真実の可能性

 私の身体はそら高く、天井付近まで舞い上げられていた。

 眼下に10オンスの赤いグローブが突き上げられているのが見えたところでようやく理解する。私はあれだけ受けてはならないと注意していた一撃喰らってしまった。そして打ち上げ花火よろしく、ここまで舞い上げられてしまったということか。

 この状況下でそう冷静に自分の置かれた立場を把握できたのは、目の前でさらに驚くべき事態が起きていたからかもしれない。

 私の正面にいるスパーリングプログラムはまるで上半身だけを寝かせたような姿勢で拳を突き上げていたのだ。


(あの体躯と体勢でパンチを繰り出したのか……!)


 恐らく初手のアッパーから即座に身体を翻して私の腹目がけて一撃を放ったのだろう。つまり初撃はデコイ。あの強烈なアッパーは、本命の一撃を欺くための目くらましだったのだ。

 そんなことを考えた次の瞬間、身体が重力に従って地面に吸い込まれていくのを感じる。それと同時に、自分の意思と反して視界が徐々に狭まってくるのがわかった。思考までが暗闇に飲まれていくように虚ろになっていく。

 完全に意識を手放しそうになったその時――、


『千鶴、無理なら止めてもいいよ』


 聞き馴染みのある声が聞こえた気がして、私は両目を見開く。

 試合の客席で私を見守るボクシング部の面々の中にひとり、黒いパーカーを羽織った少女の姿を見つける。口端は不敵に吊り上げられていた。

 彼女のその姿を見た瞬間、私は自分の中に闘志にも似た力が沸々と沸き上がるのを覚える。

 ここでひとつ名誉のために言わせてもらうならば、この力の根源は友情とか愛情とかそんな綺麗なものじゃなくて、単純に怒りだった。


「あなたがやれって言ったんでしょ!」


 叫ぶと同時に私は天井を蹴る。客席から誰かの「吹き返した!」という声が聞こえてきた。

 勢いよく一直線に落下する私は、スパーリングプログラムめがけて手にしていた物体を投げつける。

 それは先程スパーリングプログラムが扉を突き破って現れた際に飛んできたボールペンサイズほどの細長の金具だった。きっと扉のパーツか何かなのだろう。

 金具は狙いどおり、あやまたずスパーリングプログラムの左目に突き立つ。

 客席からドッと歓声が湧いたのと私が地面に着地したのはほぼ同時だった。

 再び地上にて私とスパーリングプログラムは相対する。

 目から金具を引き抜いたスパーリングプログラムは、左目から血を滴らせながら鼻息荒くこちらをにらんでいた。赤いグローブが血に濡れて、より赤く染まっている。

 プログラムに感情はない。そうあるよう振る舞っているだけ……のはずだけど、やはりどこか本当に怒っているように見える。重ね重ね勝負を反則技に汚されたと、そう考えているのだろうか。

 ただそれでもスパーリングプログラムはファイティングポーズを崩そうとはしない。

 そうプログラムされているだけと言われてしまえばそれまでだが、反則技で目を潰されて、それでもなおボクシングスタイルを貫こうとするその姿勢には感銘を受けざるを得なかった。


「だけどごめんなさい。私の目的はボクシングの試合じゃなくて勝つことなんです」


 非礼をわびてから、私は潰れた左目の方へと転がる。

 当然生きている右目で私を追おうとするスパーリングプログラムだが、そう行動するであろうことは容易に読めていた。右目がこちらを捉えると同時に拳が放たれる。

 だがそれよりも私が蹴りがみぞおちに当たる方が先だった。衝撃を受けたスパーリングプログラムの上半身がわずかに前のめり、その重心が崩れる。

 それを隙と見て取った私は、すかさずスパーリングプログラムの右手首と左耳を引っ掴むと、背後うしろへと流れるように倒れて足で相手の腰を跳ね飛ばす。柔道の技でいうところの巴投げだ。

 投げ飛ばされたスパーリングプログラムは宙を舞い、大きな音を立てて背中からリング場外へと落下する。

 何かが折れるような嫌な音がした。だけどこの程度では油断ならない。さっきだって立ち上がってきたのだ。きっとまた起き上がってくるだろう。だからもう、二度立ち上がらせることはしない。

 リングロープを乗り越え、私はスパーリングプログラムへと飛びかかると、固く握り締めた拳を振り下ろす。

 狙うは一点。

 ボクシング部電脳空間に硬いものが砕ける音が響き渡る。

 私の拳を叩き込まれたスパーリングプログラムの顔は青白いバチバチと火花を散らして、サラダボウルのようにへこんでいた。身体は海老反りのように何度か跳ねて――、そして今度こそ動かなかった。

 ――終わった。

 安堵してその場に座り込む私に、いつの間にか背後に立っていた青山さんが声をかける。


「やるじゃん」

「――勝てたのはこちらにボクシングという縛りがなかったからです」


 私はとんでもないものを押し付けてきた先輩を見上げながら言う。

 『投げ』『蹴り』『拳』『暗器』と卑怯と揶揄やゆされても仕方のないラインナップだったこちらに対して、スパーリングプログラムはあくまで『ボクシング』という一点で勝負をしかけてきた。

 もしも同じボクシングという土俵で戦うことになっていれば技量、体格で圧倒的に劣るこちらに勝ち目はなかっただろう。

 それだけ恐ろしく強いプログラムだった。


 息をついて立ち上がろうとする。だが先程の戦いが思った以上に影響していたのだろう。立ち上がりかけたところで、足がもつれて身体がよろめく。

 そのまま背後に倒れそうになった私を、間一髪のところで青山さんが抱きとめた。


「お疲れ様。よくがんばったね」

「……青山さん、私が戦ってる最中に『無理なら止めてもいい』みたいなことを通信経由で言ってきたりしてないですか?」

「んー記憶にないな。幻聴じゃない?」

「やめてください、私の能力を疑問視するような発言は――」


 自分を支える腕をグッとつかんで青山さんをにらむ。


「青山さんのためならどんなことでもやり遂げますよ、私。文句は言いますけど」

「――別に疑問視したつもりはないけれど……まあいいや。しばらく休んでなさい」


 そう言って青山さんは私をそっと地面に座らせると、力なく崩れるスパーリングプログラムの前にしゃがみ込む。亡骸を見下ろしながら彼女は顎に手を当てて、何やら難しそうな顔をして考え込んでいる。そこへ丹下部長さんが近づいてきた。


「それで……どうだったんだ?」

「ちょっと気になることが」

「なんだ?」

「この部活であのモードのスパーリングプログラムに勝てるのは誰ですか?」

「今のウチの部でアレに勝てる人間はいない。俺を含めてな」

「部員全員でかかっても?」

「10人同時にかかったことはないが、多分無理だろう。だから今、心底驚いているよ。まさか女子が無傷でアレを倒しちまうなんてな」丹下部長さんのわずかに恐怖を孕んだ視線が私へと向けられる。「何者なんだ、その子?」

「人造人間よ」

「人造人間……!」

「いやいや、真に受けないでくださいよ?」


 預かり知らぬところで、良からぬものにされようとしていることに気づいた私は異議を挟む。

 こちとら純度100パーセント混じり気なしの生身の人間だ。人造人間とか、断じてそんなよくわからないものじゃない。


「人造人間はさておいて、」自分で言っておきながらさておいて青山さんは続ける。「何でそんな誰も勝てないモードがあるの?」

「まあ……ちょっと事情があってね」


 丹下部長さんはそれだけ言って口を閉ざしてしまった。どういうわけかその事情について話すつもりはないらしく、無言で話が流れるのを待っているようだった。

 それ以上何も引き出せないと考えたのか、青山さんも深く追及することなく別の話題に移る。


「スパーリングプログラムの仕様書とかってある? どういうものなのか具体的な文章でも知りたいんだけど」

「ああ、あるよ。あとで送っておく。他にも欲しいものがあったら言ってくれ」

「それじゃお言葉に甘えて。ボクシング部の練習風景の映像とかってあったりする?」

「練習風景の映像?」


 想定外の要求だったらしく、丹下部長さんは素っ頓狂な声をあげる。


「昔何かで見たことがあるんだけど、ボクシングって自分の練習してる映像を見て参考にしたりするんでしょ?」

「確かにフォームの確認とかのために撮影はしてるけど……何に使うんだそんなもん?」

「ちょっとね」


 その曖昧な返答に不安になったのだろう。丹下部長さんは訝しむような表情で尋ねる。


「一応練習の映像とは言え、外に漏れたりすると困るんだが……捜査が終わったら全部削除してくれるんだろうな?」

「それはもちろん」

「……まあそういうことなら、あとで送ってやるよ」


 そう言って丹下部長さんはその場を去って行った。

 周囲を見まわすと他の部員たちの姿も見当たらない。どうやらみんな、各々おのおのの練習に戻っていったらしい。

 あれだけ客席にいた観客の姿も見当たらない。あれは試合が行われる時だけ現れる存在なのだろうか。


「これからどうします?」


 私は考え込んだ様子の青山さんを見あげる。

 犯人は既に明らかになっている。矢石先輩だ。スナップショット取得時のログがそれを指し示している。

 ならばこれ以上私たちが捜査する意味は薄いように思えるが、青山さんの判断は違うようだった。


「んーそうだね。千鶴のおかげで、もう少し捜査する価値はあるかなって気がしてきたよ」

「どういうことですか?」

「犯人は矢石の他にいる可能性があるってこと」

「もしかして、あのスパーリングプログラムに何か見えたんですか?」

「それは内緒」


 艷やかな唇に人差し指を当てて微笑む青山さんに、またそれかと私はげんなりする。

 手前味噌ながら、スパーリングプログラムとあれだけの激闘を繰り広げたのは私なのだから何かしら教えてほしいところだが、こう言っている以上彼女は何も教えてくれないだろう。それは去年1年で学習済みだ。


「だけど保証するよ。千鶴の戦いは無駄にしない」


 そう言うと青山さんはこちらに向かって手を差し伸べる。


「立てる?」

「もう行くんですか?」

「のんびりしたいのはやまやまだけど、電脳鑑識委員どもが矢石を引っ張って行っちゃったからね。少し急ぐ必要があるな」

「そうか。報告書が完成しちゃったら正式に矢石先輩が犯人ってことになっちゃいますからね」


 私は青山さんの手を取って立ち上がる。

 改めて辺りを見まわすと、壁に鉄扉が突き立ったり、もので荒れ散らかったりと、部屋は小さな爆発でもあったかのように荒れ果ててしまっていた。

 これだけの戦いをしたのだから、こうなったら是が非でも真実を見つけたいと思うのが人情というものである。


 だが、ログの上では矢石先輩が犯人なのは明白だ。

 とかく神明学園の電脳空間におけるログの改ざんは難しい。ログを書き換えることができるのは管理者ユーザだけだが、電脳空間を利用する生徒たちに管理者権限が与えられることはないのだ。

 セキュリティの世界には『最小権限の原則』という言葉がある。要するに『ユーザには必要最低限の権限だけを与えることで好き勝手悪さできないようにしよう』という考え方だが、生徒が利用する電脳空間はこの最小権限の原則に則っているのだ。

 学校ネットワーク上の電脳空間は、生徒に管理者権限が開放されておらず、私たちにできるのはあくまでログを見ることだけで、書き換えはできないのである。

 権限昇格の脆弱性というものも存在するのだが、それらの情報には常に監視の目を光らせているし、特定の管理者アカウント以外による管理者権限のコマンド実行は強制でシャットアウトされる。何よりログを始めとした特定のファイルには、改ざん検知の機構が存在する。改ざんされれば即アラートが上がるという仕組みだ。


 これらの十重二十重とえはたえの仕組みによってログの正当性は担保されていると言ってもいい。

 だからこそログを読んだ犬刃鑑識委員は、矢石先輩の犯行に間違いないと踏んだ。そして矢石先輩は自白した。

 ログだけ見て言えば犬刃鑑識委員の見解どおり、この事件の犯人は矢石先輩で間違いないのだ。

 だけど今回、青山さんはその結論に異議を唱えた。

 逆行分析者の異名を持つ彼女なら、私たちが気づかない事実に気づいている可能性がある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る