第2話 森の一夜


「ん、う~ん。あー、よく寝たわ……野営の割には熟睡できたわね」


 アルフィリースが大あくびと共に眼を覚ますと、木々の間から気持ちの良い木漏れ日が差し、爽やかな風が薫る。春の到来を告げるモーイ鳥が見られるようになってから、一ヶ月も経っただろうか。中原ちゅうげんのやや南にあるここファルテの森は、非常に心地よい陽気に包まれている。まあそうでなければさすがに些事さじにこだわらない彼女といえど、もう少し眠る場所に気を遣ったかもしれない。


「下手な安宿より快適だったわね。これもあなたのおかげかしら?」


 下でやや眠そうな黒い瞳をこちらに向けているのは、この森にむ森オオカミである。


「魔獣を枕に一晩を明かしたなんて言ったら、シスター・アノルンに爆笑されかねないわね……」


 シスター・アノルンとは、宿場町で何度も出会ううちに、友達とまではいかないまでも、すっかり知り合いになってしまった聖職者である。どうやら向かう先が同じらしいのだが、東に向かいながら途中の町で祈りを捧げつつ慈善活動を行うシスターと、興味の向くまま依頼を受けたり行き先を決めるアルフィリースは、ちょうど進行速度が同じくらいになるらしい。

 三日前にもティドの町を出る時、一度やってみたかった転がした枝に行き先を任せるという手段をとった。だがその枝が全く街道とは違う方向を指したため、


「やめた方がいいわよ~? アンタ、方向音痴なんだから!」


 とアノルンに言われながらも、ニヤニヤする彼女を尻目に半分意地になって森の中に突っ込み、案の定迷ったアルフィリースである。このあたりは街道も整備されており、魔物討伐も行き届いているため、余程深く森に分け入らないとそうそう人命に関わるような危険な魔物は出ないものの、やはり森の中は人の生活圏からははずれている土地であった。


「やっぱ川の傍に洞穴ほらあなとか、いかにも魔物の巣よね……」


 と思いつつも、そこは歳若い女子ある。水浴びの誘惑には勝てず、一応洞穴には何もいないことを確かめてから三日ぶりの水浴びをし、そのまま携帯食を少し腹に入れると、洞穴で寝こけてしまったのである。その後獣のうなり声でアルフィリースが目を覚ますと、馬の倍くらいの大きさの森オオカミが目の前にいた、と。


「まったくオオカミが単体でよかったわ。複数いるとさすがにまずかったし、師匠に魔物との交渉術を教わってなかったら、新しい寝床を探して今頃森の中をまた彷徨さまよっているのよね……全く、師匠サマサマね」


 結局激闘の末森オオカミを打ち倒し、傷の手当てをしてやる代わりに一晩の寝床を要求することに成功した。森林に棲むような魔物、特に獣に似た魔獣と呼ばれる魔物は自分より強いものには従順で、しかも恩を忘れないような個体までいる。また森オオカミは魔獣にしては温厚で、縄張りを極端に荒らさない限りは人間に襲いかからない。まあそのオオカミを怒らせたのは、アルフィリースの不用心ゆえである。

 この森オオカミは治療した後、こっちをいかにも人懐こそうな目でじっと見るものだから、ついついふかふかの毛並みの誘惑に負けて、こともあろうに魔獣を枕に寝てしまったのだ。


「寝心地はよかったんだけど、ね。どうも魔物に好かれるのかしら、私。それともこの子が人慣れしてるだけかな。人間の男はロクなのが寄ってこないのに」


 ふと以前山賊にさらわれかけたことや、軽薄な傭兵ようへい仲間が頭に浮かんで思わずため息が出る。それを怪訝けげんそうに見つめる森オオカミを見て、


「人間よりあなたの方がよっぽどマシかも。今まで出会った人たちって、良い人もいるけど悪党も多かったから。安心して話せるのが魔獣だなんて、私ってやっぱり世の中に疎すぎるのかなぁ? ねぇ、これからまともな友達とか恋人とか、私にできると思う? やっぱり『黒髪』じゃあ難しいのかな? なーんて、あなたに聞いてもしょうがないか」


 などと人生相談をもちかけるアルフィリース。当然魔獣にまともな返事ができるはずもなく、首を傾げるばかりである。再度ため息をつきながら、アルフィリースは身支度を整えていく。


「じゃあそろそろ行くわ。一晩騒がせてごめんなさいね」


 と言いつつ、オオカミの喉を撫でてやる。その時彼女が見せる優しげな表情を人間の男に見せれば話は簡単かもしれないのに、その表情を図的に作れないのがシスター・アノルンに残念がられる一因でもある。


「さてと、一番近いのはイズの町だったかな? そろそろ真面目に町を目指さないと。最近道草が多かったから、路銀も少々心もとないかしら。食料や水は森でも調達できるとして、武器もそろそろ手入れをしたいところね」


 と呟き、歩み始めたアルフィリースの顔は、既に冒険者そのものの険しさを備えていた。

 そう、アルフィリースは女性の身でありながら剣を携え、旅をする冒険者である。魔物が跋扈ばっこするこの世の中において、剣で活計たつきを立てる女性は少なかった。女性の職業といえば多くは商店への奉公人、裕福な家での下働き、農家がほとんどである。職人、学者などは少なく、女性の半分以上が識字すらままならない時代である。その中で女性が豊かな生活を手に入れるとしたら、貴族の愛人か、大都市での高級娼婦、あるいは冒険者だった。

また剣を振う女性の多くは騎士団に所属する騎士か、傭兵であった。彼女の恰好は一見では騎士に近い軽鎧けいがいと丸盾だが、騎士ではない。宿場で用心棒的なことをしたり、ギルドの依頼で隊商警護や魔物討伐をこなし、傭兵として金を稼ぎながら旅を続けている。

 この時世において女傭兵と言えば基本的に野卑な職業と考えられ、金や仕事がなければ娼婦まがいのことをしている者も多かったが、アルフィリースは決して自分をおとしめるような真似はしなかった。なぜならアルフィリースの師が彼女に堅く約束させたことでもあるし、そうでなくとも本人の誇りが許さなかった。また彼女の騎士風の恰好や、女性としては高めの身長、知的で端正な顔立ち、意志の強そうな瞳、そして何より『黒髪』であることを見れば、男の側からしてもおいそれと下世話な誘いをかけづらかったのである。

 魔術を使う者は、その操る性質により髪色に変化が現れることがある。たとえば炎であれば赤、といった具合である。もちろん全員がそうなるわけではなく、力の強い者にのみそういった変化が起こる。なお平民には栗毛が多く、貴族階級は金髪が多いとされている。

 魔術士としては名誉なことだが、通常魔術は一人一系統であり、戦闘を行う時には自分の能力をさらけ出すのと同様なので、髪色を染めてわからないようにする。そして染料は一般に黒が手に入りやすく普及していた。そのため黒髪の者は高位の魔術士、ないしは闇の魔術に親和性を示す者の証明である。ゆえに、普通の人間は黒髪の人物との関わりを避ける。機嫌を損ねれば魔術で何かされるかもしれないと考えるからだ。実際には魔術はそこまで便利ではないし、魔術士には非常に厳しい制約があるのだが、一般人はそんなことを知りはしない。

 もっとも中にはそんなことすら無視して誘いをかける者もいたが、アルフィリースが全く相手にしなかったし(最初は世間知らずすぎて何の誘いかもわかっていなかったが)、しつこく声をかける者には一年間馬の体を拭き続けた雑巾の方がマシではないか、というくらいぼろぼろにされる悲惨な結末が待っていた。アルフィリースを真正面から実力でどうこうできる男など、ざらにはいなかった。

 そんなこんなでアルフィリースが既に旅を始めてから一年半近く経つが、いまだに目的地には達していない。彼女は師の助言通り、東にあるベグラードという都市に向かっているのだが――


「師匠は『普通に旅すれば半年くらいだ』とか言ってたのに……嘘つき! そりゃあ寄り道はしているけど、全然着かないよ!」


 などとひとりごちてみるが、自分が地図もまともに読まず(当時の地図は非常に作りがいい加減であり、範囲の狭い地図しかなかったせいもあるが)、道草癖があり、好奇心から様々な面倒ごとに首を突っ込んできたのはすっかり棚にあげている。なにせ「東は太陽が昇る方向だ」くらいの感覚で目的地を目指しているのである。しかも師の述べた『普通半年』という所要時間は、馬を使ってのことである。まさかアルフィリースが大陸中央西部から東の端まで歩いて行こうとするとは師も想像していなかったであろう。

 一方でそれもしょうのないこととも言えるかもしれない。彼女は師に十歳で拾われてからおよそ七年、山の中で世間と隔離されて暮らしていた。旅の途中でたまたま親切な人達の助けがなかったら、旅立って一週間と経たずターラムあたりの娼婦街に売り飛ばされていてもおかしくないくらいの世間知らずである。そんな彼女の上にそういった不幸が訪れていないのは、彼女の仁徳ゆえか、はたまたおせっかいな酔いどれシスターのおかげか。


「まあ間違いなくアルフィってば、ここイズに来るわね。今回は何回迷ったあげく魔物と戦ったかしら? 散々からかい倒してあげなきゃ」

 などと考えながら、酒場で火酒を片手にくだを巻いているシスター・アノルンにアルフィリースが一晩中からかわれるのは、もう一度迷って魔物に追い回され、町に着く頃には口論する気力もなくした五日後のことである。


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