僕はピカタロウとともだちをやめた

吉沢万里

僕はピカタロウとともだちをやめた

 僕は自分の名前が嫌いだ。だって、「マコト」なんてものすごく時代遅れで、よぼよぼの爺ちゃんみたいな名前じゃないか。なんでパパは、僕にこんな古臭くてかっこ悪い名前を付けたんだろう。もっとイケてるかっこいい名前――例えばルギアキとか、シェルタカとか――だったらよかったのに。

 ママにそう言ったら、「バカなこと言わないの、マコトだっていい名前でしょ」だって。ママは今のヒトじゃないから、ちっとも分かってないんだ。だって、僕がミナナミと結婚したとする。そうすると名前が並んだ時、コタニ・マコトと、コタニ・ミナナミになるんだ。こんなのって、ダサすぎる。

「マコト、早くご飯食べちゃいなさい。のろのろ食べてたらまた学校遅刻するよ」

 ママはそう言いながら、時計を気にしつつせかせかとパパのお弁当を詰めている。のりを巻いた卵焼き、シイタケの肉詰め、鮭の幽庵焼き。あっ、て声が聞こえたと思ったら、僕の足下にぷるぷるつやつやのプチトマトが転がってきた。

 腰を屈めてプチトマトを追っかけてきたママは僕のお皿を覗き込むと、「マコト」といつもより低い声で僕の名前を呼んだ。僕がママの言葉に肩を竦めると、フォークの先端がお皿をひっかいて、きいきいと悲鳴が上がる。そもそもご飯を食べるのが遅いのだって僕のせいじゃない。ソーセージがつるつる滑って、フォークから逃げるのが悪いんだ。

 僕はちらりとパパを見た。コーヒーの湯気でまだら模様になったメガネの奥、目と目が合ったパパは、ほんのちょっとだけ眉毛を下げて笑ってた。これは、ママの言うことを聞いておきなさいって合図。仕方なく僕はご飯を飲み込むようにして、次々お腹の中に収めていく。ソーセージ、プチトマト、そして、最後まで取っておいたハッシュド・ポテト。

 僕はママの作る料理の中で、ハッシュド・ポテトが一番好きだ。ママの作るハッシュド・ポテトはいつも揚げたてで、齧ると口の中でジャクジャク音がする。ほんの少し、表面に浮いた油が口の中をねっとりコーティングした後、塩味がきゅっと舌を引き締めて、続くジャガイモの甘味に僕はウットリ夢心地になる。あーあ、こんなに美味しいのにおイモ一つゆっくり食べられないなんて。僕はなんてカワイソウな子供なんだろう。

「マコト!」

「もう食べたよ、ごちそうさま! ピカタロウ、いい子にしてるんだぞ。行ってきます!」

 ピカタロウのお腹の液晶がピカピカ光って、僕に行ってらっしゃいの挨拶をする。賢いやつだ。多分、世間に溢れてるペットロボットの中でも、抜群に頭がいいんじゃないかな。

 ピカタロウをここまで芸達者に仕込んだのは、そりゃもちろんしつけ担当のママのお陰ってところも少しはあるけど、でも、ほとんどは僕の功績だ。だって、アニメでも言ってるじゃないか。一番大切なのは友情だって。ピカタロウが僕の家に来たのは三年前、僕が五歳の誕生日の時で、それからずっと、ピカタロウは僕の一番の友達だ。

 家を出ると、背骨の芯がぶるぶる震えるほどの寒さだった。風が吹くたび、体の表面がカチコチに凍っていく気がする。そういえば、ピカタロウのお腹に流れるニュースには、今日は今年一番の冷え込みだって書いてあった。

 僕はランドセルのレバーを回してホット・スキンをオンにすると、ほっと息をつく。本当に、ドート・サッポロの冬は寒い。今日の給食では何か、あったかいスープが出るといいな。僕は昨日の晩に食べた、ママ手作りのクラムチャウダーのポット・パイを思い出して、舌なめずりをしながら通学路を歩き出した。


 大人は全然理解してくれないけど、小学生っていうのは本当に大変だ。例えばスポーツができたり、モノマネがめちゃくちゃうまかったり、流行りものをよく知っていたりすると、そいつは「イケてる」ってことになる。

 その逆は「イケてない」。一回イケてないやつって思われると、それからずーっと、タブレットの指紋の付き方一つでさえからかわれて過ごすことになる。もちろん、クラス替えがあったらリセットだ。そういう意味で、クラス替えは天国でもあり地獄でもある。

 ミナナミは最高にイケてる女子だ。可愛くて、笑った時の声がアイドルのロビンナントカちゃんに似てるらしくて、それからクラスで一番流行に詳しい。いつもミナナミの回りには金魚のフンみたいな女子がくっついてるけど、今日はいつにもまして人が多い。珍しく、ミナナミとは全然タイプの違う、ガリ勉メガネのネネリまでくっついていた。

「おはよ。……ねえ、これ、なんかあったの」

「おはよう、マコトくん。あのね、ミナナミちゃんが犬を飼い始めたんですって。今、見せてもらってるの。ふわふわで、とっても可愛いのよ、ほら」

 僕は教室の真ん中でお姫様みたいに振る舞うミナナミに直接声をかけるのは気が引けて、端っこにくっついていたネネリに声をかけた。ネネリがちょっと体を寄せて、人垣の中を覗けるようにしてくれる。見ると、ミナナミがランドセルの内蓋にくっついた液晶を、この世で一番貴重な宝物みたいに高々と掲げていた。

 液晶に写っているのは、いつものショートパンツじゃない、大人の女の人みたいなワンピースを着たミナナミだった。歩くたびに揺れる、金色をしたイヤリングにドキッとする。足下には、白い毛玉みたいな犬がころころと駆け回っていた。

「犬ってね、すごく賢いんだよ。うちの犬、名前をルイって言うんだけど、ルイはあたしの顔を舐めて朝起こしてくれるの。いつもはちゃんと七時に起こしてくれるんだけど、たまに五時とか、びっくりするくらい早い時間に起こされるんだよね。でも、そこがまた可愛いんだ。ぜーんぜん怒る気にならないの。そういえば知ってる? ロビン・ロビンちゃんも、犬を飼い始めたんだって……」

 顔を上げたミナナミと、偶然目が合った。彼女はぱちくりと瞬きをして、また何事もなかったみたいに話し始める。僕のことなんて、ちっとも気にしていないみたいに。

 例えば僕が、犬を飼っていたらどうだろう。ここで、「僕も、実は犬を飼ってるんだ。ほら見て」って、ランドセルを掲げて見せつけるんだ。きっと皆、僕をミナナミの横に押し出して、二匹の犬の映像を見比べるだろう。ミナナミだって、僕のランドセルを覗き込んで「マコトの犬、かわいいね!」って言うに違いない。もしかしたら日曜日に、あのワンピースを着たミナナミと、二人で犬の散歩に行くことになるかも。

 そう考えていると、僕はピカタロウのことが急につまらない奴に思えてきた。ピカタロウは僕を毎朝決まった時間に起こして、一分たりともズレはない。そんなふうに、いつもいつも同じことを繰り返すなんて、単なる時計で十分じゃないか?

 気まぐれにミナナミにじゃれついたり、餌をねだったりするのはルイにしかできない。でも、ピカタロウにできることは、全部、他のものでもできる。そんなのって、全然イケてない。

 僕はこれまでの人生で味わったことのない、とびっきりのがっかりに支配された。胸の辺りがイライラムカムカして、ついつい口がへそ曲がりの「へ」の形になる。きっと、これが絶望ってやつなんだ。あーあ、僕は、すっかりオトナになってしまった……!

 僕は余計な指紋が付かないよう――昨日、お前のタブレットベタベタって言われたのをきれいに拭いたばっかりだ――慎重にタブレットを叩いた。起動するのはお絵描きソフト。僕の指がタブレットの上を滑ると、真っ白いページにぴんと耳の立った動物の絵が現れる。でも、僕の頭の中の想像とは裏腹に、へなちょこの線で描かれたそれはちっとも犬には見えなくて、僕は大きなため息をついた。

 

 学校から帰ると、ママがじっとソファの上で固まっていた。珍しい。僕のママはいつどんな時だって、料理だとか掃除だとか、そういうつまんないモノにきりきりしてるものなのに。

「ただいま。ママ、どうしたの」

「おかえり。今、気力を充電中」

 ぱたんと手にしていた雑誌を置くと、ママが立ち上がる。雑誌の見出しには「スッキリした家に! 魔法のお片付け術大集合」って書いてあって、僕はつい、うへぇと声を出してしまった。摘まみ上げてぱらぱらとめくると、中には料理や人んちの収納の写真だらけで本当につまらない。なんていうか、僕の家ってイケてないものばっかりだ。

「充電、もういいの?」

「ええ、まさかもうマコトが帰ってくる時間だなんて、うっかりしちゃったわ。待ってて、おやつを用意してくるわね。あ、手洗うの忘れちゃだめよ!」

 タートルネックのワンピースの上にしゅるりとエプロンを巻いて、ママはキッチンへ行く。僕がランドセルをリビングの隅っこに置くと、とことことピカタロウが足下にやってきた。お腹の液晶をピカピカ光らせながら。

 僕はピカタロウを無視して、ふとさっきまでママが座っていたソファに座ってみた。でも、ソファは固いし冷たいしで僕には全然座り心地がよくなくて、大人しく、僕は手を洗いに洗面所へ行く。洗面所はキッチンの奥にある。キッチンは危ないから、ピカタロウが入っちゃいけない場所だ。

「マコト、ピカタロウないてるよ」

「うん」

 キッチンの入り口に立って、ピカタロウは液晶をピカピカさせていた。僕は学校から帰ると、いつもピカタロウを抱っこしておやつを食べる。でも、今日はそんな気分にはなれなかった。

 じゃぶじゃぶと手を洗いながら、僕は夢を見る。もしも、ピカタロウが犬だったら。きっと僕は犬のピカタロウを無視しない。もしかしたらそんな気分の日もあるかもしれないけど、ミナナミのルイみたいに足にじゃれつかれたら、きっと、ついつい抱き上げたくなって我慢できないはずだ。でも、ペットロボットの、しかもママにうんと躾けられてるピカタロウはいつだっていい子ちゃんで、無視されてもひたすらじっと、キッチンの前で僕を待ってる。僕は無性にそれが腹立たしくて、乱暴にタオルで手を拭くと、タオルがハンガーから落っこちた。本当に、すっごくイライラする。

「ねえ、ママ」

「うーん?」

 ママはフライパンの上にホットケーキのもとを落とすところだった。お玉から零れるホットケーキのもとはどろどろとしたスライム状の変な生き物みたいで、あれが焼けたらふわっふわのホットケーキになるなんて、未だに僕は信じられない。じゅって音がして、甘いいいにおいがキッチンに広がる。鼻の奥がくすぐったい。僕はいつも、ホットケーキの焼くにおいを嗅ぐと、リアルなお日様で干した布団に包まれている気分になる。

「その、さ。ママは、犬ってどう思う?」

「犬? 可愛いわよね。そういえば、最近犬をペットにするのが流行ってるんですって。昔もペットといえば犬だったらしいし、流行は繰り返すって本当ね」

「じ、じゃあさ……」

「ピンポーン! ゴゴ サンジヲ オシラセシマス」

 ピカタロウの背中についたスピーカーから大音量の時報が聞こえてきて、僕は出鼻をくじかれた。鬱陶しいことに、液晶画面にもくどいくらいの「三時」アピール。ドーナツ、チョコ、キャンディ……。小さな液晶画面いっぱいに、これでもかとお菓子のイラストがぐるぐると走り回っている。畜生――畜生なんて声に出したらママに怒られるけど――なんで昔の僕はこんな設定にしちゃったんだろう。

「おいピカタロウ、あっち行ってろよ!」

「こら、マコト! なんなの、さっきから。いい加減にしなさいね。大人しく、ピカタロウとリビングで待ってなさい」

 ママが眉を吊り上げて怒りだす。なんだよ、いつも、いつも。

 ママは僕を怒るばっかりだ。僕だって、別に悪いことをしているわけじゃない。ちょっとウッカリしたり、ついかっとなっちゃうだけで、毎回こんなに怒る必要があるんだろうか。大体、それを言うならママだって、「こら! いつもいつも怒ってばっかりいないで、たまにはマコトの言うことを聞きなさい!」って、一度くらい怒られるべきだ。だって、僕の気持ちをまるっと無視して、頭ごなしに叱りつけてばっかりなんだから。

 僕はむくれて、乱暴にダイニングの椅子を引く。椅子の足がちょこちょこやってきたピカタロウに当たって、ピカタロウがピピっと音を立てた。

 手持無沙汰にテレビをつけると、ドートクラット・ワイドoneが流れ出した。ドート・サッポロの住民は、夕方は必ずこれを見る。誰に聞いたわけでもないけど、絶対にそう。こういうのを多分、世のコトワリって言うんだと思う。

『今日は、大型改修工事の終了したポンポ・コージに来ています。見てください、このアーケード! これ、何だと思いますか? ガラスじゃないんです、これ、全部大型の液晶パネルなんです! なんとこの新生ポンポ・コージでは、いつでも青空の下でお買い物が楽しめちゃうんです……』

 薄手のワンピースを着たリポーターの女性を追いかけるように、すっかりきれいになったポンポ・コージが映し出される。僕がもっと小さい頃、パパに連れて行ってもらった時は、どこを見てもあちこちが錆びついたシャッターが閉まっていて、実はお化け屋敷に来ちゃったんじゃないかと思ったくらいだった。開いている店も、着物屋さんだとかお茶屋さんだとか、今時誰が買いに来るんだろうってものばっかりでつまらなかったのに、今テレビに映っているのは最新の機材を入れたVRゲームセンターで、僕はすっかり目を奪われてしまった。

 そういえばいつだか、クラスで話題になっていた話を思い出す。ドート・サッポロがまだ札幌市という名前で、日本の一都市でしかなかった頃の話だ。ポンポ・コージのはずれ、今はミドル・ティーン以下の立入が禁止されている区画に、真っ黒の看板を掲げ、同じく真っ黒なシャッターをいつも下ろした怪しい店があったそうだ。でも実は、その店は今でも存在していて、うっかりその店に足を踏み入れると、体ごとあっちの世界へ持っていかれてしまうらしい。

「はい、どうぞ」

 僕の目の前に、できたてあつあつのホットケーキが置かれた。僕の意識は、暗い地獄の入り口に立つ幻の店から、ふわふわこんがりきつね色のあまーいヤツに持っていかれる。

「あれ、ママ。チョコソースがかかってないよ」

 僕はホットケーキを食べる時は必ず、歯がギシギシいうくらい甘ったるい、あのチョコソースをかけるって決めてる。なのに、今僕の目の前に置かれたホットケーキは金色の蜂蜜が小さな滝を作っていて、茶色いアイツは影も形も見当たらない。

「ごめんごめん、買い忘れちゃって。今日は蜂蜜で我慢して」

「えー! だめだよ、そんなの。僕がチョコ好きなの知ってるじゃん」

「ないものはないんだから仕方ないでしょ。いやなら食べなくて結構です」

 片眉を吊り上げて、ママはぷいとキッチンに戻ってしまった。じゃぶじゃぶとフライパンを洗う音がする。

 僕はフォークで、ちょんとホットケーキをつつく。蜂蜜がフォークの先にくっついて、蛍光灯の光がてらてらと反射した。

「ママ、あのさ……」

「なに」

 水音はやまない。僕はちょっと声を大きくして、蛇口から流れ出る水の勢いに負けないようにしなくちゃならなかった。

「その、僕、犬が飼いたいんだけど」

「犬?」

「うん。最近、クラスでも流行ってて。皆飼ってるよ。ほら、ミナナミっているでしょ。あの子が最初に飼い始めて……」

 はあっとママが大げさにため息をついて、蛇口を捻った。こっちを振り返った顔は、明らかに怒っている。

「皆なんて、すぐ嘘つくのはやめなさいって、ママ言ったでしょ。ミナナミちゃんて、あの派手な子よね。すぐそうやって影響されるんだから。うちにはもうピカタロウがいるんだから、いけません」

「でも、ママ!」

「もうこの話は終わり。いいわね」

 ママは再び蛇口を捻って、フライパンについた泡を流し始めた。じゃあじゃあと流れる水は、無慈悲にも僕の願いを洗い流していく。

 ピカタロウがいるから。

 足下のピカタロウはさっきからずっと同じ姿勢で、ちょこんと顔を上げて液晶をピカピカさせていた。まるで、単なる置物みたいに。

 例えば――僕はテーブルに伏せて考える――ピカタロウが急に僕を無視して、ぐうぐうとママのソファで寝こけてしまったらどうだろう。そうしたら僕は、ちょっとピカタロウを見直すかもしれない。でも現実のピカタロウはじっと僕の足下に座り込んで、いつもと同じように抱き上げてもらうのを待ってる。ずっと、ずっと。

 テレビではまだ、ポンポ・コージの特集をやっている。新しく出店したという、美味しいって評判のラーメン屋の二号店の陰に、ちらりと「禁止区域につき、ミドル・ティーン以下立入禁止」と真っ赤な字で書かれたセキュリティ・ゲートが映った。

 もし、ピカタロウがいなかったら?

 ふと、僕の頭の中によぎった考えに、背筋がぶるりと震えた。もしも、ピカタロウが不幸な事故で消えてしまったら、ママは悲しむだろう。一日ふさぎ込んで、その日の晩御飯は、仕事帰りにパパが買ってきたハンバーガーになるかもしれない。そして、僕はママに犬を飼おうと言う。とびっきりの可愛い犬で、名前はもちろんピカタロウだ。きっと、僕は週末にペットショップへ行くことになるだろう。リアルな動物を売ってるペットショップは、ポンポ・コージにあるに違いない……。

 僕は自分の天才的な思い付きに満足して、チョコソースのかかっていない淡白な味のホットケーキをペロリと平らげた。そりゃ、僕だってもう八歳だ。あの世とつながる黒い店なんて漫画の中みたいな話、頭から信じてるわけじゃない。でも、もし、もしもだ。もしも本当に、店にとてつもない秘密があったなら、僕は一躍クラスのヒーローだ。僕は犬の散歩をしながら、ミナナミに嘘みたいな冒険の話を聞かせる。ミナナミは何度も僕をすごい、すごいって褒めちぎって、あのナントカちゃんに似た声で笑いながら言うんだ。ねえ、もっと聞かせて、って。

 そうと決まれば準備をしなくちゃならない。パパのマイナンバーカードの場所は、実は僕も知ってる。前にパパがママに、何かあった時のためにって伝えていたのをこっそり聞いていたから。大丈夫、大人のカードでセキュリティを突破しても、ばれっこない。これは、子供たちの間では公然の秘密だ。ただ、そういうことをするヤツはイケてない、だから皆しないってだけ。

 ピカタロウは自分の運命も知らずに、ずっとお腹をピカピカさせて、僕に抱き上げてもらうのを待っていた。この日ピカタロウは、うちに来て初めて、僕のベッドで眠ることができなかった。


 その日のおやつはプリンだった。バニラビーンズのたっぷり入ったプリンで、真っ黒く煮詰められたほろ苦いカラメルが、熱っぽく茹で上がった僕の頭をぐわんと叩いてしゃっきりさせる。噂の店の看板も、このカラメルみたいに真っ黒いんだろうか。ずぶりとスプーンを突き刺すと、バランスを崩したプリンの体が、ぐしゃりと皿に崩れ落ちた。

「ママ、今日、ピカタロウを連れて公園に遊びに行ってもいい?」

 僕はいつも、ピカタロウを家から連れ出すときはママに確認を取る。なぜって、ママは何でも把握しておかないと気が済まない仕切り屋だからだ。大丈夫、多分、きっと、いつもどおりの調子で言えたはずだ。

 僕の心臓は今にも口から飛び出して、タンゴでも踊り出しそうにドキドキしているのに、ピカタロウは僕の膝の上でただじっと座っている。僕は、左のお尻のポケットがむずむずするのを感じていた。もちろん、パパのマイナンバーカードは動くわけじゃない。でもその小さな四角い板は、うんと軽いはずなのになぜか僕がこれまで持ってきたどんなものよりも重くて、気を抜けばすぐにポケットから落っこちてしまいそうだった。

「いいわよ。あ、でもセキュリティチェックのない公園には行っちゃだめよ。それから、五時までには帰ってきなさいね」

 僕はちらりと時計を見る。二時十三分。大丈夫。これならポンポ・コージの奥まで行って帰ってきても、五時には家に着くはずだ。

 僕はできる限りなんでもない顔をして、あらかじめ用意していたリュックにピカタロウと、それから何枚かの硬貨を詰め込む。硬貨なんて、いつ振りに引っ張り出してきただろうか。つるりとしたそれを摘まんで覗き込むと、キッチンに立つママの後頭部が映りこんだ。

 

 僕の家からポンポ・コージまでは、バスに乗っていくか、地下鉄に乗っていくかする必要がある。僕はもちろん、地下鉄に乗る。ヒーローの秘密の冒険には、アンダーグラウンドが似合うからだ。そりゃ、バスは狭くて、知り合いに見つかりやすいからって理由も、まあ、あるけど。

 僕は券売機の前に立ち、持ってきた硬貨で切符を買う。こんなことってあるだろうか? 今まで、うんと歳を取った爺ちゃん、婆ちゃんしかやらないと思ってバカにしていたことを、僕がやってる! 

 僕は横目で、隣の券売機に立って、しょぼしょぼとタッチパネルを操作している爺ちゃんを盗み見た。ホット・スキンを使っていないんだろう、分厚い黒いダウンで膨れた体は歩く布団みたいで、笑っちゃうほど滑稽だ。

 でも、もしかしたら。僕は胸を高鳴らせながら空想する。爺ちゃんのダウンの下にはものすごい秘密が隠されていて、僕みたいに、交通ログを残したらマズイ事情のために、切符なんか買っているのかもしれない。僕は爺ちゃんの口元に残った無精ひげさえ、何かの英雄の証のような気がしてきた。

 しかし、そんな僕の夢想は、爺ちゃんの押した駅員呼び出しボタンによって粉々に打ち砕かれた。僕だけが知っている秘密のダークヒーローは、単なる死にかけの老人の姿になって、急速に力をなくして萎んでいく。後に残ったのは、一人の老人と僕、それから貼り付けたような笑顔を液晶画面に浮かべた駅員型ロボットだけだった。

 僕はピカタロウの入ったリュックを膝に乗せて、じっと目を瞑っていた。最近の地下鉄は車内全部がプロジェクションマッピングされていて、どこを見ても目にうるさい広告が飛び込んでくる。今日は右足を乗車口に乗せた途端、足元に沸き立つ水面が広がって、「瞬間沸騰、電気ケトル。新発売」だなんてきたもんだ。こんなの、あまりにジョーチョがない。

 地下鉄は、もっともっと静かで恐ろしい、黄泉の国の入り口でなくちゃいけない。僕は社会の教科書で見た、「札幌市営地下鉄」の写真を思い出す。安っぽいオレンジの明りに照らされた構内の奥、線路は怪物の口みたいにぽっかりと空いた闇の空洞に向かって伸びていく。きっと、そこからはひんやりと冷たい風が吹いて来て、来る人来る人の背筋を凍らせていたんだろう。僕はその化け物へ、果敢に挑んでいく。ピカタロウを怪物の腹に置き去りにするために。僕が、最高にイケてるヒーローになるために。

「次は、大通り、大通り。お出口は右側に変わります……」

 気が付けば駅に着いていた。僕はハッとして、慌ててリュックを背負う。周りの乗客も皆、いそいそと地下鉄を降りていった。この地下鉄を使う人の半分は大通りで降りて、残りの半分はサッポロで降りるんだから当然だ。がらんとした車内には、お湯が沸騰するポコポコという音がやたらうるさく響いていた。


 大通り駅からポンポ・コージまでは地下道で繋がっているけど、僕は地上を歩くことにした。正直、僕は方向感覚が鋭くない。いつもはママか、ピカタロウにナビをしてもらうけど、今日はピカタロウを表に出すわけにはいかない。だって、僕は今大通りになんかいないし、ピカタロウはこれから忽然と姿を消すんだから。地上を歩けば少なくとも、なんとなく見たことのある方向を選んでいけば、ポンポ・コージにたどり着けるはずだ。

 僕はポンポ・コージへ向けて歩き出した。空を見上げれば日は高く、さんさんと太陽の光が気持ちいい。うん、今日は冒険日和だ。僕はずんずんと、探検家みたいに大股で進んでいく。

 大通り周辺はファミリーやカップル、サラリーマンが多く、周りの建物もオフィスビルや商業ビルばかりだ。周りのどこを見渡しても、銀行やナンダカ証券といった堅苦しい看板や、ファッションビルの何語だか分からない、うねうねした図形のような単語が踊っている。それが、通りを何本か横切って大型デパートを通り過ぎる頃、少しずつ雰囲気が変わってくる。

 ポンポ・コージは、ドート・サッポロの『表』の中心大通りと、『裏』の中心すすきのの、ちょうど境目に位置していた。イヤラシイお店こそないものの、窓一面にべたりと広告が貼られていて中の見えないビルだとか、ママの言うところの下品な居酒屋だとか、じわりじわりと夜の世界の触手が伸びてきているのが感じられる。

 僕はこの、円山ヴァーチャライ・ズーでうっかり動物の交尾シーンに出くわしてしまったかのような、ガラス越しにワルイコトを目の当たりにしている感覚が嫌いじゃなかった。ほんの少し、大人になったような気持ちになるからだ。もちろん、潔癖気味のママは僕をポンポ・コージへ連れてくるのをあまりよく思っていないから、いつもの僕はこういったものを目にしてもてんで見ていないフリをして、何も分からないジュンシンムクな少年でいなくちゃいけない。だからこんな考えも本当はヒミツのもので、今、多分、僕はすごくワルイ子供だ。

 大通りから歩いてくると、ポンポ・コージ三丁目と四丁目の間に出てくる。きれいになったポンポ・コージには人がたくさんいて、以前までの古臭くておどろおどろしい感じはすっかりなくなっていた。アーケードの天井には、今僕の頭上にあるのと同じ、本物そっくりの空が輝いていて、太陽の暖かさまで感じられる。すれ違う人は皆にこにこと笑顔で楽しそうだ。

 僕はまるで、自分だけが実在している人間で、あとは全部ホログラムなんじゃないかという気になってきた。だって、僕の心臓はこんなにどくどくと跳ね回っているのに、周りの人からは心臓の音も、血管を流れる血液の音も聞こえない。今すれ違ったひげの男の人も、開店記念の風船を手にした小さい女の子も、みんなみんな、僕の旅路を彩るキャラクターだ。そう思うと、僕はいよいよ自分が物語の主人公になった気がしてきて、ついつい胸を反り返らせたくなった。両肩に背負ったリュックの紐がずっしりと、肩に食い込む。これは、僕のミッションの象徴だ。ピカタロウは、何も言わない。

 僕は六丁目に向かって歩き出す。噂の真っ黒な店があるっていうのは、ポンポ・コージの端から数えて二番目、六丁目から奥に入ったところだそうだ。僕はすっかり興奮して、大声で叫びだしたい気分だった。こっそりと口を閉じ舌だけを動かして、音を出さないようにヒーローアニメのオープニングを口ずさむ。ああ、なんで僕は空を飛べないんだろう! はやる気持ちに乗せて体を動かすと、足はどんどん速く大股になる。お腹の真ん中がぽかぽか火照って、なんだか頭がくらくらした。

 すっかり小走りになった僕の目の端に、ちかちか光る景色はぐんぐん流れていって、僕の目の前には赤く輝く「ポンポ・コージ六丁目」のタイトルロゴが浮かび上がってきた。僕は、ヒーローだ。さあ、主人公マコトの冒険の始まりだ。僕は点滅し始めた横断歩道を駆け足で渡りきると、アーケードの入り口をくぐり抜けた。

 

 ポンポ・コージ六丁目は、さすがに端の方だけあってあまりめぼしい店もないのか、すっかり人通りもまばらになっていた。ちらりとあたりを見る。目星をつけていたのはここ、ぴかぴかときれいになったアーケードに似つかわしくない、ガサガサに錆びて、すっかりペンキも禿げあがったシャッターで固く閉ざされた、薄汚い蕎麦屋の横だ。予想どおり、誰もがちっとも興味を示さず素通りしていく。

 僕は何食わぬ顔で、その扉の前に立った。金属製の分厚い扉。セキュリティ・ゲートだ。

 普段僕が使うゲートは、公園なんかに設置されてる誰でも通れるアーチ状のもので、セキュリティチェックだって通過した人の名前と時間が記録されるだけ。でも、これは違う。ひどく冷たく無機質な扉はびっくりするほど頑丈で、もしもここに爆弾が落ちてきても、びくともしなさそうだ。扉に大きく書かれた「禁止区域につき、ミドル・ティーン以下立入禁止」の文字が、僕の良心を小さくえいと蹴っ飛ばす。

 無意識のうちに唾を飲み込んで、喉がゴクリと音を立てた。大きな音だった。僕は誰かに聞かれたんじゃないかと怖くなって、つい不自然に辺りを見回してしまった。最悪なことに、お尻のポケットにまで手を伸ばして。

「ちょっとちょっと、君、ダメよ。そこは、子供は入っちゃいけないところよ」

 びくりと肩が跳ねはしなかっただろうか。心臓の音は、聞こえてはいないだろうか。

 僕は努めて冷静に、なんでもないことのように後ろを振り返る。声をかけてきたのは、首にスカーフを巻いた、四十代くらいのおばさんだった。買い物帰りなんだろう、両手には山ほどの紙袋を抱えて、人のよさそうな笑顔を浮かべている。

「あ、あの、僕、奥に行ったパパを待ってるんです。あっちで待ってろって言われたんですけど、飽きちゃって。大丈夫です、そろそろ、戻ってくるって連絡がありましたから」

 あらかじめ、言い訳を考えておいてよかった。僕は顎をしゃくって、通りの向こうを指す。そこには、いかにも最近の子供にはつまらないだろう、古びたゲームセンターがあった。新生ポンポ・コージという割に、わくわくするような新しいお店は真ん中にしか入ってくれなかったらしい。ガラス越しに、レトロを通り越して博物館にでも持って行った方がいいような、ぼろぼろのUFOキャッチャーが見えた。

「あら、そうなの? でも、この辺ってちょっと、子供が一人で待つには、ねぇ。あ、そうだわ。おばさんが一緒にパパ待っててあげましょうか」

 おばさんはずんずんと近寄ってくると、それが当然とばかりに僕の横に並び出した。紙袋の中にはびっくりするほどたくさんのワインボトルが入っていて、おばさんが一人で持つにはあまりにもしんどそうな気がしたけど、おばさんは慣れたものなのか、てんで涼しい顔をして、「パパったらダメね。本当、男のヒトって、こういうところ気が利かないのよね」なんてぷりぷり文句をつけている。

 僕は頭の中で、ここからどうしたらいいのか必死に考えていた。だって、あれは単なる言い訳で、僕はパパと一緒じゃないんだから。それに、だ。パパはもう、僕と一緒に遊びになんて行ってくれない。僕はぎゅっと縮こまる胸を忘れるように、うんと力を入れてリュックの紐を握った。ううん、でもいいんだ。パパと遊びたいだなんて、そんなの、イケてる小学生は思わない。だから、悔しくなんかないんだ。

 とにかく、まずはこの場を切り抜けなくちゃならない。算数のテストの時より、ママに怒られて言い訳を考えている時よりも必死になって、僕は頭をフル回転させる。なのにおばさんはいちいち余計な言葉を挟んできて、僕の頭はちっとも前に進めない。

「ボク、お名前は? いくつなの?」

「あ、え、マコトです。八歳です」

「あらー、八歳! そうなの、もっとちっちゃい子かと思ったわ。ごめんなさいね、おばさん、周りに子供がいなくて。ピンとこなかったのよ。お父さんは昼からゲートの中なんて、何してるの? あ、子供に言っちゃいけないわよね、そんなこと。聞いてないわよね」

「え、ええ、はい、そうですね……」

「パパも悪いけど、あ、だから後でおばさん文句言ってあげるからね。そう、パパがよくないのはもちろんだけど、ボクもよくないわよ。ちゃんと止めなくちゃ。子供の前でゲートの向こうに行くなんて、教育に悪い……」

 ふいにおばさんの肩がぴくりと跳ねた。不自然にならない程度ではあるが、視線が僕を飛び越えて、七丁目の方に向かっている。ちらりとそちらを伺うと、四、五軒ほど向こう側のビルの一階にある店から店員が出てきて、「開店セール」と書かれたのぼりを立てているところだった。あまりよく見えないが、お酒屋さんか高級スーパーのようで、アーケードに面したショーウィンドウには、ぶどう畑の写真とワインのボトルが並んでいた。

「あの」

 僕は唇をひと舐めして、言葉を紡ぐ。僕はスパイだ。そして、このターゲットを納得させなくちゃいけない。困難なミッションだが、失敗は許されない。グッド・ラック、僕。健闘を祈る、だ。

「僕、喉が渇いちゃって。でも、今、お金持ってないんです。パパがすぐ帰ってくると思ってたから。で、ごめんなさいなんですけど、パパが帰ってきたらお金をお返しするので、ジュースを一本、買ってきてもらえないでしょうか」

 できる限りかわいそうな子供の顔をして、僕は向こうを指さした。もしかして、僕、演技の才能があるんじゃないだろうか。派手な黄色ののぼりが、風にはためいていた。

「あら、あら、まあ! そうなのね、そりゃそうよね。今の湿度、十八・九パーセントしかないものね。任せて、おばさん、買ってきてあげるから。ちょっと、せっかくだし、おばさん買い物してもいいかしら。だから、ちょっと時間がかかっちゃうかもしれないけど、いいコで待っててくれるわよね。いい? どこにも行かないでね。そこで待ってるのよ」

「はい。ありがとうございます」

 声が震えないように、重たくもつれる舌を動かすのは大変だった。ぎゅっと握りしめたリュックの紐は、きっと、手汗でべちゃべちゃになっているだろう。

 小走りで店へ向かうおばさんの姿を見送って、僕は慌ててお尻のポケットからマイナンバーカードを取り出した。つるつるのカードが手汗で滑って、うっかり落っことしそうになる。もう、もたもたしてはいられない。ごめん、おばさんと心の中で唱えながら、僕は、パパの顔写真の載った面が少しでも人目につかないよう地面に向けて、セキュリティ・ゲートに近寄った。

 ゲートの横、僕の顔の少し上くらいの位置に、小さなパネルがある。認証パネルだ。僕がさっとカードをかざすと、パネルが緑色に光る。すると、あんなにも重苦しく侵入者を拒んでいたゲートは、実はウエハースでできていたんです、とばかりの軽さで左右に開き、僕の体が通り抜けるのをじっとそこで待っていた。ぼくはてっきり、ゲームのラスボスの部屋みたいな重厚感をもって、ごごごとゆっくり扉が開くものだと思っていた。なのに、現実は単なる自動ドアと同じ仕組みで、それはあんまりにもあっけなく、拍子抜けで、僕はなんだか、自分の冒険にでっかく取り返しのつかない傷がついたような気持ちになっていた。

 

 ゲートをくぐるとそこには、子供の僕にとっては見たことのない、嘘みたいな世界が広がっていた。それは僕ら子供の目に届かぬよう、遠く向こうに追いやられていた夢の中、いや、どっちかというと夢の世界の裏側、ステージのバックヤードと言った方が正しいのかもしれないけど。

 そこは、まさしく『裏』の世界だった。これまで子供の僕が見てきたものは、常に、きれいなものだった。漂白されて無機質になった、味のしないおもちゃ箱の中身。それが、ここときたらどうだろう。何で汚れたのか煤けて黒ずんだタイル、道端にポイ捨てされたガムの跡。どれもべっとりとして汚くて、見ているとなんだか、いやな目付きの人影が僕を心ごとゆさゆさと揺さぶってくるみたい。こんなの、僕は知らない世界だ。

 僕の背後で、ゲートの扉が閉まる。高く聳えるゲートは太陽の光もアーケードの人工照明をも遮って、こちら側は昼だというのに薄暗い。知らないうちに、空には雲が出てきていたらしい。

 僕はなるべく足音をたてないように、ゆっくりと歩き出す。人の気配はほとんどない。

 僕の頭の中に、以前、ママに内緒でやったVRのシューティングゲームが浮かんできた。僕は廃墟になった街を歩く。曲がり角からは世にも恐ろしいゾンビがうじゃうじゃと出てきて、僕は手にした銃でそいつらを残らずやっつける。僕はそのゲームがクラスで二番目にうまかった。でも、今実際にあのビルの影からゾンビが出てきたら、僕は……僕は勝てるだろうか?

 がさりと、背後で物音がした。僕は息を飲んで、その場に立ち尽くす。冷静になってみればなんのことはない、ピカタロウがリュックの中で身じろぎをしただけだった。

 なんだよ、こんなタイミングで。きっと、ピカタロウは僕を困らせて、最後に復讐してやろうというんだ。僕がピカタロウよりも、次の週末に飼い出すはずの犬の方を好きになってしまったから。なんてなまいきなやつだろう。

 目的の店は、通りをまっすぐ行って、二つ目の角を左に曲がったところにあるはずだった。どこで、誰が見ているか分からない。僕はなるべく人の目につかないことを祈りながら、道の端のタイルの上を歩く。誰かの吐き散らした痰の跡が薄汚い。

 周囲に並ぶのは、子供には用のない店ばかりだった。女性が男性を、男性が女性を「おもてなし」する飲み屋の看板がやけに目に付く。ポンポ・コージなんてきれいなものじゃないか。僕はとぼとぼと歩きながら、いつだか通学路で、裸の女の人のおっぱいがどんと映し出されたポルノ・ブックを見かけた時の居た堪れなさを思い出していた。動物はいい。でも、ヒトは……。にこにこ笑う女の人の頭の下、白い肌の上に二つくっついた乳首はまあるい目になって、僕を見つめてくる。でも僕は、どうしたらいいのか分からない。ぶるぶる頭を振って記憶の中の視線を追い出すと、僕はふうと息をついた。

 一つ目の角に差しかかる頃、僕は、路上に人が倒れていることに気が付いた。器用にも、ディスポーズ・ホールの蓋の上にオエっとやらかした跡がある。それは、僕が初めて見た酔っ払いの姿だった。パパは、お酒を飲む前には必ず酔い止めを飲むから、あんな姿は見たことがなかった。

 辺りにはお酒のにおいがぷんぷんしていて、思わず顔をしかめる。僕は関わり合いになりたくなくて、できるだけ物音を立てないように、そろそろと足を進めた。近寄ってみると、お酒のにおいのほかに、つんと鼻につく異臭がする。僕はあまりそちらを見ないように、息を止めて進もうとした。

「おい、ボウズ」

 その人の真横を通り抜けようとした瞬間、足下のタイルが割れていることに気が付かず、ついバランスを崩してしまった。だん、と左足をつく。しまった、と思った時にはもう遅く、その酔っ払いの爺ちゃんはもったりとした動きで上半身を起こしていた。

「なあ、ちょっと、こっち来い」

「あの、僕……」

「いいから、こっち来いって言ってんだ。ええ? なあ、年上の言うことは聞くもんだろ」

 爺ちゃんはとても年寄りとは思えない力で僕の腕を掴むと、ぐいぐいと路上に引き摺り倒してきた。爪の間には泥が詰まっていて、ぞっとするほど汚い。僕は、つい膝を着いたそのすぐ横のタイルの溝に黄色い液体が溜まっているのを見て、この冒険に飛び出したことを後悔した。はっきり言って、すごくくさい。

「いいか、ボウズ。これからオレが、この世において大切なことを教えてやる」

 爺ちゃんがぐっと、僕に顔を近づける。むわっと、口からドブのようなにおい――僕はドブなんて嗅いだことないけど――が漂ってくる。口の横にはかさかさに乾いたゲロの跡が残っていて、鼻の頭には、これでステーキが焼けるんじゃないかってくらいの脂が浮いていた。

「人間ってのはな、真面目に生きてくのが一番なんだ。ボウズみたいなガキんちょじゃ、やれゲーノー人だなんだってなるかもしれねぇが、そういう生き方は人間をダメにしちまう。いいか、ここだ。ここ、そう、心だ。楽して生きようとか、他人に苦労をおっつけようってやつは、心が腐っちまう。なあ、平岸のおじさん、覚えてるか? そうだ、母ちゃんの二番目の兄ちゃんの、だ。クソ、あの大ぼら吹きめ。次に会ったら、ただじゃおかねぇぞ……」

 爺ちゃんの話はあっちこっちに飛んでいく上に、僕を息子と勘違いしているようだった。僕は内心でちょっとムッとしていた。だってこんな、路上でぶっ倒れてるような爺ちゃんの子供なんて、きっと、イケてないやつに決まってる。そんな奴と一緒にされるなんて、僕にあんまり失礼じゃないか。でも、爺ちゃんはしかめっ面をする僕なんかちっとも気にかけてはくれなくて、地響きのようなげっぷをすると、再び唾を飛ばし始めた。

「どこまで話した? ああ、そうだそうだ、平岸のおじさんな。いいかボウズ。ああいう手合いを信用しちゃいけねぇ。骨の髄までしゃぶり取られて、最後は犬っコロみたいにぽいと捨てられちまう。ボウズ、犬、分かるか? ああ、いや、うちにはショコラがいたな。ん? なんか、いや、ケンタ……? お前、本当にケンタか?」

 爺ちゃんの両手が僕の胸元に伸びてきて、トレーナーの襟首を掴んで力任せに引っ張った。僕を覗き込む爺ちゃんの目には、茶色く固まった大きな目やにが浮いていて、黒目の端には、土星の輪のような白っぽい輪っかができている。目の下にはぼつぼつと小さないぼみたいなものがたくさんあって、正直、すごく汚らしい。なのに、僕は爺ちゃんの目から、視線を逸らすことができないでいた。それはやたらと力強く生々しく、僕の目を突き抜けて心臓を真っ直ぐに射抜いていく。先生か、映画か忘れたけど、『生命は目に宿る』って、どこかで聞いた気がする。僕はその目を見て、爺ちゃんが僕の人生と比べてうんと長い時間を生きてきた生き物なんだってことを、今初めて実感した。

「……ボウズ、お前、ロボットか」

 爺ちゃんがじっと、僕を見つめて問いかけた。僕は、爺ちゃんの黄ばんだ白目に走る血管に、どくどくと血液が流れる音を聞く。さっきまで焦点の定まらなかった瞳が、今、はっきりと僕だけを映していた。

「いえ、ち、違います。僕、僕、人間です」

「そうか、そうだよな。ケンタがロボットのわけないのに、わりぃな、父ちゃん、酔ってるな。ああ、ケンタ。この世で一番、いっちばん大事なことを教えてやる。いいか、ロボットは、クソだ。あいつらはゴミでできたぼろっかすだ。……畜生、オレが何したって言うんだろうなあ。真面目に生きてきたじゃねえか。なあ」

 爺ちゃんの黒目のふちが、じわりじわりと浮かんだ涙でぼやけていく。僕はすっかり何も考えられなくなって、大人も泣くことがあるんだ、と、ぼんやりそれを見ていた。多分、今僕が置かれている状況が、あまりにも夢みたいなものだから。

 爺ちゃんは僕の服の襟首を両手で掴んだまま、おいおいと涙を流した。

「おい、何とか言えよ。ケンタ。……なあ、父ちゃんのこと、そんなに嫌いか。オレが憎いのか。死んでほしいくらい、憎いっていうのか」

 爺ちゃんの手からゆるゆると力が抜けて、ぽとりと地面に落っこちる。

 爺ちゃんとケンタは、どんな親子だったんだろうか。ケンタが子供の時は、仲が良かったのかな。それとも、ずっとケンカばっかりだったのかもしれない。

 僕はパパのことを思い浮かべてみる。実は前、僕は寝ているパパに、こっそり余っていた粗大ごみのシールを貼ったことがある。悔しかったんだ。だって、こどもサイエンス館に連れて行ってくれるって言ったのに、すっかり忘れて寝坊してたから。でも、ぐうぐう寝息を立てているパパにくっついた「粗大ごみ」の文字を見て、僕は無性にもやもやした気持ちになって、すぐにそれをべりべりと剥がしてしまった。布団はパパの呼吸に合わせて、出っ張ったり引っ込んだりしていた。布団の中に手を突っ込んでみたら、そうだ。確か、すごく温かかった。

 僕は爺ちゃんの体がみるみる小さくなって、萎れた干物みたいになっていくのが、なんだか無性に辛くなった。僕は、ケンタじゃない。そこだけは訂正してあげないと、あまりにもこの人がかわいそうだと思った。

「あの……あの、人違いです。僕、ケンタじゃないです」

「んだと……この! 口答えすんじゃねえ!」

 爺ちゃんがびゅっと風を切りながら右手を振り上げた。僕はその光景を、ただバカみたいに、目と口を開いてぽかんと眺めていた。そうだ、人にはボーリョクっていうものが備わっていたんだ、と今になって気付く。でも結局、あっという間に目の前に迫ってきたその右手は僕にかすりもせず、ばんと地面に叩きつけられた。爺ちゃんが蹲って、オエオエと新しいゲロを生成し始めたからだ。見なきゃよかった、と僕は思う。でも、ゲロの海をかき分けて、ケンタ、ケンタ、と息子の名前を呟きながら泣いている爺ちゃんを、僕は不思議と嫌いになれなかった。

 僕は、この爺ちゃんがどんな人生を送ってきたのか、ケンタと何があったのかを知らない。でも、例えば僕とパパがケンカをして、そのせいでパパがこんなふうにぼろぼろになったらと考えると、僕は嬉しいような苦しいような不思議な気持ちになって、胸がきゅっと痛くなった。今、この爺ちゃんには、僕がパパのことを考えて悲しくなったみたいに、悲しんでくれる人はいるんだろうか。

「……爺ちゃん」

 僕は一瞬ためらって、でも結局、えいやと爺ちゃんの背中に触れた。土埃と、何かの液体――あまり考えたくないけど――で濡れて汚れた分厚いウールのコートが僕の手を汚した。僕も将来、こんなふうに、ぼろきれみたいに飲んだくれることがあるんだろうか。なりたくはないけど、絶対にないとも言い切れない。だって、僕も生きてるから。

 ぽんぽんと背中を叩くと、爺ちゃんは一瞬、この世の終わりみたいな顔をして、その後、遂には瞼を閉じてぐうぐう寝息を立て始めた。力が抜けた体は、べちゃりとおニューのゲロの上に着地する。

 僕は爺ちゃんのコートのできるだけきれいそうなところで手を拭うと、立ち上がって膝の汚れを払った。ホット・スキンは起動されたままなのに、なんでだろう。やたらと寒くて、僕は身震いをした。


 僕は歩きながら考える。僕以外の、ヒトのことを。

 僕の世界には中心に僕がいて、ぐるりと僕を取り巻くように、それ以外の物が置かれている。僕の目は太陽で、僕が見れば、それは『ある』。僕が見なければ、それは『ない』。さっきまでは、そういうふうにできてると思ってた。

 でも、僕が目を瞑っている間にも、世界はぐるぐると回り続ける。僕の目は太陽じゃなくて、太陽は僕の頭上にあって、僕も太陽に見つめられる側の一つのものでしかない。僕の知らない暗闇の中で、ヒトは生きてる。爺ちゃんと、ケンタのように。

 僕は、爺ちゃんの背中に触れた右手をまじまじと見つめる。触れた背中は温かく、トクトクと心臓の鼓動が伝わってきた。僕とは違うリズム。僕とは違う、生き物の命。

 僕は、自分が最後に生き物に触ったのがいつだったかを思い出していた。先々週ママと一緒に行った、円山ヴァーチャライ・ズーのふれあいコーナーかな。ああ、いや、違う。四日前、パパがうっかりお弁当を忘れて取りに帰ってきた時、ありがとうって、少しだけ頭を撫でられたんだった。あの時のパパの手も、確か、ぽかぽかと温かかった。

 通り沿いのビルの一階、下げられたブラインドの奥で、人影が動いた。僕は視線を感じて立ち止まる。隙間からこちらを見つめる目は、真っ黒だった。黒くてまるい、二つの瞳。

 僕が世界を見るように、僕以外の誰かも世界を見つめている。じゃあ、あれは誰かの体にくっついたパパの目かもしれない。一体、世界にはいくつの目があるんだろう。僕は空に流れる雲の向こう側から、無数の目がこちらを見ているのを肌で感じていた。目は何でできているんだろう。爪でひっかけば、血が出るのかな。

 僕はブラインドの奥の目をじっと見つめる。人影はふいと窓際から消え去って、そこには視線があった、ということだけが残った。僕の目は曇り空の下で光もなく、きっと真っ黒になっている。店はもう、すぐそこだ。


 それは、異様と言う外なかった。確かにゲートをくぐってから、僕の知らないものばかり見てきた。驚きの連続だった。でもそれは、映画で見た、嘘みたいなつくりものの世界が本当にあることを知るような驚きだ。でも、これは違う。僕は頭の中がこんがらがって、何が何だか分からなくなった。周囲の景色が急速に色をなくしてどんどん僕から遠ざかり、代わりに『それ』だけがむくむくと質量を増やして僕の目の前に君臨する。

 黒い店が、そこにあった。

 想像していたよりも小さな店だった。車四台分くらいの駐車スペースに店を建てた感じで、もっと、途方もなく仰々しい建物を想定していた分、肩透かしとも言えなくはない。ただし、それは大きさだけの話だ。ここには何か得体のしれない熱量が渦巻いていて、店からは怖気を震うような寒々しい空気が手を伸ばし、僕の足下に滑り込んでくる。僕は今日一日、散々握りしめてすっかりしわくちゃになってしまったリュックの紐を、もう一度、お守りみたいに握りこんだ。

 店は噂のとおり、看板もシャッターも、宇宙の闇の色だった。頭上から厚い雲越しに差すかすかな光さえ吸収し、僕の視線をも絡めとる。僕はじっと看板を見つめる。異様な看板だ。いや、看板と呼べるのかどうかもよく分からない。店名も何も表示はなく、ただ、関節が機械でできた、裸の女性の人形のイラストが描かれている。店先には小さな植え込みがあって、そこには『目』が咲いていた。

 僕はふらふらと目に引き寄せられた。茶、青、緑……色とりどりの目だった。気味が悪くて叫び出したいのに、頭は変に熱っぽくて、喉が興奮でからからに乾く。ふいに、目がくるくると、右に左に体をゆすり始めた。きょろきょろとした動きに合わせて、ねろりと粘度の高い液体が、涙のように滴り落ちる。虹彩の奥には、もやもやとゆらめく宇宙の銀河が隠されていた。

 僕は目から顔をあげて、ぐるりと店の周りを一周した。出入口は正面、シャッターに閉ざされた奥にしかないらしい。ここまで来て、諦めるか? いや、そんなことできない。もはや僕は引き返せないところまで来ていた。もう、進むしかない。

 僕は祈るような気持ちで、シャッターに手をかけた。真っ直ぐ上に引き上げるように力を込めるが、びくともしない。試しに何度か左右に揺すってみると、がたがたという音の後に、小さくかちゃんと、これまでとは明らかに違う音がした。指先に感じていた重力がふっとゆるくなる。するするとシャッターが天に昇っていき、地獄の入り口が現れる。

 ここが、僕の旅の終わりだ。

 暗い闇の入り口は僕を魅了する。もっと、もっと奥を見てみたい。この先に、何が待っているのか知りたい。

 僕は意識が吸い取られたように頭が全然働かなくなって、ただ、中を見てみたくて我慢ができなくなった。まるで、四時間目の体育の後のような空腹感。もう、リュックの重さも感じない。霧がかかったように、別の世界に紛れ込んでしまったように、周囲の全てが卵の薄皮みたいな白い膜に包まれて、存在感をなくしていく。黒塗りの木製のドアにおそるおそる手を伸ばすと、それは触れるか触れないかのうちにその身を翻し、何の苦も無く僕を招き入れた。

 中は暗くて、腕をぐっと前に伸ばしたら、指先が見えないくらいだった。窓のない、小さな牢獄みたいだ。閉じ込められているのはどんな怪物だろう。

「いたっ」

 数歩歩いたところで、何かが頭にぶつかった。手で払いのけようとすると、なんだか柔らかく、重さがある。手の甲が当たった拍子に、その何かはバランスを崩したようで、僕の頭の上に降ってきた。慌てて掴むと、僕の指に細くてしなやかな指が絡んでくる。それは、人の、腕だった。

「!」

 頭の中がポップコーンみたいにはじけ飛んで、歯と歯の隙間を声にならない悲鳴がすり抜ける。どくどくと心臓の音が驚くほど響いてるくせに、体の中は温まるどころか一息ごとに冷えていく。僕は流れる血液が全部氷になって、頭のてっぺんからつま先まで、徐々に自分の体が凍り付くのを感じた。力が入らなくて、立っていられない。僕はその場にへたり込んで、ただがくがくと震えていた。腕は、僕の膝の上にある。柔らかくて、冷たくて、溶けかけのアイスクリームのように滑らかだ。

「ピンポーン! ゴゴ サンジヲ オシラセシマス」

「うわああ!」

 僕の背後で、けたたましい音と共にリュックが震える。たまらず、僕は両腕で頭を覆った。涙が溢れ、歯の根が合わずにがちがちと音を立てる。なんで、僕はこんなところに来ちゃったんだろう。なんで、店の中にまで入ってしまったんだろう。そうだよ、店に足を踏み入れたのはピカタロウだけじゃない。僕も同じじゃないか。

 僕は店先にリュックを捨てて、さっさと家に帰らなかったことを後悔した。ああ、僕も、あの世に連れていかれて、帰れなくなるんだ。どうしよう。パパ、助けて。僕を助けてよ……。

「ちょっと、まだ開店時間前なんですけどぉ……ってアラ」

 ぱちん、と地球が生まれたみたいに、照明がついて店の中が明かりに包まれる。涙と鼻水で顔中べとべとにしている僕を見下ろしていたのは、一人の女性だった。毛量が多いんだろう、やけに横に広がったごんぶとの三つ編みに、オカメインコのように派手な化粧。服にはこれ以上、糸くずの一つだって乗る隙間がないくらいレースが縫い付けられていて、膨らんだ布の奥の体格はよく分からない。にやりと笑った瞬間、目尻に小さな皺が寄った。

「んふふ、ボク、イケないのよぉ。んふ、ここは大人しか来ちゃいけないお店なんだから」

 僕は女性の手に助けられて立ち上がる。思っていたよりも柔らかく繊細な、女の人の手だ。それは、僕の知らないものだった。

 電気をつけてみればなんのことはない、その店は、アンドロイドとそのパーツの販売店だった。店の壁を囲むように、ぐるりと黒く塗られた棚が二段に張り巡らされ、所狭しと腕や脚、耳といったパーツが並んでいる。レジカウンターの上には、アフタヌーン・ティーに使う、真鍮でできた華奢なスタンドが二つ。上に乗せられた、色とりどりのビー玉のような目は、どれもまっすぐ天上の照明を見つめている。一番下のプレートの横に、「特価! ソーラーアイ」と書かれた札が乗せられていた。

 女性は僕の膝から転げ落ちたアンドロイドのアーム・パーツを手に取ると、「いい出来でしょ」と言って笑い、ぽんと僕の頭の上の棚に放り投げた。暗闇で触った時にはあんなに柔らかく人間味を感じたのに、棚に落ちた時に奏でられたのは金属がぶつかる甲高い音。女性はそのまま、レジカウンター横の椅子に座るアンドロイドに、しなを作ってもたれかかった。

 裸のアンドロイドは若い女性のかたちをとっていて、関節は全て剥き出しの機械のままだった。ねじの一つ一つが脂でぬらりと光る。冷たく硬いそれは、当然ながら動かない。

 僕はまだ弾む息を落ち着けながら、そのアンドロイドをじっと見た。肌の上、小さな乳首がちょんと立っている。でもそれは、あのポルノ・ブックみたいに目になって、僕を見つめることはしなかった。

「さあて。で、ボクはなあんでこんなところに来たのかしら?」

「……あの、すみません」

 僕は、急に自分のやったことが、ものすごく恥ずかしくてたまらなくなった。よくある学校の怪談の一つを信じてタブーを犯した挙句、今、無様に泣きべそをかいている。旅路の終わりはあっけなく、あまりにも苦い味がした。

「んふふ、別に謝ってほしいわけじゃないわよ。ねぇ、悪いコトは楽しいわよねぇ。楽しかったわねぇ」

 女性はうっとりと、何かを思い出すように目を細め、アンドロイドの肩を撫でた。ソーセージによく似た分厚い指が脂を掬い取っては、それを人工スキンのふちでこすり落とす。べっとりと塊になった脂は、照明の下でホットケーキの上の蜂蜜のようにてらてらと光る。

「ボク、いいコト教えたげようか」

 女性の指はするすると肩から滑り落ち、アンドロイドの胸のふくらみに触れる。指が人工スキンに沈む様子は、肉の海に溺れる芋虫みたいだった。そのまま右手は更に奈落へ進む。両足の間に植えられた茂みが、カサカサと乾いた悲鳴をあげた。

 冒険の終わりには、やっぱり宝物がなくっちゃあね。

 女性はそう言ってにんまり歯茎を剥いて笑うと、アンドロイドの髪をぐいと掴んで頭を引きずり下ろし、そのうなじを僕の目に晒した。はずみでぶらりと、両腕が虚空に投げ出される。その力ない動きはあまりにも人間的で、かえって嘘くさい。脂をぬぐいとられた肩口が、小さくキィと音を立てた。

「アンドロイドは、ここで操作するのよ。んふっふ、知らなかったでしょ? コドモにアンドロイドの使用方法、教えちゃいけないことになってるもんねぇ。でも、んふ、賢いコは分かるわよね。だって、アンドロイドって、必ず首を隠してるもんねぇ」

 とん、とん、と女性の指がアンドロイドのうなじをダブルタップすると、人工スキンに覆われた滑らかな背中の奥から、霧が立ち込めるように文字が浮かび上がってきた。薄い膜を透かして、さざなみのように揺らめきながら広がるほの青い光を見て、僕はただ、きれいだと思った。冷たい機械仕掛けの体では、つくりものの肉の下に、つくりものの血が通う。アンドロイドの血は、何色なんだろう。思わず口をついて出た言葉に、女性が楽しくてたまらないというふうに唇をゆがめた。

「隠すって、イケないことよねえ。知ってる? んふ、昔、人間は皆裸だったのよ。なのに、『恥ずかしい』なあんて余計な知恵がついちゃって、人間はアソコを隠すことにしたの。でも、なんでアソコを隠すことにしたのかしら? そこに何があるのか、考えたことがあって?」

 女性はアンドロイドの両腿を持って、まるで子供のおしっこを手伝うかのように抱え上げると、その中心を僕の目の前に突き出した。僕はじっと、茂みの奥の一点を見つめる。そこはつるりとしていて、何の凹凸もなかった。女性の指がアンドロイドの太ももを軽く叩くと、茂みの奥にうすもやが立ち込め、さっと晴れる。後には、『to be』という文字だけが残された。ねえ、ボク、あたしのここを叩いてみる? 女性の上擦った笑い声が、店の中に響き渡る……。


 あの後、僕は夢うつつのままふらふらと店を出て、大通駅まで戻ってきた。道中のことは何も覚えていない。ただ頭の中で、もやの向こうに光る『to be』という文字だけを見ていた。

 改札をくぐると、エレベーターの前にゴミ箱が置かれていた。僕はリュックからピカタロウを取り出すと、そのまま「燃えないゴミ」と書かれた方の口に、ピカタロウを押し込んだ。お腹の液晶がピカピカと光る。光はゴミ箱に反射して、いくつもいくつも光の玉が舞う。僕はその様子を、単にきれいだと思って見ていた。

 僕はそのまま、やってきた地下鉄に乗った。中には部活の後なのか、汗のにおいを漂わせ、大きなスポーツバッグを持った高校生の集団が乗り合わせていた。地下鉄が音を立ててブレーキをかけると、車体が大きく傾いて、はずみで、高校生の肩が僕にぶつかる。彼はちらりと僕を見て、小さくごめんなと謝った。

 僕は肩がぶつかってきた後ろ頭がやたらとむずむずして、そこをぽりぽりとひっかいた。ふいに力が入りすぎて、爪の先が僕の頭に傷をつくる。爪の間に入り込んだ血の色は、水しぶきのような青じゃなくてどす黒い赤い色。指先から漂うのは、脂っぽい汗のにおい。僕は、生き物ってあんまりきれいじゃないなと少しがっかりした気持ちで、すっかり軽くなったリュックを抱えなおした。

 

 家に帰ると、ママがまたしても眉を吊り上げて、玄関で鬼の形相になっていた。帰宅時間は、ちゃんと言われたとおり五時ちょっと前。何の問題もないはずなのに、なぜだろう。

 僕はせめて、履いていたスニーカーを一ミリのずれもなくぴっちり揃えなおすと、上目遣いでママのご機嫌を伺った。ママは今日も、いつもと同じタートルネックのワンピースを着ている。

「ただいま。その……ママ? 何か怒ってる?」

「マコト、あんた、いい加減にしなさいね。ピカタロウを連れて行ったなら、ちゃんと一緒に帰ってきなさい。自動帰宅モードで戻ってきたわよ。しかも、真っ黒になって!」

 僕はあっ、と声をあげた。そうだ、ピカタロウを初めてうちに連れてくる時、絶対、絶対なくさないようにするために、別売りの自動帰宅装置を内蔵してもらったんだった。これまで、僕はピカタロウと離れたことがなかったから、そんな機能の存在を今の今まですっかり忘れていた。

 見ると、リビングのドアからひょっこりとピカタロウが姿を現した。ママがきれいに拭いてくれたのか、お腹の液晶には汚れ一つなく、先ほどと変わらずピカピカ光っている。

 僕は肩を竦めてママのお小言を聞き流しながら、今日の一日を振り返っていた。すごい一日だった。びっくりするような冒険だ。こんな経験した小学生が、他にいるだろうか?

「ちょっと、聞いてるの!」

「うるさいなあ。僕、宿題やるから。後でね」

「ちょっと、マコト!」

 僕はピカタロウを抱き上げると、きいきいと金切声をあげるママを放って部屋に入った。ファミリーロックをかけてしまえば、家族しか入れない。だから、ママは諦めるしかない。

 僕はふうと息をついて、ベッドの上に横になった。布団は雲のようにふわふわで、大きく息を吸い込むと、お日様のにおいが肺いっぱいに広がる。ママが干しておいてくれたんだろう。本当に、便利なママだ。

 僕はごろりと寝返りを打つ。パパが昔読んでたっていうアメコミがいっぱい詰まった本棚の上には、僕とパパが二人で遊園地に行った時の写真が飾られている。ママが来てから、僕とパパが一緒に出かけたことなんて数えるくらいしかないから、二人で一緒に映っている、いわゆる「家族写真」と呼べるものはあんまり多くない。中でもこの写真はきれいに撮れていて、僕のお気に入りだった。

 パパは、ママの人格が急に変わったら驚くだろうか? 

 そりゃ、驚くだろう。でも、あの人も言っていた。賢い子供は気が付くって。なら、パパは『僕が誰からも教わらずに』それに気が付いたことに、もしかしたら喜ぶかもしれない。

「ピカタロウ、目覚ましをセットして。最小音量でお願い」

「ナンジニ セット シマスカ」

「夜中の一時。頼んだぞ」

「ピピ セット カンリョウシマシタ」

 僕はピカタロウの頭をぽんと叩くと、大きくあくびをして目を瞑った。晩御飯まで少し眠ろう。それほど動いたわけでもないのに、僕はすっかりくたびれて、使い倒されたぼろ雑巾にでもなった気分だった。多分、ヒーローって、こんな毎日の繰り返しなんだろうな。だったら、僕はヒーローじゃなくていいや。

 深呼吸をすると、僕の体から意識だけがぐんと引っ張られ、そのままぽいと、あの店の真ん中にぽっかり空いた穴の底に放り捨てられた。ぼくはぐんぐんと奈落の底に落ちていく。暖かい闇の中、僕は宇宙をぎゅっと詰め込んだ目がこちらを見ているのに気が付いた。知らないのかい、人間の目は、たんぱく質でできてるんだよ。宇宙の目から、しゃらしゃらと音を立てて、星屑が零れ落ちる。僕は、とん、とん、とママの首筋を叩く夢を見た。

 

 翌朝、パパは盛大な寝ぐせをつけたまま、食パン一枚をひっつかんで出社した。ママが寝坊をしたからだ。

「おはよう、ママ」

「おはよぉ、マコト。んふふ、朝ごはん、ちょっと待っててね」

 ママは冷蔵庫のドアをあけて暫くまじまじと見つめた後、冷凍庫をあけて、月曜日にママが冷凍していたハッシュド・ポテトを取り出して、それを油の引かれたフライパンの上にひっくり返した。温まっていない油は音も立てず、ポテトが油を吸ってジュクジュクにふやけていく。

「ねえ、ママ。僕、犬が飼いたいんだけど」

「犬? いいんじゃない、マコトの好きにしたらいいわよ。んふ、ワンちゃんのお名前、何がいいかしらねぇ」

 ママは僕の前に、全然焦げ目のついていないハッシュド・ポテトと食パンが載った皿を置くと、さっさとソファに座り込んでしまった。ソファのサイドに取り付けられたランプが点灯して、ママの充電が始まる。テレビでは、芸能人の不倫を告げるワイドショーが流れていた。

 僕は、ピカタロウのお腹で一週間の天気を確認する。週末は晴れだ。きっと、犬にとってもいいスタートになるだろう。僕は、ぶよぶよとして脂の塊みたいになったハッシュド・ポテトを牛乳で流し込みながら、どんな犬を飼うか考えていた。ミナナミの犬が白いから、僕は黒い犬がいいかもしれない。

 それにしても、ママはすっかり料理がまずくなった。僕は早速、前のママが恋しくなって、小さくため息をついた。

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僕はピカタロウとともだちをやめた 吉沢万里 @Mary-el

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