と『秋日和』でも出てくるんですよね。全く違う映画なのに。」

「女将が高橋とよ。それと客が中村伸郎と北竜二でね。後は佐分利信だけど、『秋刀魚の味』には出てないから、代わりに笠智衆が一緒に飲むんだ。旧友同士という設定でね。」

「あの場面で観客のこちらも飲みたくなる。」

「そうそう。」

こういう会話がポンポン飛び出すのは映画好き同士ならではだ。マスターとこれがしたくて常連さんがこの店に通うのである。

「柴田さん、家のDVDでその場面を飲みながら観ていて、僕らと一緒に飲んだら面白いと思ったそうですよ。」

「なるほどねぇ。物好きというか。・・・。ここで秋刀魚焼くの?」

「残念ながら常連の魚屋さんに焼いてきたものを持ってきてもらいます。ここで秋刀魚を焼くんじゃ煙と匂いが充満して他のお客様に迷惑をかけます。ですから秋刀魚は完全予約制。日本酒はワンカップ。これも事前予約で私が予約数分、仕入れときます。」

それを聞いて岡田氏は苦笑した。

「全く物好きというか。柴田のせいで大変だね。マスターも。」

「いえいえ。私も楽しみなんですよ。岡田さんも予約するでしょ?」

「当たり前じゃない。こういう生産性の無い企画はぜひ参加しなきゃね。」

二ヤリとして岡田氏は残りの珈琲を飲み干した


(2)

 「ただいま。」

岡田氏が自宅に着くと細君が出迎え岡田氏のカバンと上着を受け取った。

「おかえりなさい。先、御飯になさいます?」

「そうだね。・・・和子は相変わらずか?」

「ええ。ずーっと自分の部屋に籠りっぱなしで。どうしたものでしょうねぇ。」

「うん。まぁ、ほっとくんだな。その内、気が変わるだろう。」

岡田氏はそう言うと洗面所へ行き手を洗いうがいをした。

 リビングに行くともう夕飯の支度がすんでいる。岡田氏と細君の席にしか用意がされていない。一人娘の和子の食事はさっさと自室に持って行ってしまっていた。和子は自分のやりたい道に進む為、この家を出ていく気でいるが岡田氏夫妻は断固反対している。その結果が今の状態である。

 岡田氏は『秋刀魚の味』やその他の小津安二郎の映画、その後の様々なホームドラマを思い出していた。必ずある家族揃った食事の場面だ。

(当たり前の日常シーンが今の俺の家にはないな。)ポツリ呟き頭を搔いた。


(3)

 日曜日の午後、“喫茶名画座”に初めて来たお客がいたなら、面食らっていただろう。喫茶店で焼いた秋刀魚の香ばしい匂いが店中に漂いワンカップ片手に映画の上映を待っている客が大勢いたのだから。

 岡田氏と柴田氏は並んでマスターの側のカウンター席に陣取っている。柴田氏は先程から何度もマスターに

「悪いね。手間とらせちゃって。」

とすまなそうなことを言っているが顔は笑っている。

「全くねぇ。意外と予約の客が多いんで驚いたよ。」

と笑った。

「ここにいる客、全員、頼んだのかい?」

と言って岡田氏がほぼ満員の客席を眺めて言った。

「ほぼね。好きなんだよ。皆、小津安二郎と酒が。さて、予約分はけたし、そろそろ始めるか。」

そう言うとマスターは照明を落とし開始のブザーを押した。プロジェクターでDVDを映し出す。あくまで流しているだけ。それが建前だ。


 『秋刀魚の味』のタイトルの後、映し出される画面を観て岡田氏はカラーの美しさに改めて感心した。アグフアのカラーフィルムは赤色が特に映えるのだ。

 ドラマは小津作品に多い題材で、妻に先立たれた初老の父親が婚期を迎えた娘を嫁がせる話だ。娘役はさすがに原節子ではなくデビュー間もない岩下志麻だ。とても可憐でまさか、後に『極道の妻たち』になるとは思えない。

『秋刀魚の味』は小津監督のこの手のドラマ『晩春』や『麦秋』に比べると喜劇調の味わいがある。それが今回のお目当ての飲み会の場面なのだ。笠智衆扮する主人公の平山と旧くからの友だちである中村伸郎、北竜二が小料理屋の若松に集い酒を酌み交わす。話題は下らない猥談から学生時代の昔話、そして平山の一人娘の縁談や再婚話だ。お節介と友情のはざまの様な微妙なやり取りが微笑ましい。この場面を小津監督らしいローポジションによる構図と会話する二人の人物を真正面から交互に映すおかげで、あたかも自分がその場にいるような錯覚に陥るのだ。この場面で客席のあちらこちらでワンカップを飲む姿がみてとれた。岡田氏も柴田氏も秋刀魚をほじりつつワンカップをぐびりと飲んだ。マスターもちびりちびりやっている。

 二人と別れた後、平山は行きつけの小さなバーに入店する。そこのマダムは若き岸田今日子だ。亡くなった先妻に似ているらしく、そこで平山は必ず軍艦マーチを流してもらい懐かしむ。戦争時代が青春時代でもあったのだ。それを聞きながらウィスキーを一杯飲むのがルーティーンだ。この場面でも呑兵衛は

喉をゴクリと鳴らす。岡田氏も柴田氏もワンカップを煽った。

 このバーには後の場面で平山は偶然出会った戦争中に部下だった加東大介と行くのだが、平山は“戦争に負けて良かったじゃないか。”と言うところがある。それに呼応するように加東が“そうかもしれない。馬鹿がいばらなくなっただけでもね。”と言うのだ。この辺りに平山の戦場での忸怩たる思いが滲む。そう、この映画の隠し味は平山がけして言わない戦争体験だ。ほろ苦い体験を内に秘めている。ちょっとした捌け口と癒しがこのバーとマダムなのだ。

 映画の終盤、娘を嫁がせた後、ひとりこのバーで飲み、酩酊しながら家に着く平山。もう娘はいない。これから男一人で生きていく覚悟を予感させて終焉となった。岡田氏は自身の近い将来を思った。

「娘と離れて生きていく。・・・」

そう呟いた。現実として受け止める覚悟はまだない。・・・


上映が終り、ほどなくして“名画座”はマスターと柴田氏そして岡田氏だけになった。カウンター越しで三人が思い思いに映画の感想などを話している。

「しかしなんだね。題名は『秋刀魚の味』だけど、秋刀魚自体は出てこないね。」

と柴田氏。

「まぁ、そういうもんだよ。」

と岡田氏。

「そういんもんかね?」

柴田氏が合点がいかないように言う。

「そういうものさ。」

岡田氏が繰り返した。

「でも、良かったじゃないか。柴田さんの企画、実現して。」

岡田氏が話を変えた。

「ありとう。マスターのおかげだよ。」

「いやいや。」

と言いいながらマスターが残っていた秋刀魚のワタの辺りをつついた。

「ところで二人に伝えたい事があるんだ。」

柴田氏がこうあらたまった。

「なんだい?」

「実はガンでね。前立腺の。ステージ4らしい。リンパ節にも転移しているって。今週の水曜に入院して手術なんだ。」

しばらく沈黙が続いた。

「ほろ苦いなぁ。」

マスターが秋刀魚のワタの部分を口に含みつつ嘆いた。

「うん。苦い。」

岡田氏が続いて食べながら言った。

「苦い。苦い。」

柴田氏は二度言った。


三人の会話が棒読みのようだったのは小津安二郎の影響をまともに受けた証拠だった。





「秋刀魚の味」1962年(昭和37年)松竹

 製作 山内静夫

 脚本 野田高梧、小津安二郎

 監督 小津安二郎

 出演 笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子

    東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北竜二

    加藤大介、岸田今日子、吉田輝雄、牧紀子

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喫茶 名画座 大河かつみ @ohk0165

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