05. 月夜のオアシスで

 丸い太陽が地平線の向こうに少しずつ姿を消していき、あたり一面がオレンジ色に染まった。そんな場合ではないのに、セシリアは、砂の波をくっきりと際立たせる光の美しさに息をのんだ。

 そのあいだも歩き続けていたが、やはり車は見えなかった。太陽が沈みきると、地平線はオレンジから徐々に濃い赤へと色を変え、闇が降りてきた。急激に気温が下がるのが、肌で感じられた。

 これ以上進むのは危険だ。

 セシリアは、少しでも風をよけられるよう、ちょうどぽつりと一本だけ生えていた低木のわきに腰を下ろした。

 ここで夜明けまでなんとかしのぐことにしよう。だいじょうぶ。水は残り少ないけれど、選手用の補給食のゼリーがあと二パックある。

 セシリアは毛布をしっかり体に巻きつけた。だいぶ寒くなってきたけれど、凍え死にすることはないだろう。ぼんやり座っていると、いろいろな思いが頭を駆けめぐった。

 ジャスティンは無事に救助されただろうか。怪我をしていないといいけれど。こんなことにはなったが、アダムがチームを勝利に導いてくれた。一月に続いて二連勝。ジャスティンは強靱な精神力の持ち主だから、きっとすぐに復活する。ツールへの夢が、兄を支えてくれる。絶対に、だいじょうぶ。

『ジャスティンは私の大切な友人だ。私に任せてくれ』と言った皇太子の姿を思い浮かべた。そのとおりにするべきだった。でも、『女は足手まといだ』という言葉にかっとなってしまったのだ。

 あの冷たい目と高圧的な態度。初めて会ったときにからかうようなまなざしと微笑みを浮かべていた人と、同一人物とは思えなかった。ああいう人は、相手を自分のペースに巻きこんで、簡単に思いどおりにできると考えているに違いない。そう思うと、つい反発したくなる。それに、あの吸いこまれそうな黒い瞳。じっと見つめられると、自分がとらわれの身になったかのような錯覚を起こして、不安になる……。

 東の空から、大きな丸い月が姿を現した。地平線から月がのぼるところを見るのは初めてだった。なんて美しいのだろう。ぼんやりそちらを眺めていると、きらりと何かが光った気がした。

 ほどなく、月を背に、馬に乗った人の黒い影が徐々に大きく見えてきた。手にした懐中電灯の明かりがちらちらと揺れている。

 セシリアはさっと立ち上がった。バドゥル? 助けにきてくれたの? 駆け寄ろうとして、ふと思いとどまった。待って。もし砂漠の盗賊とかだったら? 急いで荷物から工具箱を出し、レンチを手に取る。

 懐中電灯の明かりを向けられ、セシリアは思わず目をしばたたいた。

「なるほど、それが護身用のレンチか」聞き覚えのある落ち着いた声が言った。

 セシリアはほっと息を吐いた。

 ゆっくり近づいてきた馬から、乗り手がひらりと飛び降りた。バドゥルだ。

「だが、そんな武器では盗賊とは戦えないぞ。もっとも、こんなひとけのない場所に盗賊はめったに現れないが」

 セシリアは、レンチを握り締めたままバドゥルに駆け寄った。「兄は、ジャスティンは無事なの?」

 皇太子があきれたようにため息をついた。「ジャスティンは、砂漠の民に保護された。迎えに行こうとしたら、君の車が砂漠に乗り捨てられているのが見つかった。まったく……兄を捜しにいって、自分が行方不明になってどうする?」

「ごめんなさい。でも、私、兄が心配で……」セシリアは小声で言った。

「任せろと言ったはずだ。私が信用できなかったのか?」バドゥルが語気を強めて言った。「そんな格好で、ひとりで砂漠をうろついて、兄を助けられるとでも思ったのか? 砂漠では、夜には零度近くまで気温が下がることもある。自分の身さえ守れやしないぞ」

 セシリアはむっとした。「あなたがさっさと行ってしまわなければ、こんなことにはならなかったわ。私は足手まといになんかならない。乗馬だって得意よ」

「現に今、足手まといになっているだろう。本来なら、とっくに砂漠の民の村に着いて、ジャスティンを連れて帰れたんだ」

「だったら、私のことなど放っておいて、砂漠の村に行けばよかったでしょう!」セシリアはどなった。

 バドゥルがぎらぎらした目でこちらをにらんでから、いきなりセシリアの体を抱き上げた。

「何するのよ!」セシリアは叫んだが、まるで子どものように軽々と馬の背に乗せられてしまった。

 バドゥルがすばやく後ろに乗った。「ここから砂漠の村は遠すぎる。今夜は近くのオアシスで休む」抑えた声で言う。セシリアが身をくねらせて振り返り、きっとにらむと、さらに言った。「それとも、砂漠のまんなかで凍え死にしたいのか?」

 セシリアの背中がぞくりとした。皇太子の言葉には、口答えを許さない何かがあった。黙って向き直ると、バドゥルが馬の手綱をひゅっと鳴らして、少しも迷うことなく、馬を先へ進めた。


 二十分ほどで、数本の椰子の木に囲まれた小さな水辺に着いた。バドゥルはセシリアを抱き下ろし、馬を木につないだ。水辺に敷物を敷いてセシリアを座らせてから、小さな火をおこす。

 強引に馬に乗せてからここに着くまで、セシリアはひとことも口を利かず、今もじっと座って泉を見つめていた。まったく、なんて強情な女だろう。イギリス、いやスコットランドの女はみんなこうなのか? 十代から二十代前半にはトライアスロン競技のためにヨーロッパの国々をあちこち訪れたが、近づいてくる女性にこんなタイプはひとりもいなかった。それに、みんな私という人間ではなく皇太子という身分を見ていた。そのことに気づいてからは、外国人であれナビール人であれ、女性とは距離を置いてつき合い、二十代後半からは国の政治のほうに力を入れるようになったのだ。

 バドゥルはセシリアの横顔を眺めた。ほどかれて乱れた巻き毛がたき火の明かりに照らされ、炎のような色に輝いている。くっきりと浮かび上がる白い横顔は整っていて、まっすぐな鼻筋と形のよいピンク色の唇には女らしさとあどけなさが同居していた。そしてなにより美しいのはエメラルド色の目だ。瞳のなかで、揺れる炎の不思議な影が踊っていた。

 バドゥルは麻袋からピタパンを取り出してたき火で軽くあぶり、ナイフで切った羊のチーズと水のボトルとともに、セシリアに差し出した。「ほら、食べろ」

 セシリアがこちらを見ずに、さっと横を向いた。「いりません」

「強情を張るな。お腹が減っただろう」

「食べ物なら持ってますから」

「いいから食べるんだ」バドゥルは無理やりセシリアの手に食べ物を押しつけた。

 セシリアは非難をこめた目でこちらを見たが、何も言い返さず、食べ物を手に取った。ゆっくりとピタパンを口に運ぶのを見てから、バドゥルは馬のところへ行った。手綱を解いて水辺まで導き、草を食べさせてたっぷり水を飲ませる。それから椰子の木につなぎ直して、たき火のほうへ戻った。はっと立ち止まる。

 セシリアの美しい目から涙があふれ、頬を伝い落ちていた。離れたところからでも、たき火と満月の明かりでその顔はよく見えた。こちらの気配に気づき、急いで頬をぬぐう。

 バドゥルは歩み寄ってとなりに腰を下ろし、静かな声で言った。「さっきは、どなってすまなかった。お兄さんが行方不明になって、居ても立ってもいられなくなるのは当然だ。私の配慮が足りなかった」

 セシリアはしばらくのあいだ黙っていたが、やがてうつむいたまま言った。「私のほうこそ、ごめんなさい。わざわざ助けにきてくださったのに、ひどい態度で……ジャスティンが待っているのに……足手まといになってしまって」

「そんなことはないさ」バドゥルは片腕をそっとセシリアの背中に回した。

 セシリアがこちらに顔を向け、目に涙をためて言った。「ジャスティンは……無事なのよね? 怪我はしていないのね?」

「ああ、だいじょうぶだ」使者からの知らせにはジャスティンの健康状態は含まれていなかったのだが、バドゥルはセシリアを安心させようとした。「夜が明けたら、すぐに砂漠の民の村へ向かうことにしよう。ジャスティンにはすぐに会える。心配するな」

 セシリアがほっとした表情を浮かべてから、体が密着していることにようやく気づいたかのように頬を赤らめた。「つ、月が……」

「月?」

 セシリアが空を見上げた。「こんなにくっきりした大きな満月、初めて見ました」

「そうか? イギリスとは大きさが違うか?」バドゥルは微笑んで言った。

「ロンドンには建物が多すぎて、地平線からのぼる月なんて見たことなかったんだもの」

「砂漠の空に浮かぶ満月ほど美しいものはないと思っていた……今までは」バドゥルはセシリアの目をじっと見つめた。

「えっ」セシリアが長い金褐色のまつげをしばたたいた。

「私の名前、バドゥルは、アラビア語で〝満月〟という意味なんだ」バドゥルは優しい声で言って、さらにセシリアを引き寄せた。

「バドゥル……」セシリアが意味と響きを確かめるかのようにつぶやいた瞬間、バドゥルはセシリアの唇に自分の唇を重ねていた。

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