・           救いを求める手

華川とうふ

ブラックドットキャンペーン

 子供の頃から、夏美の手がすごく好きだった。

 紅葉みたいな手のひらが大好きで、「遊びに行こう」って夏美が俺に手を差し出してくれた瞬間を思い出すと今でも旨がぎゅっとつかまれるような、切なさがある。

 家にこもりがちな俺をそうやってひっぱりだしてくれたんだった。


 小さなころから、幼馴染の夏美のことが好きだった。

 初めて異性として意識した存在だし、初恋の相手だ。

 だけれど、初恋は実らないというのは本当らしい。

 夏美は高校を卒業すると同時に結婚してしまった。


 そんなこと全く知らなかった。

 どうやら、相手は東京の有名な私立大に通うエリートだったらしい。やっとのことで地元の大学の合格通知を手に夏美の家にいったら、夏美は結婚して実家を出て行ってしまったところだった。


 確かに夏美は客観的に見ても可愛い。制服姿の夏美はまるでアイドルがドラマに制服を着て出たワンシーンを切り取ったみたいだ。


 親に言ったら、俺がショックで受験を失敗しないように、みんなで内緒にしていたらしい。本当になんなんだよ……。大学に入ってそれなりに女の子との出会いもあったけれど、どんなに綺麗な女の子も、どんなに知的で面白い女の子も夏美を忘れさせてくれなかった。

 ただ、お互いどうせ一時の関係として過ごすには俺みたいなタイプは心地が良いらしくそれなり彼女はいた。


 惚れているということを除いて、客観的にみても夏美は最高の女の子だった。美人だし、勉強だってできるし、人なつこい。ただ、ちょっとだけ抜けているところもあるけれど。

 大学だって、みんな地元の国立大に進めたらいいなあと漠然と思っている中で高校入学と同時に、東京の私立の大学を志望校としてあげるようなしっかりとした面と良いギャップになっていた。


 いつか告白しようと思っていたのに。

 大学に合格したら、告白しようと思っていたのに。

 夏美は結婚して手の届かない存在になってしまった。


 全てを捨てて自暴自棄になれれば良かったのだが。地元の大学に進学した俺は大して自由を謳歌することなく、その代わり食事や金に困ることのない恵まれた大学生活を無難に過ごして、卒業し、親の会社で働く。大学では周りが就活にそこそこ苦労していたのでうらやましがられた。「本当、苦労のない人生。気楽でいいよな」なんてやっかみの言葉が飛んでくる。

 まあ、自分でも苦労はしていないと思う。

 県外に進学することもなく、ずっと親の庇護のもとで、まるでずっと家の中でまったりと過ごすみたいな人生だ。

 だけれど、その代わり俺の人生にはこれと言った目標も希望もなかった。

 ただ、地元の大学に進んで、ゆくゆくは親の経営する小さな会社を継ぐ。

 それだけだ。

 なんて面白くない人生なんだろう。


 こんな人生でも、高校の頃までは夏美がその人生の側にいてくれるならば悪くはないと思っていたのに……。


 そんな日々に変化が起きたのは少し前だ。

 夏美が俺の前に再び現れた。


 少しやつれた印象だったけれど、確かに夏美だった。

 少し色あせた服を着て、自慢だった艶々の黒髪は一つに無造作に結われていた。


「ねえ、お願い……パートって募集してないかな?」


 本当は断るべきだった。

 ちょうど親父はリタイア前の俺への腕試しとして、休暇をとっていて裁量は俺にあったけれど。

 人手は足りていた。ただ、随分前に貼ったパートさん募集の茶色く変色した古い張り紙が会社の入り口の硝子戸にあって、曖昧に頷くことしかできなかった。

 すると、夏美は「ああ、よかった」とほっとした声をあげた。その目尻にはなぜか涙がすこしだけ浮かんでいた。


 形ばかりの面接をして、夏美にパートとしてきてもらうことになった。放っておけなかった。

 泣くほど不安な状態にある夏美を。

 コロナで色んな人が仕事を失ったらしい。

 幸いなことに、うちの会社はなんとかやっている。

 田舎の会社だから、緊急事態宣言もすぐあけたし、比較的地域に密着して商売をしてきたおかげだろう。


 面接でも、コロナの影響でパートの仕事が減ってしまったと困ったように笑っていた。

 エリートの旦那の収入があるのにパートにでなきゃいけないなんて不思議に思ったけれど。


 夏美を雇って、正解だった。

 真面目だし、身元も確かだし、あっというまに仕事を覚えてくれる。

 きっと、夏美が俺の立場にあったらこの会社を現状維持するだけじゃなくて、あっという間に大きなものに成長させることができるだろう。本当に大学に行かなかったのはもったいない。

 勉強だってできたし、家庭の事情なんてなかったはずなのに……。


 夏美が職場にいる。

 それだけで、俺はつい昔の気持ちを思い出して辛かった。

 忘れられない女性が目の前にいる。

 もう二度と手に入らないと思った女性がすぐ手の届くところにいる。


 だけれど、俺は立場上、夏美をそんな風に思っているなんて気づかれてはいけない。

 ただ、古くから知っている気の置けない仲。俺たちの関係はそれだけだと何度も自分に言い聞かせた。

 だって、もしなにか俺たち間に恋愛とは言わず昔のような関係が残っていれば、夏美は仕事が終わると走るようにして職場をでて家に帰ることなんてないだろう。


 この間なんて、ちょっと時間が過ぎただけで血相を変えて夏美は走って帰っていった。

 話の内容は仕事に関わる物だったが、「すみません、時間なので」と夏美は泣きそうな声を張り上げて、タイムカードを押して帰っていった。

 もちろん、パートだから時間で働いているので構わないが、そのオーバーした時間はちゃんと残業代もつくというのに、夏美は絶対に時間通りに退社する。俺と一緒にいるのがそんなに絶えられないのだろうか。

 それなら、なんで俺の働いている会社にやとって欲しいと言ってきたのだろうか。


 ただ、単に家での時間が心地よくて仕方ないのだろうか。最近はお家時間とかいって、家で家族とすごすのが推奨されているから仕方ないのかもしれないけれど……。


 最近、不思議なことに気づいた。

 夏美の手のひらに、小さな黒い点があるのだ。

 ホクロではない。

 見るときによって場所が変わるのだ。

 ただ、マジックで汚したのかなと最初は思っていた。


「なあ最近、よく手にマジックの汚れあるけど、どうかしたの?」


 俺は何気なく聞いたつもりだったけれど、夏美はびくっとしたあとに、

「えっと……なんでもない」


 夏美は静かに首を振った。


 何でも無いわけがなかった。

 夏美は子供のころから無理をしすぎる。明確に言葉にすることはできないけれど、様子がおかしかった。

 そもそも、パートの募集を聞いてきた時点で夏美の様子はおかしかったのだ。

 エリートな旦那と幸せに暮らしていると思ったのに、どうしてあんなに弱々しい姿の夏美が俺の前にいるのだろう。


 まさか、DVとかも考えたけれど、下手にそんなことは口にだして聞くことなんてできない。ただ、心配しているだけならいい。けれど、俺は常にどこかで自分は夏美に下心をもってしまっていて、強引に自分の都合のよいように解釈している可能性もあるから踏み込むことなんてするべきじゃないんだ……。


 でも、やっぱり夏美の手には今日も黒い点、ホクロのような汚れがあった。

 こんなに幼馴染とはいえ従業員の手をみつめるなんて自分でも異常だと思う。


 夏美のことを雇うべきじゃなかったのだろうか。

 俺は心の中で夏美が結婚相手と上手くいってなければいいと願ってしまっているのだろうか。

 そう何度も考えた。


 ある日のことだった。

 ふと、ネットで『エンジェルショット』というカクテルの名前を目にした。

 これはこっそりバーテンダーにあるメッセージを伝えられる方法だそうだ。

 面白いものもあるものだなと思いながら、俺はふと、『手のひら 黒い点』で検索をかけた。






 俺の夏美への心配が単なる妄想じゃなかった。

 夏美は俺に助けを求めていたんだ。


 俺は翌日、出勤してきた夏美に声をかける。

 すると、夏美は泣きながら話してくれた。

 まだ、高校生のときに大学の見学に行ったときに「地元がいっしょだね」と今の旦那に声をかけられて、そのまま強引に関係をもつかたちにされて、「責任をとるよ」と付き合うことになったこと。

 コロナの影響で仕事が減った旦那の分を稼いでくるようにとパートにだされたこと。家にいれば暴力をふるわれること。

 旦那からDVを受けていること。


「ずっと、誰にも言えなくて……だって、自業自得だって笑われて、助けてくれなかったらどうしようって……でもきっと、貴方なら気づいてくれるかもって……」


 これで俺の元に夏美が戻ってくるなんて都合の良いことは想像しない。

 ただ、夏美が安心して暮らせるように俺は彼女を支えていけたらと思う。


「子供の頃、好きだったんだ……あなたのおうちで過ごす時間……」


 ホットミルクの入ったカップを両手で包んだ夏美は、ちょっぴり切なそうに笑った。



 ●●●●●


 お読みいただき、ありがとうございました。


 ブラックドットキャンペーンという、DVの被害者が手のひらに黒い点を書いてDVの被害を無言で訴える手段があるそうです。

 デートDV対策としてバーで「エンジェルショット」というカクテルを注文するとバーテンダーが助けてくれたりするそうです。

 おうち時間が増えているなかで、外からは見えない暴力が増えているといわれています。

 暴力の被害者が必死に助けを求めるサインを見逃さずに、SOSを受け取り、多くの人が救わるといいなと思ってこの作品を書きました。

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