16. 皇太子の婚約
「ナビールの皇太子も、近々婚約されるそうだぞ」
セシリアは、引ったくるようにして父から新聞を受け取った。しかし、見出しは皇太子の婚約ではなく、国王の病気だった。
〝中東ナビールのラシード国王、心臓発作で静養〟
セシリアは急いで本文を読んだ。〝中東ナビールのラシード国王が先月末に心臓発作を起こしていたことがわかった。一時期は危険な状態だったが、現在は回復し、静養中〟
なんてこと。ラシード国王の穏やかな笑顔が目に浮かんだ。バドゥルはどれほど心配しているだろう。
〝あくまで一時的な措置としながらも、バドゥル皇太子が摂政を務めることになった。皇太子はこれまでも副首相兼外務大臣として数々の政策を立案……〟
婚礼の話をしたときのバドゥルの言葉を思い出した。『父上のお体が……』あのころから、国王はご病気を抱えていたのだ。
次の行を読んだセシリアは、鋭いナイフで胸を突き刺されたような気がした。〝国王にもしものことがある前にと、ご婚約の準備を進めているようだ。お相手候補として砂漠の部族アル=イブラヒム首長の三女、ハミダの名前が……〟
バドゥルが婚約……ハミダと……。呆然とするセシリアの手からジャスティンが新聞を取り、目を通して黙りこんだ。
「国王のご病気は心配だけど、おめでたいことね」母が言ったが、セシリアはほとんど聞いていなかった。「スタンリーは五時ごろ来るそうよ。それまでにしたくしておいてね」
「はい……ごちそうさま」セシリアはぼんやりと席を立って、食堂を出た。
自室に戻り、ベッドに座りこむ。バドゥルが結婚する……。なぜこんなにショックを受けているの? 皇太子が妻を迎えるのは当然のことだ。国王がご病気の今、国の安定のためにも、父親を安心させるためにも、急がなくてはならないのはわかる。
自転車レースに熱中しているイギリスの娘など、待っていてくれるはずがない。
セシリアは口もとに皮肉な笑みを浮かべた。待っていてくれるですって? 自分からあんなに手ひどく皇太子をはねつけておいて、私は何を期待していたのだろう。
でも……。セシリアは両手で顔を覆った。私はバドゥルを愛している。皇太子としてではなく、ひとりの男性として……。今はっきり気づいた。
なのに、愛していると伝えることさえできなかった。たとえ待ってもらえるはずなどなくても、バドゥルと結ばれることが永遠の夢だとしても、想いをぶつけるべきだったのに。なんてばかなの。もう何もかも遅すぎる。
セシリアはベッドに突っ伏して思いきり泣いた。
五時五分過ぎ、階下から母の声がした。「セシリア! スタンリーがいらしたわよ! 応接室に下りていらっしゃい」
セシリアは重い体をどうにか引き上げて、用意されたオリーヴ色のドレスに着替えた。鏡には泣き腫らしたひどい顔が映っていたが、しかたがない。もう心は決まった。
十分後、応接室の扉を開くと、タキシードを着たスタンリーがひとりきりで、そわそわと室内を歩き回っていた。
「こんにちは、スタンリー」
スタンリーが跳び上がるようにして振り返り、歩み寄った。「遅いじゃないか……どうしたんだい? 目が真っ赤だよ」
「なんでもないわ」セシリアは言った。「ちょっと疲れているの。あしたからパリだし」
「まったく、あわただしいな。ゆっくり話す暇もありゃしない。だからさっさと決めてしまおう。僕たちの……日取りだけど」
「なんの日取り?」
スタンリーが苛立ったような顔をした。「結婚のだよ、もちろん」
セシリアはひとつ大きく息を吸ってから言った。「あのね、スタンリー。そもそもあなた、私にプロポーズさえしていないじゃない。初めから決まってることみたいに勝手に進められて、私が素直に従うと思うわけ?」
そういえば、どこかの皇太子にも、まるで結婚するのが当たり前みたいなことを言われなかったかしら? まったく、私のまわりの男たちは……。
スタンリーが、あのふてくされたようないつもの表情で言った。「じゃあ、言うよ」
じゃあ、ってなんなのよ。
「セシリア、僕と結婚してくれ。今、指輪をつくらせてるんだ。きょうは間に合わなくて……」
「ごめんなさい、指輪はつくらせなくていいわ。あなたとは結婚できない」セシリアはきっぱり答えた。
「ツール出場がどうとかっていうことだろ。いいよ。気が済むまでマネージャーでもメカニックでも続ければいい。子どもでもできれば……」
「そういうことじゃないの」セシリアはスタンリーの言葉をさえぎった。「あなたのことは、幼なじみとして好きよ。でも、愛していないわ。あなただって、私を愛しているとは思えないんだけど」
「そ……そんなことないよ」スタンリーが顔を真っ赤にして言った。「子どものころから君を知ってるから、そういうことを言うのが照れくさかっただけさ。僕は……愛してる」
セシリアは、少年のころの面影が残っている幼なじみの顔をじっと見た。「ごめんなさい、スタンリー」
「だってこれは、ダルトン家とマクレーン家のあいだで決まってたことじゃないか」スタンリーが憤然として言った。「どうして今になって――」
「いい加減、大人になってよ、スタンリー」セシリアはあきれて言った。「いつまで親に言われたとおりの道を進むつもりなの? 私が結婚するかどうかを決めるのは、私だけだわ」
スタンリーがうらみがましい目でにらんだ。「ほかに好きな男がいるのか?」
セシリアはため息をついた。「それはあなたに関係ないでしょう」
「知ってるんだ。あの中東の皇太子だろう。だからあのとき、僕を追い返していつまでも帰ってこなかったんだ。皇太子に恋をしてどうなる? 皇太子妃になれるとでも思ってるのか?」
「思ってないわ」
「今朝の新聞を見たか? 砂漠の美女と結婚するそうだよ」
「知ってるわよ。もう放っておいて」セシリアは叫んだ。
スタンリーがくるりと振り返って応接室を出ていき、扉をばたんと閉じた。
どう? 幼なじみをきっぱりはねつけたわよ。
心のなかでバドゥルに話しかける。
だからってあなたを取り戻せるわけではないけれど。ばかみたいね。でも、私はあなたを愛しているわ。たぶん、この先もずっと……。
パリへ向かう飛行機のなかで、ジャスティンは言葉少なく沈んだ様子をしていた。
やっぱりハミダのことがショックなのかしら。セシリアは少し心配になった。
兄妹そろって失恋してしまったみたい。砂漠の夢はもうおしまい。気持ちを切り替えて、自分たちの夢にまっすぐ向かうときだ。
「勝ちましょうね、ジャスティン」セシリアは兄に言った。
「ああ」ジャスティンが答えた。「最後のワンデーレースに勝って、ツール行きを確実にする。今はそのことしか考えていないよ」自分に言い聞かせるかのように言う。
「頼もしいわ」
レース当日、ジャスティンは言葉どおり、すばらしい集中力を見せた。シーズンの疲れを見せることなく、前半から先頭集団にしっかり位置を取った。チームメイトのアダムとマイケルも好調だった。
天候もよく、大きなトラブルもないまま、レースは終盤に差しかかった。セシリアはサポートカーから降り、ゴールで待ち構えた。
先頭集団が団子状態でゴールへ突き進んでくる。あとは力勝負だ。
お願い、ジャスティン、がんばって! セシリアは両手を組み合わせて祈った。
ところが――。
あと百メートルというところで、激しいぶつかり合いによってイタリアの選手が転倒し、ジャスティンとベルギーの選手が巻きこまれた。
ガシャーン。すさまじい音がした。
「ジャスティン!」セシリアの顔から血の気が引いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます