06. 砂漠の村へ

 セシリアは澄んだ泉の水で顔を洗い、持っていたタオルでぬぐった。空気はひんやりと冷たかったが、昼間の暑さのせいか、水はほんのり温かかった。

 東の空が次第に明るくなり、オレンジ色の太陽が顔を出した。遠くの山々の稜線と、砂丘のゆるやかな起伏がしだいにはっきりしてきた。幾筋かの藍色の雲が、地平線近くにたなびいている。圧倒されるほどの、美しい夜明け。それでも、満月の夜の神々しさにはかなわないかもしれない。

 満月。バドゥル。

 セシリアは、静かな水面に映った自分の顔を見つめた。輝く満月の下で交わした口づけ。バドゥルの唇が触れた瞬間、体ごと熱い波にさらわれていく気がした。短く優しいキスだったけれど、唇には永遠のしるしが刻まれたかのようだった。

 あれはもしかして、夢だったの? だって、そのあとのことをよく憶えていない。確かバドゥルが「あしたは早いから、もうお休み」と言って、たき火のそばに敷物を広げ、暖かい毛布を……。

「もう起きたんだな。よく眠れたか?」

 後ろから突然話しかけられて、心臓が飛び出しそうになった。泉の反対側で馬に水を飲ませていたバドゥルが、いつの間にかこちら側に戻ってきていた。

「え、ええ」セシリアは振り返って皇太子の姿を眺めた。真っ白なカンドゥーラとゆったりした青いビシュトをまとっていても、その堂々とした肩幅と胸板の厚さはすぐに見て取れた。漆黒の髪を覆う白いグトラが風になびき、二重に巻かれたイガールと呼ばれる金のひもが朝日に輝いていた。この国を治める王の息子にふさわしい、堂々たる姿。それでも今、黒い目は優しいまなざしをこちらに注ぎ、形のよい魅惑的な唇は……。

「チャイを煎れたから、飲んだらすぐに出発しよう」

「はい」セシリアはあわててバドゥルの唇から視線を外し、立ち上がった。

 熱くて甘いお茶を飲み終わると、バドゥルが荷物をまとめ、セシリアを馬にまたがらせてから、自分もすばやく後ろに乗った。太陽がのぼり、すでに気温が急速に上がり始めていた。セシリアは、バドゥルが用意した色鮮やかな絹織物を頭からかぶっていた。チームカーに積んであった毛布より大きいので、どうにか日よけの代わりになるだろう。

 バドゥルが手綱を取り、馬をゆっくり走らせた。たくましい胸の温もりが背中に伝わってくる。セシリアは心臓がどきどきするのを感じ、なるべく体の接触を避けようと背筋を伸ばした。

「ふむ。確かに君は乗馬が得意なようだ。とても姿勢がいい」バドゥルがからかうような口調で言った。

「馬には五歳のころから乗ってるわ」セシリアはできるだけ冷静な声で答えた。「今でも、自転車と同じくらい好きよ」

「自転車にも五歳から乗っているのか?」

「ええ。五つ年上のジャスティンに置いていかれないように、三歳で三輪車は卒業して、五歳になる前に補助輪は外していたわ。六歳のとき、ようやくジャスティンと同じスポーツバイクを買ってもらったの」

「いやはや、驚いたな。六歳で兄と張り合っていたのか」

「もちろん、ジャスティンは相手にしてなかったけど、気が向くといっしょに走ってくれたわ」

「君なら選手にもなれたんじゃないか? 女子にも世界選手権やワールドカップがあるだろう?」バドゥルが興味深そうに尋ねた。

 セシリアは少し間を置いてから答えた。「十代のころは、選手になりたかったわ。両親には猛反対されたけれど……」

「それであきらめた?」

「……というより、自分には、選手としてやっていく覚悟がないとわかったの。でも、自転車競技が大好きだから、ずっと関わっていたくて、プロコンチネンタルチームのアシスタントになったのよ」

「なるほど。しかし、チームカーに乗りこんでメカニックまで務める女性は見たことがなかったな。ヨーロッパでは増えているのか?」

「何人かはいるけど、それほど増えてはいないみたい。やっぱり男の世界ですもの。頭の固い人は多いわ。メカニックどころか、アシスタントさえ女に務まるはずはないって、いろいろな人に散々言われたのよ。両親も、選手になったのとたいして変わらないみたいに反対していて、いつやめるんだ、ってそればっかり……」セシリアはため息をついた。

「それでも続けるのはなぜだい? ジャスティンのため? 兄さん思いなんだな」バドゥルがほんの少し皮肉っぽい調子で言った。

「兄の活躍を見たいという気持ちはもちろんあるけれど、ロードレースはチーム競技よ。そして私はチームの一員なの。〈チーム・バーリー〉として〈ツール・ド・フランス〉に出場すること。その夢をかなえるまでは、この仕事を続けるわ」

 太陽の位置がかなり高くなって、じりじりと暑さが増してきた。砂漠はどこまでも続くように思えた。いくつもの砂丘を上っては下った。硬い小石が散らばっている場所もあれば、あちこちに草や低木が生えている場所もあった。なんの目印もないように思えるのに、バドゥルは迷うことなく馬を進めた。ときどき休憩しながら三時間ほど走ったところで、バドゥルが言った。「この砂丘を越えれば、アタウッラ村が見えるぞ」

 馬が砂丘を上りきると、不意に眼下に椰子の木が生い茂る大きな泉が見えた。泉の右側には農地や放牧地が広がり、左側にはわらぶき屋根の円形の家がいくつも並んでいた。道も整備され、人や自転車や荷車が動き回っている。その向こうにはさらに広大な羊やラクダの放牧地が広がっていた。

「うわあ、すごいわ。大きな村なのね」セシリアは思わず感嘆の声をあげた。

「美しいだろう」バドゥルが言った。「わが国でも最大のオアシスで、アタウッラ村には三千人ほどが暮らしている」

「すてきね。ヨーロッパには砂漠のオアシスにあこがれる人がたくさんいるわ。知る人ぞ知る観光スポットになるかも」

「さすがだな。じつは、ここにリゾート施設をつくる計画がある」

「まあ……そうなの」〝リゾート施設〟という言葉はこの村にはそぐわないような気がしたが、余計なことを言うのはやめておいた。「自転車も使われているのね」

「日本や中国から中古の自転車を輸入しているんだ。砂漠では使えないが、村のなかでの移動や放牧地との往復に役立っている。村人は頑として自動車は使わないからな」

 ふたりは丘陵を下り、村の外れまでやってきた。ようやくジャスティンに会える。セシリアはほっとした。


 バドゥルは巧みに手綱を操り、すばやく砂丘を下りきった。北側には放牧地が広がり、遠くに羊やラクダの群れと、半遊牧生活を送るベドウィンたちのテントが点在していた。放牧地のへりを走っていくと、アタウッラ村まであと一キロほどのところに小さな人影がうずくまっているのが見えた。

 七、八歳くらいの少女だ。そばには大きな荷物を積んだ自転車が倒れていた。少女は座りこんでしくしく泣いていた。

 バドゥルは手綱を引いたが、馬を完全に止める前に、セシリアが飛び降りた。

「どうしたの? だいじょうぶ?」少女に駆け寄る。

 セシリアに気づいた少女は目を丸くして、驚きのあまり涙が止まってしまったようだった。西洋の女性など、これまで見たことがなかったのだろう。

 バドゥルは少女に歩み寄ってかがみこみ、アラビア語で話しかけた。「自転車がどうかしたのか?」

 少女がセシリアから視線を外してこちらを見た。「はい、首都のかた。お使いから帰ってきたら、急に自転車が動かなくなって、倒れちゃったんです」またべそをかき始める。

 砂漠の民は、平野に住む部族のことを〝首都の人〟と呼ぶ。服装を見れば、それは一目瞭然だった。少女もバドゥルの姿を見て首都の身分の高い人間であることには気づいたようだが、まさか皇太子だとは思っていないようだ。

「砂漠の娘、名は何という?」

「サナです」

 アラビア語のわからないセシリアが、問いかけるようにこちらを見た。

「使いの帰りに自転車が壊れてしまったそうだ」バドゥルは英語で説明してから、サナに向かって言った。「私が荷物を村まで運んでやろう。自転車は引いて帰れるか?」

「は、はい。ありがとうございます、首都のかた」

 バドゥルはセシリアに言った。「荷物だけ、馬に乗せるぞ」

 しかしセシリアはバドゥルには耳も貸さずに、サナの自転車をじっくり見ていた。「ああ、チェーンが切れたのね。ちょっと待って。直してあげるから」そう言って、荷物からすばやく工具を取り出す。

 サナがぽかんとした顔でその様子を眺めてから、助けを求めるようにバドゥルに目を向けた。

「こちらのご婦人が、自転車を直してくれるそうだ」バドゥルは少女を不安にさせないよう、落ち着いた口調で言った。

 サナがまた目を丸くして、セシリアをじっと見つめた。

 セシリアは、すっかり修理に集中しているようだった。絡んだチェーンをいったん外し、手際よく巻き直してから、工具箱から部品を取り出し、切れた部分をつなぐ。五分ほどで作業は終わった。「よし」セシリアは満足げに言ったあと、全体を点検した。「ブレーキが甘いわね」そう言って、前輪と後輪両方のブレーキワイヤーを調整し、ナットで締め直す。「さあ、これでいいわ」セシリアがサナに向かってにっこりして言った。「この自転車は、あなたには少し大きいわね。サドルをできるだけ下げてはおいたけど」

 何を言われているのかはわからないようだったが、サナはぱっと顔を明るくして言った。「ありがとうございます、西洋のかた」

「さすが、手早いな。みごとなものだ」バドゥルは感心して言った。

 セシリアが少しだけ得意そうに微笑んで応じた。「レース中の修理は時間との勝負ですもの。手早くできなければメカニック失格よ。じつを言うと、まだめったにレース中はやらせてもらえないのだけど……」

「きのうのレースでは?」

「二度やったわ」

「そして、チームを優勝に導いた。たいしたものだよ」

 セシリアが顔を赤らめた。ほんとうにたいしたものだ。西欧での女性の活躍を知らないわけではなかったが、実際にこんなことをやってのける女性を見たのは初めてだった。

 馬に積んだ荷物をサナが下ろそうとしていることに気づき、バドゥルは急いで駆け寄った。「かなり重いが、だいじょうぶか? 村まで運んでやってもいいぞ」

「いいんです。いつもやってます。自分で運ばないと母さんにしかられます」

「そうか」バドゥルは、ずっしりと重い麻袋を自転車の荷台にくくりつけるのを手伝ってやった。

 サナは上機嫌でふたたび自転車にまたがり、馬で先へ行くふたりに手を振った。 セシリアがバドゥルの胸に軽くもたれるようにして振り返り、だんだん小さくなるサナの姿を目で追った。「砂漠の子どもたちは、あんなに小さいうちからしっかり家の手伝いをしているのね」

「ああ、砂漠の民はみんな働き者だ」

 赤みがかった金色の髪が、風になびいてバドゥルの頬をくすぐった。ジャスミンのような、心地よい香りがする。思わず、しなやかな体をぐっと引き寄せた。セシリアははっと身をこわばらせたが、背筋を伸ばそうとはせず、そのままバドゥルの胸にもたれかかっていた。

 昨夜触れた唇のしっとりとした柔らかさを思い出す。バドゥルは思わず体が熱くなるのを感じた。

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