15. さよなら、すてきな日々をありがとう

〝ふしだら〟というバドゥルの言葉に、セシリアは真っ青になった。

「だったらどうぞ、アラブの女性とご結婚なさればいいわ」頬に涙がひと粒こぼれ落ちた。「ええ、私は西洋の女よ。男性に身を預けるかどうかも、結婚するかどうかも、自分の意志で決めるわ。だけど、ふしだらなんかじゃない」

 バドゥルが一瞬目を伏せて、唇を固く結んだ。「少し言いすぎた。今の言葉は取り消そう。確かに、君にとっては急すぎる話かもしれない。とりあえずは婚約という形にして、少し待ってもいい」

「来年の七月……ツールが終わるまで?」

「いや、さすがにそこまでは待てない。父上のお体が……」バドゥルが言葉を切った。

「国王がどうかなさったの?」

「いや……春までだ。四月までに自分の代わりを任せられる人を見つけて、チームの人たちともよく話し合って……」

「無理だわ」セシリアは目に涙をあふれさせた。「来年のツールに出場できるかどうかが決まるまで、私はマネージャーを辞めない。そしてもし出場を逃したら、再来年も挑戦するわ。それまで待ってほしいなんて、私にはとても言えない。ごめんなさい」

 バドゥルが信じられないという顔で言った。「何があろうと、私よりツールを選ぶのか」

「そうよ」

「君はどうかしている」

「そう思われてもしかたないわね。あした、ジャスティンとふたりで帰国します。そろそろ次のレースの準備をしなくてはならないから」

 バドゥルはぐっとセシリアをにらみつけてから、無言で部屋を出ると、静かに扉を閉めた。


 翌日、セシリアとジャスティンは帰国の途についた。宮殿のリムジンに荷物が積まれ、バドゥルが正面玄関の外でふたりを見送った。

 皇太子がジャスティンと固く握手を交わして言った。「君なら必ず〈ツール・ド・フランス〉出場を果たせると信じているよ、ジャスティン。がんばってくれ」

「ありがとう、バドゥル。来年また、〈ナビール・カップ〉にもぜひ呼んでくれ」

「ああ」バドゥルが静かな笑みを浮かべて言った。「セシリアも元気で。マアッサラーマ」

「マアッサラーマ、皇太子殿下。すてきな日々をありがとうございました」セシリアは、どうにか口もとに笑みらしきものを浮かべて言った。

 バドゥルは丁重にうなずいたが、その目が冷たい光を帯びているのをセシリアは見逃さなかった。バドゥルは私を許していない。あたりまえだけれど……。

 ふたりが乗りこんだリムジンが出発した。中庭をぐるりと回り、長い私道をゆっくり走る。セシリアは後ろを振り返った。じっとその場に立つバドゥルの姿が小さくなっていき、門を抜けると同時に見えなくなった。

 セシリアは、兄に顔を見られないように、ずっと窓のほうを向いていた。立ち並ぶビルと遠くに見える砂丘が涙でぼやけた。

 ほんの半月ほど前、この砂漠の国にやってきたときは、レースのことだけを考えていた。それが今はどうだろう。頭に浮かぶのはバドゥルのことばかり。黒曜石のような瞳に浮かぶ挑戦的なまなざし、漆黒の髪、端整な横顔。焼けつくような口づけと、重ねた肌のなめらかさと力強さ。

 あの一夜は、夢だったとしか思えない。エキゾチックなお祭りの高揚感に包まれながら、美しい部屋で力強い腕に抱かれ、激しく巧みな愛撫に何もかも忘れて自分を解放した。

 そう、あれは熱に浮かされた一夜の夢だったのよ。胸の奥に秘めて、一生の宝にすればいい。でも……。

「……遠征先の国から帰りたくないと思うのは、初めての経験だな」ジャスティンがぽつりと言った。

 セシリアは、はっとして兄のほうを見た。窓の外を見るジャスティンの顔は、憂いに沈んでいた。

 セシリアはふと、祭りの夜を思い出した。明け方、バドゥルの部屋からそっと自分の部屋へ戻るとき、母屋の玄関に近づいてくる男女の姿を見かけたのだ。ひと晩じゅう踊り明かして首長の家に戻ってきたハミダとジャスティンだった。ふたりはじっと見つめ合っていて、セシリアにはまったく気づかなかった。

 もしかして、兄さんも……?

 私たちは、砂漠の夢にとらわれてしまった兄妹なのかしら。セシリアはふっと口もとをゆるめた。

 空港は、もう目の前に迫っていた。


 三月後半からは、UCIヨーロッパツアーのロードレースが毎週のように続き、〈チーム・バーリー〉は順調にポイントを重ねていった。トレーニング、自転車の整備、ヨーロッパ各地への遠征、レース参加、帰国してまたトレーニング。

 ジャスティンはかれたようにレースに没頭し、目を見張るほどの活躍をした。出場したレースのほとんどでステージ優勝し、峠の頂上をトップで通過した選手に与えられる山岳賞も七月までに三度受賞した。腰に長年の痛みを抱えているとはいえ、体調もほぼ万全だった。

 セシリアも、兄とチームのがんばりに応えようと努力した。今ではレースに出場するたびに、重要なメカニックの仕事を任されるようになった。ヨーロッパ各国では〈チーム・バーリー〉の〝メカニック・ガール〟としてちょっとした有名人になり、マスコミの取材を受けることも増えた。女だからと特別な目で見られるのはあまりうれしくなかったが、セシリアはチームの宣伝になることを考えて、積極的に応じていた。

 ときどき、中東の小さな国をふと思い出しては泣きたい気持ちになったが、泣いている暇はなかった。忙しいのはセシリアにとってよいことだった。

 そしてとうとう、十月になった。あと一戦でシーズンは終了。ジャスティンは、ベルギー〈コルデール〉のロドリゴがすぐ後ろに迫ってはいるものの、プロコンチネンタルチームの年間チャンピオンに王手をかけていた。セカンドエースのアダムは四位、ほかの選手たちもかなりいい位置にいる。チームがワイルドカード枠で来年のツールに出場できる可能性が、いよいよ高くなってきた。

 三日後の最終レースに備え、〈チーム・バーリー〉はあすパリへ向かう予定だった。きょうは完全オフだ。セシリアは午前十時に眠い目をこすりながら、マクレーン家の屋敷の食堂へ下りていった。両親とジャスティンはすでに席に着いていた。

「おはよう、セシリア」母が声をかけた。「ずいぶん疲れているみたいね。あしたからまたパリだなんて、体はだいじょうぶ?」

「ええ、今シーズンの締めくくりだもの。最後までがんばらなくちゃ。それに、疲れてるのは私じゃなくて兄さんのほうよ」

「僕は体調万全さ」ジャスティンが明るく答えた。「きっと最後のレースを優勝で締めくくってみせるよ」

「応援しているわ」母が言った。「これが終われば、ようやくセシリアの生活も落ち着くわね」

「まだまだよ」セシリアは運ばれてきたスクランブルエッグとベーコンをフォークでつつきながら言った。「来年はいよいよあこがれの〈ツール・ド・フランス〉の舞台に立てるかもしれないんだもの。出場チームにふさわしい成績を残せなくてはなんの意味もないわ」

 父と母が顔を見合わせた。母がため息をついてから言った。「あなたももう、二十五歳でしょう。そろそろ結婚のことを真剣に考えなさい」

 そらきた、とセシリアは心のなかでつぶやいた。シーズンが終わるたびに、両親はその話を持ち出す。今回は少し早めの打診だ。

「ツール出場までは、好きにさせてくれる約束だったでしょう」

 母が言った。「ええ、マネージャーの仕事は続ければいいわ。でも、先に結婚なさい。仕事をどうするかは、夫と話し合って」

 セシリアは目を丸くした。両親は新しい作戦を思いついたらしい。

「きょうの晩餐に、スタンリーを招待したのよ」母がたたみかけた。「私とダグはクリスマスに結婚式を挙げるのがいいと思うんだけど」と父のほうをちらりと見て続ける。「日程はあなたたちに……」

「クリスマスって……あと二カ月しかないじゃない!」セシリアは叫んだ。「冗談じゃないわ。だいたい、スタンリーは私にプロポーズすらしてないのよ」

 子爵である父ダグラスが、落ち着いた声で言った。「それについては、今夜スタンリーから正式な申し込みがあるかもしれないな」

「そうそう」母が浮き浮きと言った。「オリーヴ色のドレスがいいわ。用意させておきましょう」

「ちょっと、勝手に話を進めないで!」セシリアは息巻いた。

「結婚といえば」父が何食わぬ顔で新聞を差し出した。「おまえたちが世話になったナビールの皇太子も、近々婚約されるそうだぞ」

「えっ」セシリアは息をのんだ。

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