17. ふたたび、砂漠の国へ

 ジャスティンは左腕を骨折し、全治三週間と診断された。選手生命を奪われるほどの怪我ではなかったことに、全員がほっとした。

 パリのレースでの優勝は逃したが、ベルギーのロドリゴ選手も転倒に巻きこまれたので、ジャスティンはポイント数で上回り、年間チャンピオンに輝いた。アダムは四位、トムは六位だった。これで、ワイルドカード枠獲得への条件はそろった。あとは来年二月ごろの発表を待つだけだ。

 ジャスティンはオフのあいだも熱心にリハビリを続け、年末には左腕はほとんど元どおりになっていた。これなら、次のシーズンも万全の状態で戦えるだろう。

 十月にセシリアがスタンリーの求婚をきっぱり断って以来、さすがに両親もあきらめたらしく、とにかくツールが終わるまでは好きにさせることにしたようだった。

 そんなとき、ナビールから招待状が届いた。二月半ばに開催される第二回〈ナビール・カップ〉への参加を請う内容だった。印刷された形式的な文章の下に、皇太子の手書きの文字があった。

〝ジャスティン、君と〈チーム・バーリー〉のみなさんに再会できることを心から楽しみにしている。 バドゥル〟

 セシリアは、バドゥルの力強い筆跡をじっと見つめた。〝〈チーム・バーリー〉のみなさん〟のなかに私も入っているのかしら。

 シーズン開幕直後のこのレースは、ジャスティン復活を印象づけるよい機会だった。ワイルドカード枠選定にあまり影響はないかもしれないが、できることはすべてやっておいたほうがいい。チームは出場を決めた。

 ジャスティンは複雑な気持ちをいだいているはずだったが、もちろん表面上はやる気満々の姿勢を見せていた。私も見習わなくては、とセシリアは自分に言い聞かせた。バドゥルに会いたい気持ちと、もう二度と会いたくないという気持ちが交互に胸に押し寄せた。

 レース開催の一週間前、ジャスティンとセシリア、〈チーム・バーリー〉の選手とスタッフの一部は、空路ナビールへ向かった。ジャスティンは怪我から完全に復帰、ほかの選手たちも調子がいい。他の参加チームの顔ぶれを見ても、〈チーム・バーリー〉ほどバランスが取れているチームはあまりなく、好成績が期待できそうだった。セシリアは明るい気分で、スクリーンに映るニュースを観ながら機内食をほおばっていた。

 そのとき、アナウンサーが中東ナビールのニュースを伝えた。「ラシード国王は健康を回復され、公務に復帰されました。肩の荷を下ろされた皇太子は、近々ご婚約を発表の予定です。お相手は正式には発表されていませんが、以前より親しくおつき合いされている砂漠の首長の三女、ハミダさまと思われます。なお、ナビールでは来週十四日にロードレース〈ナビール・カップ〉が開催され、各国から集まった選手たちが熱い戦いを繰り広げます。ご婚約の発表は、そのあとになりそうです」

 セシリアは、急に喉にかたまりがせり上がってきたような気がして、フォークを置いた。国王陛下は回復されたのね、ほんとうによかった。そしてバドゥルとハミダの婚約も……。

 笑顔で〝おめでとうございます〟と言わなくてはならない。言えるだろうか。

 セシリアはまばたきで涙を追い払ってから、ひと眠りしようと座席に背中を預け、目を閉じた。


 久しぶりに会ったバドゥルは、思っていた以上にすてきだった。昨年と同じように、レースの前日に宮殿の大広間で選手の歓迎会が開かれ、ジャスティンとセシリアはチームのメンバーとともに出席した。部屋の奥で談笑するバドゥルの姿に、セシリアの視線はすぐにきつけられた。こちらに気づいて、大股で歩み寄る。セシリアは思わず顔をうつむけたが、ぐんぐん近づいてくるバドゥルの気配を感じ、心臓の高鳴りを抑えられなかった。

「ジャスティン、よく来てくれたな。うれしいよ」低く響く懐かしい声が言った。

「バドゥル、ご招待ありがとう。あしたのレースでは必ず優勝するぞ」ジャスティンが応じた。

「ああ、期待しているよ」バドゥルが笑いながら言って、少し間を置いてから声をかけた。「セシリア」

 セシリアは目を上げた。「お久しぶりです、皇太子殿下」

「元気そうでよかった」バドゥルが、あの優しいまなざしでセシリアを見つめて言った。

 セシリアの胸がせつなさで締めつけられた。「あなたも。国王陛下もお元気になられたそうでよかったわね」

「ありがとう。ほっとしているところだよ」

「……ご婚約されるそうね」セシリアは小さな声で言った。

 バドゥルがかすかに眉をひそめてから言った。「うん……その話はレースが終わってからだ」

 バドゥルが否定しなかったことに、セシリアは思った以上にショックを受けた。報道はほんとうだった……。

「それより例のリゾート施設だが、君のおかげで事業計画は順調に進んでいるよ。来年の夏には本格的にオープンできそうだ。時間があったら、建設現場を見学していってくれ」

「ええ、ぜひ」

「まずは、あしたの〈ナビール・カップ〉を成功させよう。コース整備は万全のはずだ。どのチームにも、思うぞんぶん実力を発揮してほしい」

「ええ。〈チーム・バーリー〉の準備もじゅうぶんよ。きっと優勝するわ」

「楽しみだな」バドゥルがにっこりした。

 そうよ、今はレースのことだけを考えなくちゃ。セシリアはひとつ大きく息を吐いて、邪念を追い払おうとした。


 そしてレース当日。

 予想どおり、〈チーム・バーリー〉は好調だった。スタートこそ出遅れたものの、中盤でトップ集団に追いつき、山岳コースが得意なジャスティンとアダムが他の選手を引き離しにかかった。前回の崖の際を走る道は、コースから外されていた。きちんと整備され、上りと下りがバランスよく配された山道が続いた。

「残り二十キロ、集団との差は四秒よ」セシリアは無線に向かって叫んだ。

「オーケー。このまま突っ走る」ジャスティンの声が返ってきた。

 残り十キロ。ジャスティンはアダムを引き離して独走態勢に入った。しかし、直線に入って残り一キロになると、後続の集団がぐんぐん迫ってきた。

 ジャスティンは、最後の力を振り絞ってダッシュした。少しだけ差が開いた。速度はゆるまなかった。そのまま二十秒の差をつけて、ジャスティンはゴールへ飛びこんだ。

「やったわ、ジャスティンが優勝よ!」ゴール前で待ち構えていたセシリアは大はしゃぎして、監督のカートやメカニックのダンと抱き合った。完璧なレース展開に、チーム全体が大満足だった。

 ゴールわきの丘のふもとで、表彰式が行われた。皇太子とハミダが並んで現れた。メディアがふたりを取り囲み、盛んにフラッシュをたいた。セシリアの胸がずきんと痛んだ。

 バドゥルがジャスティンの胸に金のメダルを掛けて、「おめでとう、ジャスティン」と言った。

「ありがとう」ジャスティンが応じて、笑顔で周囲に手を振った。

 それから、ハミダがジャスティンに花束を手渡した。ふたりはしばし見つめ合った。

 セシリアがふたりの姿をぼんやり眺めていると、バドゥルが声をかけてきた。「おめでとう、セシリア。これで、来年のツールはもう確実だな」

「ありがとう」セシリアは静かな声で答えた。

「……少し、話がしたい。丘の上までつき合ってくれないか?」バドゥルが言った。

 ちょうどジャスティンのインタビューが始まったので、メディアはそちらに気を取られていた。

 セシリアがうなずくと、皇太子は先に立って、表彰台の裏手の道へ向かった。ふたりはゆるやかな起伏のある草地を並んで歩いた。

「皇太子が姿を消したら、騒ぎにならないかしら」セシリアは言った。

「だいじょうぶだ。ナジに伝えてある」バドゥルが答えた。

 丘のてっぺんに立つ椰子の木陰で、バドゥルが立ち止まった。右手に、ゴールと表彰台、そこに集まるおおぜいの人々の姿が小さく見えた。

 バドゥルがこちらに振り返った。マリンブルーのビシュトと真っ白なグトラが風になびき、襟を飾る金糸がきらきらと光った。彫りの深い顔、たくましい両肩。なんてりりしい姿だろう。

 セシリアは、急に自分の格好を恥ずかしく思った。メカニックとしての仕事を終えたばかりで、今もジーンズにチームのウィンドブレーカーとキャップという服装だった。

 けれどもバドゥルはそんなことは何も気にしていないようで、心を奪う黒い瞳でセシリアを見つめた。「レース前にした話の続きだ」

 セシリアの胸が締めつけられた。「あ、ご婚約のこと……」

「そうだ。まずは君に謝らなければならない」

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