過去ーチトセー2

 数日前の違和感は今では薄れていた。


 チヨダと一生懸命生きる日々が取り戻せた気がしている。食料が手に入らず、寝床は土埃が酷い。しかし、隣にはいつもチヨダがいてくれる。肌寒い日でも寄り添えば多少は暖かくなる。錯覚かもしれないが、一人でいるより世界が明るく見えた。


 そんなある日。俺はいつも通り、食料を盗みに出ていた。チヨダと共同戦線を張る時もあるが、基本は単独行動だ。盗みに入る場合は一人の方が動きやすい時の方が多い。また、食料の量も多くなる可能性がある。


 チヨダのことはあまり心配していない。俺よりもここのことは詳しいし、盗みの技術は一級品だ。俺の手柄が思わしくない時は分けてくれることも多かった。チヨダも俺にはある程度信頼を置いてくれているみたいだ。良い関係が築けていると思う。


 その日もある程度の収穫を得られた。チヨダに喜んでもらえると思い、俯きがちに盗み笑いをする。軽い足取りでチヨダの元へ向かった。ここ数日で随分心が浄化された気がする。もう最悪なことなど起こらないのだと信じきっていた。本当に愚鈍で独善的だ。また同じ過ちを繰り返す。


「チヨダ?」


 手の腕に抱えられた果実が無残に地に転がっていく。徐々に顔が青ざめていく。俺が見たあの光景は。


 力なく横たわるチヨダ。もう目を開けないチヨダ。何度も俺のチヨダが死んでいく。俺に警告するように何度も大切なものが奪われていく。無情な世界は俺の理想になり得ないのだと見せつけられているようだ。両手で顔を覆う。殴られるチヨダ。蹴られるチヨダ。刺されるチヨダ。撃たれるチヨダ。そしてあれは、赤い、赤いアカイアカイアカイ。


 目の前が真っ赤に染まっていくのが分かった。


「う、うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ」


 気づいていたら声が出ていた。本能のままに俺は何もかもを曝け出した。今まで抑えていた心の奥底からの叫び。もう、耐えられなかった。取り繕うのももう疲れた。俺も早く楽になりたい。この世界から逃げたい。誰か、俺を殺して。


「そうだ、それこそがお前の中の欲望。不朽不滅の頑強な意志」


 気づけばチヨダの姿は消えている。代わりに目の前には人のような形をした炎の塊があった。人のようなだ。人との大きな違いは額から伸びる二本の角だろうか。その角も全て炎で構成されていた。周囲にもその炎が広がっていく。だが、不思議と熱くなかった。まるで炎が身体の一部になったように思えた。


「そう、俺はお前の一部だ。お前が壊れたあの日からずっとお前の心にいた。お前はあの事件のショックで忘れようとしていたみたいだが。確かに俺とお前は一度会い、契約した。しかし、どうやらお前には覚悟が足りなかったらしい。本当の自分と向き合ったお前に、今一度問おう。お前の使い方次第で俺は何にでもなれる。さあ、俺の手を取るか否か」


 燃え続けている手が俺に差し出される。普通の人間なら訳が分からないと思う。恐怖に慄き、絶対に応えない。そう考えると、俺はもう可笑しくなっているのだ。手を取っても取らなくとも、最悪は変わらない。それなら、一歩前進する。それが苦痛の道だとしても、後悔はしないと思った。


 俺はゆっくりと俺の手を掴み、確かに目を合わせた。


 その刹那、鎖骨付近の傷が赤く光りだした。いや、光りだしたのではなく、燃えている。にもかかわらず、痛みや苦しさは感じなかった。夢心地の中、目の前の俺が微かに笑っているのが見えた。


「望め。本能の赴くままに。醜い心に誇りを持って曝け出せ」




 あの日。チトセは具合の悪いチヨダのために町中を走り回っていた。栄養価の高いものと薬を求めてあちこちを訪ねていた。薬についての知識が皆無だったため、何か分からないものを盗んでも無意味だと分かっていたからだ。しかし、返ってくるのは耳を塞いでしまいたくなるぐらいの暴言。ボロボロの身体を傷つける暴力。


 チトセは地面に寝転がり、口から出る血を拭った。青い空には呑気な雲が流れている。もう、この世界から逃げてしまおう。ふと、邪な考えが浮かんできた。チヨダを見捨てた訳ではない。ただ、もうひたすらに疲れた。チトセは言い訳だと知りながらも、暫くそこから動かなかった。そうしていれば、全てのしがらみから解放されるのだと思っていた。


 暫くそうしていると、耳を劈くような悲鳴が聞こえてきた。勢いよく起き上がると、町中の人が家から這い出て、山の方向へ走っていくのが見えた。何事だと目を凝らすと、迫りくる真っ赤な炎がある。チトセの頭の中で逃げなくてはという気持ちとチヨダの安否を確認しなくてはという気持ちが滅茶苦茶に混ぜ合わさる。変な汗が額を流れ落ちるのが分かった。この場面で迷いは禁物だ。チトセの決断はチヨダを助けることだった。


 徐に、チヨダを残してきた自分たちの寝床へと戻る。しかし、そこにチヨダはいなかった。もしかしたら先に逃げたのかもしれない。無駄足になったが、また会えるのならそれで良い。安心し、チトセ自身も町の人たちが避難している場所へ駆けていった。


「チトセ?」


 それは避難場所でチヨダを探している時だった。見知らぬ小さな男の子がチトセの名を呼んだのだ。最初はチヨダかと期待していたが、違う。この男の子とは面識がなく、名前を知っていたことに驚愕する。


「なんで」


 目の前の男の子は静かに涙を流しながら、事の顛末を教えてくれる。


 燃えて脆くなった家屋が自分の上に降ってきたところをチヨダに助けられたこと。しかし、そのせいでチヨダは身動きが取れなくなったこと。自分の命が長くないと悟ったチヨダがチトセに対して「後はよろしく」と伝言を残したこと。男の子が言い終わる前に、チトセの足は町へ向かっていた。こんな最期なんてあんまりではないか。お前だけ先に逝くのか。先に楽になるのか。醜い心がチトセを蝕んでいった。もう涙も枯れ果て、何も出てこなかった。


 町へと行こうとするチトセを何人かの良心的な人たちが止めていた。それでも構わずチトセは足を進めようとする。もうチトセの目には轟轟と燃え上がる炎しか映っていなかった。


 正気を取り戻した時には、石造りの粗末なお墓の前にいた。一番大きい石には「チヨダ」と書いてある。きっとあの男の子が作ってくれたに違いない。


 チトセはゆっくりと手を合わせる。


「ほう、これは何と美味そ、いや、何と可哀そうな少年だ」


 どこからか声がした。周囲を見渡してみても、誰もいない。不思議に思っていると、


「見えないさ。俺は人間という下等なものではないからな。それより、どうだ。お前に力をやろう。そうすればその苦しさから解放される。良い話だろ」


 チトセは考えもせず、頷いた。もうどうでも良い気がした。


 「さあ、契約だ」


 その瞬間、鎖骨付近の皮膚を切り裂かれる。この時のチトセにはその傷など大した事でない。ただ、チトセの心にはまだ生きているチヨダの笑顔が鮮明に残っていた。


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