6話:お互いに恋愛感情が無いからこそ

 ようやく煩わしい夏が過ぎて秋がやってきた頃、晴姉から産まれたとの連絡があった。それから数日後、父の運転する車に拾われて、生まれた子供に会うために病院へ向かった。

 病室に入ると、ベッドの上で晴姉が赤子を抱いていた。晴姉の夫によく似た顔の赤子だ。


「可愛いー!女の子?男の子?」


「女の子」


「名前は?」


かなで。字は演奏の


「意外と普通」


 候補の段階ではいわゆるキラキラネームばかりだった。愛と書いてラブとか、白雪とかいてスノウとか、泡姫と書いてアキとか、紅宝と書いてルビイとか、月姫と書いてカグヤとか。

 真面目に考えろと言いたくなるが、本人はいたって真面目だった。いわゆるマタニティハイというやつだろうか。恐ろしい。

 ちなみに、泡姫に関しては人魚姫をイメージしたらしいのだが、風俗嬢の隠語でもあるらしく、夫に却下されていた。どちらにせよ、人魚姫の結末を考えると縁起が悪すぎる。


「やっぱりシンプルイズザベストかなと思って。旦那が音楽関係者だから、音楽に関係する名前にしようってことで奏」


「シンプルでいいと思う」


 奏に指を近づける。小さな手に触れると、きゅっと指が閉じた。小さな手に人差し指が捕まってしまった。可愛くてたまらなくて、なんとも言えない気持ちになる。


「可愛いわね」


「小さい頃の晴そっくりだな」


「えー。どっちかっていうと旦那に似てない?」


「私もそう思う」


 幸せな空気が流れる中、私は少し複雑だった。次は私の番だと、いつ言われるのか気が気ではなくて。幸い、そこでは言われなかったけれど、病室を出て車に乗り込むと母が言った。「蒼も早く良い人見つけなさい」と。


「いいの。私は一人が好きだから」


「またそんな強がり言って」


「まぁまぁ母さん、蒼もまだ二十歳なんだしそのうち出来るさ」


 私を庇う父。庇っているつもりなのだろうけど、そのうちということは結局、恋愛をしない生きた方自体は認めてはいないということだろう。ため息が漏れる。


「お父さん、それ、何歳まで言ってくれる?30過ぎても、40過ぎても、50過ぎても同じこと言ってくれる?」


「40は……流石に……」


「あなた、本当に一生結婚しないつもり?」


「私には恋愛をしない生き方が向いていると思うの。生涯を共にするパートナーが居たら良いなとは思う。けど、無理して作る必要はないと思う。だから、私に恋愛を押し付けないで」


「押し付けてなんか——「押し付けてるじゃない!お母さんも、お父さんも。当たり前のように私がいつか結婚するって思ってるでしょう!?私は望んでないってずっと言ってるのに聞いちゃいない!」


 つい声を荒げてしまった。父も母も黙り込んでしまう。


「……怒鳴ってごめんなさい。——私ね、アロマンティック・アセクシャルなの」


「アセ……?」


「……なんだそれは」


「他者に対して恋愛感情や性的な欲求を抱かない人のことよ」


「……そういう病気なのか?」


じゃないわ。そういうなの。ちょっと、ここで待っていてくれる?」


 アパートの前で車を待たせて部屋の本棚からアセクシャルやアロマンティックに関する本を取り出して紙袋に詰める。自分用に買ったものだが、私にはもう必要無い。私より、両親と姉達に読んで欲しい。私の生き方を認めてほしい。これ以上私に恋愛を押し付けないでほしい。

 車に戻り、助手席に座る母に紙袋を押し付ける。


「あげる。お母さんもお父さんも、恋愛をしない生き方もあるって学んだ方が良い。考え方が偏ってるって気づいた方が良いよ。それでも恋愛しろ結婚しろ子供産めってしつこく言うなら、もう口聞かないから。じゃあね」


 助手席の扉を閉める。力を入れていないつもりが、バタンと大きな音を立てた。今日は苛立ちが上手く抑えられない。いつもなら黙って受け流していたのに、今日は上手く流せなかった。去っていく車が見えなくなると、自然とため息が漏れた。

 誰かに愚痴を聞いてほしい気分だ。誰かといっても、私の愚痴を聞いてくれる人なんて二人しかいないけど。


「お。愛沢さんおかえり。どこか行ってたの?」


 その愚痴を聞いてくれる人のうちの一人が、タイミングよく私の住むアパートの隣の隣のマンションから出てきた。


「……一条くん」


「……なんかあった?愚痴聞こうか?」


 優しく笑いかける彼。こういうところがモテる所以なのだろう。しかしその優しさは特定の個人に与えられることはない。誰も彼を独り占め出来ない。だけど


「愚痴、聞いて」


「酒奢ってくれる?」


「缶の酎ハイでいいならうちにある」


「んじゃ、つまみ買ってくるわ」


 誰のものでもない彼だからこそ、気楽に甘えられる。『この人は私のものだから取らないで』と嫉妬心をぶつけてくる人が居ないから。

 色んな人と遊び歩いているようだけど、私には関係ない。彼は誰でもいいのだ。私でなくてもいいのだ。私が「いいよ」と言わない限りは手を出さないと信じている。信じていなかったら部屋にあげたりはしない。


「部屋で待ってるわね」


「ほーい。なんかいる?」


「お任せする」


「はいよー」


 彼を見送って部屋に入る。手洗いうがいをしてソファに座りこむ。体を横に倒すと、立てなくなってしまった。立つ気力さえなくなってしまった。疲れた。

 インターホンが鳴る。何とか身体を起こして鍵を開けに行く。


「お邪魔します」


「いらっしゃい」


 彼を部屋にあげて、買ってきてくれたピーナッツをつまみながら酎ハイを煽る。


「へー。お姉さん居たんだ」


「二人とも既婚者なの。次は私の番だって、会うたびに言われる。それが嫌だから極力会わないようにしてるのだけど……決して嫌いなわけじゃないの。だから、結婚も出産も、お祝いせずにはいられなかった。家族のことは好き。だからこそ、わかってもらえないのが苦しい」


「そっかぁ」


 彼は静かに愚痴を聞いてくれる。否定もせず、肯定もせず、ただただ聞くだけ。それが凄く心地良い。


「いつもは受け流すのに……今日は何故かスルー出来なかったの。喧嘩したくなかったのに」


「そっか。お疲れ様。ハグしてあげようか」


「……うん」


 彼の胸に身を寄せて腕を回して抱きつく。「冗談だったんだけど」と言いながらも引き剥がそうとしない。引き剥がすどころか抱きしめ返してきた。そして左手で私の頭を撫でながら、右手で酒を煽る。さすが。手慣れている。


「……愛沢さん、ちょっと警戒心なさすぎじゃない?こんなに甘えられたら襲っちゃうよ?」


「……あなたは私を襲わないでしょう?」


「……その信頼はどこからくるのかねぇ」


 ことんと彼は缶を置く。ふわりと身体が宙に浮いた。彼に抱き上げられた。


「どこ行くの?」


「ベッド」


 寝室に入り、私をベッドにそっと下ろすと彼は側に腰かけた。


「……抱くの?」


「君が許可してくれるなら遠慮なく抱くけど」


「……セックスって、気持ちいいの?」


「お?興味あるの?してみる?」


 そう言って彼は私の上に体重をかけないようにして乗り、私の頬を撫でた。


「……やめておく」


「そっかぁ。残念だなぁ。興味あったんだけど。君がどんな反応するのか」


 断ると、彼はあっさりと私の上から退いた。


「……そんなあなただから、信用してるの。心配しなくてもあなた以外の男性を気軽に家にあげたりしないわ。あなただから、安心して酔えるの」


「……そっか」


「……愚痴……聞いてくれてありがとう」


「どういたしまして。……眠たそうだね」


「……うん……一条くん、もう帰る?」


「そうだね。帰ろうかな」


「……帰っちゃうの?」


「帰らないでほしい?」


「誰かに甘えたい気分なの」


「……はぁ……それ、俺じゃなかったら絶対、誘ってるって勘違いしてるからね?」


「あなたは勘違いしないでしょう?」


「しないけどさぁ……」


 ため息を吐きながらベッドから降り、床に横になる彼。


「隣に来ていいわよ」


「……やっぱ誘ってる?」


「誘ってないけど、添い寝してほしい」


「俺はかぁ……」


「……はなんのソ?」


「添い寝の


「添い寝フレンド……良いわねそれ」


 一条くんの体温に包まれ、微睡む。

 誰かの体温を感じながら眠るなんていつぶりだろうか。


 その日は幼い頃の夢を見た。姉二人に挟まれて眠る夢だ。

 三人で寝るときはいつも私が真ん中。昔から私は姉達のことが大好きだった。今も好きだ。だけど、姉達が恋愛の話しかしなくなった頃からずっと、どこかで疎外感を感じていた。

『蒼にもいつか分かる日が来るよ』

 そう言われ続けて、気づけば成人して大人の仲間入りをした。それでも周りは同じ言葉を繰り返す。『いつか分かる日が来る』と。

 あの日、一条くんが声をかけてくれなかったらきっと、私は今でもそのいつかが来ることを信じて疑わなかっただろう。





「……ん……」


 翌朝。目が覚めてリビングへ行くと、ソファに人の姿があった。一条くんだ。その姿と、片づけられていない空の缶酎ハイとコンビニの袋が視界に入った瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇る。

 少々彼に甘えすぎてしまったようだ。彼は私が眠った後にわざわざ移動したのだろうか。知ってはいたが、遊び人のくせに紳士だ。


「ん……愛沢さん……おはよう……」


「おはよう。……昨日はごめんなさい」


「いいよいいよ。寂しかったらいつでも添い寝してあげる。なんなら抱いてあげてもいいよ」


「それは遠慮しておく。ていうか、セクハラ」


「ベッドに誘ってきたくせに」


「……覚えてないわ」


「酷いわ!私とは遊びだったのね!」


「本気になったことなんてないくせに」


 普通ならセクハラになりかねない冗談を言い合って笑い合う。


「朝ご飯、食べていく?」


「作ってくれんの?」


「トーストと目玉焼きとでよければ」


「充分です」


「インスタントのコーンスープもあるけど、いる?」


「ほしい」


 一夜を共にして、朝食を共にした。側から見たら恋人同士に見えても仕方ないのかもしれない。だけど私たちはただの友人。普通の友人よりちょっと——いや、かなり距離が近いかもしれないが、私達の間には恋愛感情も性愛感情もない。あったらきっとこの関係は成立していないだろう。

 そもそも彼との友情は、私に恋愛感情が備わっていないことがきっかけで始まった。私がアセクシャルじゃなかったら彼との繋がりはなかっただろう。ずっと恋愛に憧れを抱いていたけれど、今は自分がアロマンティック・アセクシャルだということに誇りを持てている。これも全て一条くんがあの日私に声をかけてくれたおかげだ。


「ありがとう、一条くん」


 思わず感謝の言葉をこぼしてしまうと、彼はふっと笑って「どういたしまして」と返してきた。


「何に対するお礼かわかってないくせに」


「うん。分からん。けど、とりあえずどういたしまして」


「何よそれ」


 どちらからともなく笑い合う。

 私達の間に恋愛感情はない。常に側にいるわけではない。彼は毎晩違う人と遊び歩いている。添い寝しても、私のことを抱いたりはしない。愛を囁きあったり、確かめあったりすることもない。

 だけど、私は彼が好きだ。人として、友人として。彼とこうして他愛もない話をしているだけで充分幸せを感じるほどに。

 私達の関係は恋愛で結ばれたものではないけれど、私は充分幸せだ。恋なんてしなくても幸せになれる。いつか姉達や両親にもそれが分かる日がくるのだろうか。

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