13. 「君は私のものだ」

「眠れないのか?」背後から不意に、低く穏やかな声がした。

 はっとして振り返ると、そこには皇太子が、あの優しい笑みを浮かべて立っていた。グトラを外して髪を風になびかせている。とても私的な姿を見てしまった気がして、セシリアの胸がどきりと音を立てた。

「ええ、あまりにも楽しくて、興奮しすぎてしまったみたい」セシリアは答えた。

「私もだ」バドゥルが言って、セシリアをじっと見つめた。吸いこまれてしまいそうな黒い瞳。「少し話をしたい気分だ。私の部屋へ来ないか?」

「えっ」部屋へ? セシリアはためらった。

 バドゥルがダンスに誘ったときと同じように、手を差し出した。セシリアは、震える手をその手にのせた。断ることはできなかった。

 バドゥルが静かに、王族用の特別室へセシリアを導いた。広々とした豪華な部屋だった。中央に置かれた天蓋つきの大きなベッドは、みごとなベージュのレースのカーテンで覆われている。一方の端にどっしりした座り心地のよさそうなソファーがあり、バドゥルはそこにセシリアを座らせて、自分もとなりに腰かけた。

「砂漠の村が気に入ったか?」バドゥルがきいた。

「ええ、とっても」セシリアは答えた。「ごちそうを食べて、音楽を奏でて、ひと晩じゅう踊る。とてもシンプルなお祭りね。イギリスから来た私には、とても新鮮に感じられるわ」

「村人の暮らしはとてもシンプルだ。ラクダと山羊と羊を育て、作物を育て、食べて眠り、ときどき踊る」

「でも、豊かな恵みへの感謝と喜びに満ちているわ」

「こんな暮らしを送ってみたいと思うかい?」

 セシリアは少し考えてから答えた。「生活をしていくというのは、また別の話よ。私は自分の生活を愛しているもの。身軽な服装で世界を旅して、男女関係なく教育を受けて、自分の望む仕事に就いて、オフのときにはおしゃれやショッピングを楽しんで……。インターネットや携帯電話も絶対に手放せないわ」

「君のように、とまでは言わない」バドゥルが賞賛するような目を向けながら言った。「だが、ナビールの女性たちのなかからも、国際的な仕事に就くような者がたくさん出てくるようになってほしい。女性の進学率は年々高くなっているが、就業率は低いままだ。こんなことを考える私は、〝革新的すぎる〟のか? いつもまわりからそう言われているが」

 セシリアは、じっとバドゥルの目を見て答えた。「いいえ。すばらしい考えだと思うわ」

「砂漠の民にも、同じ恩恵を受けさせてやりたい。子どもたちの負担を減らして、学校で学ぶ時間を増やしてやりたい。この村では、まだインターネットも使えないんだ。道路の整備や下水道設備も不完全だ。リゾート施設の建設は、そういう進歩を一気に加速させるきっかけになる。反発もあることは予想していたが、私はみなに納得してもらいたい」

「便利な生活の恩恵を受けている私が、村の素朴な暮らしを守ってほしいと言うのはずるいわね」セシリアは言った。「でも、外から来た自分だからこそ見えるものもあるような気がするの」

「たとえば?」

「レースでいろいろな国を回って思ったのだけど」セシリアは言った。「高級なリゾートホテルなら、世界じゅうにあるわ。ヨーロッパにも、アメリカにも、アジアにも。そして立派な施設は、どこもよく似ているの。忙しくしていると、今自分がどこの国にいるのかわからなくなるくらいよ。最近では、アラブの大きな国にもそういうホテルができたと聞いたわ」

「そうだ。だからこそ、この国も負けてはいられない。後れを取ってはならないんだ」

「でも、外からここを訪ねてくる人は、もっと別のものを求めているんじゃないかしら」

「別のもの?」

「少なくとも、私はそうだわ。外国へ行くなら、その国のほんとうの姿を少しでも感じてみたい。自分に合うかどうかはわからないけれど、その国らしさを味わってみたいと思うの。だから、きょう村の生活を見て、お祭りに参加できたのは、とても貴重な経験になったわ。二度と忘れられない経験に」

「私にとっても、きょうの祭りは忘れられない経験だ」

「でも、子どものころからよくいらしてたんでしょう?」

「きょうが特別だったのは、君がいたからさ、セシリア」バドゥルが煙るようなまなざしでセシリアを見つめた。「君が踊る姿は、この世の何よりも美しかった。砂漠の夕焼けよりも。空に浮かぶ満月よりも」

「バドゥル……」

 バドゥルがセシリアの背中に腕を回して、そっと抱き寄せ、唇と唇を重ねた。セシリアの背筋に電流が走り、全身がかっと熱くなった。何も考えられなくなり、いつの間にかバドゥルのたくましい背中に両腕を巻きつけていた。優しいキスが徐々に激しくなる。セシリアが思わず吐息を漏らすと、バドゥルが舌を絡めてきた。しびれるような快感に打たれて、精いっぱい熱い気持ちを返す。

 バドゥルが抱き締める腕の力を強め、ソファーの上にセシリアを押し倒した。唇を重ねたままローブを開き、ナイトドレスの上から大きな手で片方の胸を包みこむ。それからキスを首のほうへ進めた。

「ああっ」セシリアは思わず声をあげた。

 バドゥルが目を上げ、セシリアの顔をのぞきこんだ。「今夜、私のものになってほしい」真剣な口調で言う。「いやなら首を振ってくれ。部屋まで送ろう。応じてくれるなら」少し間を置いて続ける。「一度だけうなずいてくれ」

 セシリアは、バドゥルの目をまっすぐのぞいた。そこには真摯しんしな情熱があった。ゆっくりとうなずく。バドゥルの手を取ってこの部屋に足を踏み入れたとき、もう心は決まっていたのだと気づいた。

 バドゥルが黒い目を輝かせ、ふたたび唇を奪った。それからセシリアを体ごと抱き上げ、ベッドまで運んだ。柔らかなマットレスの上に寝かせ、覆いかぶさる。

 力強いキスをされ、セシリアは夢中でキスを返した。バドゥルがナイトドレスのひもをすばやく引っぱり、胸のふくらみをあらわにした。崇めるようにじっくり見つめてから、両手でゆっくり愛撫し始める。唇があとに続いた。セシリアは、あまりの快感に背中を反らしてあえいだ。

 ナイトドレスを脱がされ、一糸まとわぬ姿になった。「この世にこんな美しいものが存在するとは、信じられないほどだ」バドゥルがささやくように言った。

「あなたの体も見せて」セシリアは頬を熱くしながら言った。

 バドゥルがカンドゥーラを脱ぎ捨てた。その体はブロンズ色に焼けてたくましく、しなやかな筋肉が波打つかのようだった。「あなたこそ、美しいわ」

 肌と肌が触れ合うと、心地よさと幸福感があふれそうになった。バドゥルがゆっくりと、セシリアの全身にキスを浴びせていった。

 バドゥルの熱いものを体の奥で受け止めたとき、セシリアは満天の星がきらきらと自分のまわりに降り注ぐのを見た気がした。


 三日後、バドゥルは宮殿の会議室に砂漠の部族、山の部族の要人を集めて会議を開いた。ナビール側からも、内務大臣のターリク王子と補佐官のジャファルを始め、主要な省庁のトップが出席した。落ち着いた色のビシュトをまとい、白いグトラをかぶった男性たちが、会議室のテーブルをぐるりと取り囲んでいる。

「みなさん、急な呼びかけに応じていただきありがとう」バドゥルは挨拶した。「きょうお集まりいただいたのは、アタウッラ村近くに建設予定のリゾート施設の計画変更についてお知らせするためだ」

 会場がどよめいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る