いつか時の彼方に  第1部ー2

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第8話


              ■


 母さん 母さん 母さん

 その言葉はなんて 心地良いんだろう

 母さん 母さん 母さん

 その言葉はなんて 安らぐのだろう 


 少年の頃 ぼくは

 この言葉を何度も繰り返しては

 一度も見たことのない母に 思慕の思いを募らせていた

  ぼくは雨の日に 学校に傘を持ってきてくれた母の記憶がない

 父兄参観日に 教室の後ろで見学している

 母の姿を見た記憶がない

 ましてや遠足や運動会で

 母が作ったお弁当を 食べた記憶もない

 それはぼくが三歳のときに両親が離婚して

 ぼくは父に引き取られ おばあちゃんに育てられたからだ

 だからお母さんという言葉にぼくは

 昔から慕情めいた感情を抱いていた


               ■


 あれは十九の頃だった

 高校卒業後 進学もせず 就職もせず

 亀有のスーパーでアルバイトしている姿がぼくだった

 地元密着型のそのスーパーは常連客も多く

 半年もそこで働いていると 何人もの常連客と顔見知りになる

 その常連客の中に 気になる年配女性がいた

 年齢はおそらく五十代

 いつも帽子を目深まぶかにかぶっているので

 表情はあまり分からない

 その女性は 足が悪いのだろうか

 彼女はいつもカートに大きな荷物をくくりつけて

 それをゆっくりきながら 店内で買い物をしているのだ

 気になって声をかけてみた

 何か お手伝いすることはありませんか

 最初驚いたその女性は やがて笑顔をぼくに向けて

 大丈夫ですよ ここは安くて品数も多いから

 いつも利用してるんですよと 短く答える

 今思うと不思議でならないのだが

 ぼくはそのときの笑顔と短い会話に

 自分の母親を思ったのだった

 たぶんぼくの母親は こんな笑顔を見せる女性なんだろうな

 こんな優しい目を向ける 女性なんだろうな

 その女性に勝手に母親のイメージを重ねたぼくは

 いつもその女性の来店を楽しみにしていたのだ


               ■


 そのスーパーの店長が ぼくに言ったことがある

 ケンジ 店員の笑顔には三種類の笑顔があるんだ

 ひとつめは いらっしゃいませと口では言うけれど

 目が笑ってない顔だ

 ふたつめは 社交辞令のようなうわべだけの笑顔だ

 最後は 懐かしい人に会ったときに見せる 満面の笑みだ

 おれたちは 小売り業のプロだ

 だからおれたちはいつだって

 懐かしい人に会ったような笑顔を見せなくちゃならないんだ


               ■


 ぼくが気になっていた女性の笑顔は

 まさにその懐かしい人に会ったときに見せる笑顔だった

ぼくはそこで 勝手な想像をしてしまったんだ

 やはりその年配女性は ぼくのほんとうのお母さんで

 今のぼくに内証で会いたくて 店に来てくれてるんだって

 そう思うとぼくの笑顔も自然と 

 懐かしい人に出会ったときの笑顔になった


               ■


 そのスーパーは忙しかった

 特に夕方になると買い物客と売り子の声で

 店は喧騒に包まれる

 商品は陳列棚の手前からなくなるから

 常に商品を手前に並び替えなければならない

 バックヤードから常に新しい商品を運んでは 補充しなくてはならない

 ときには商品を搬入する台車の動けなくなるほど 店内は混雑する

 そんなある日 ぼくはある女性客から声をかけられた

 ほら あそこにカートをいてる女の人がいるでしょ

 あの女の人 さっきね 卵パックをコートの中に隠したわよ 

 わたし、それ見てたの

 この店に防犯カメラはないのかしら 

 チェックしてみて きっと映ってると思うから


              ■


 その言葉は衝撃的だった 信じたくなかった

 よりによって ぼくが密かに母かもしれないと思っていた女性が

 卵のパックをコートの下に隠したなんて

 閉店後 防犯カメラの映像をチェックする

 母だと思ってた女性が映っているシーンを つぶさに見る


              ■


 分からない

 映像が小さいし 手元が隠れている

 何度もそのシーンをリプレイしてみたけれど

 ぼくは結局そのシーンを確認することはできなかった

 ぼくは事務所の天井を見上げて ため息をついた

 母さん 嘘だよね

 ほかの客がぼくを困らせようとして 嘘をついたんだよね

 あんな親しみを笑顔を見せる母さんが

 そんなことするはずがないじゃないか


               ■


 その後ぼくは 心の中で母と慕う女性が来店するたび

 閉店した後 防犯カメラで彼女の行動をチェックした

 違うんだ 違うんだ

 それは彼女の犯行を見つけるためじゃなく

 彼女を信用するため そんな女性じゃないってことを納得するために

 ぼくは防犯カメラをチェックするんだ

 ぼくはそう自分に言い聞かせては カメラの映像に映る

 彼女の行動を追い続けた

 そうしてぼくは 彼女が店に来るたびそれを繰り返したのだが 

 ぼくはついぞ母と慕う女性の不可解な行動を見つけることはできなかった

 ほらね やっぱりね

 ぼくに密告したお客さんは 何か見間違えたか 勘違いしたんだ

 そうなんだ そうに違いないんだ

 だってあんなに親しみをこめた笑顔を見せるあの人が

 そんなことするはずないじゃないか

 ぼくはそう自分を納得させ 心の中で母と慕う女性に

 今まで通りの対応をすることにした


               ■


 それからも母と慕う女性は 店にやって来た

 やはり帽子を目深にかぶり 大きな荷物をくくりつけたカートをいて

 彼女はやって来ていた

 そしてぼくの視線に気づくと彼女は決まって

 母親が自分の子供に見せるような 満面の笑みをぼくに向けるのだ

 ぼくもその満面の笑みに笑顔で応じ

 短い会話をしたあと その後ろ姿を目で追いながら

 心の中で お母さん とささやく

 お母さん あなたはもしかして ぼくのほんとうのお母さんではありませんか

 ただ理由わけがあって名乗れないだけで

 実はそうっとぼくに 会いに来てくれてるんじゃないんですか



 そんな日が続いた数週間後 その女性客はオリーブオイルを手にしていた

 あ 客さま オリーブオイルならこちらの商品の方が

 安くて人気がありますよ

 近づいてそんなアドバイスをするぼくに彼女は静かに笑顔を見せ

 手にしていたオリーブオイルを陳列棚に戻した


               ■


 そのあとのシーンは衝撃的だった

 それは忘れようとしても忘れられないシーンだった

 あるものが彼女のすそから落ちたのだ

 それはウインナソーセージのパックだった

 その瞬間 ぼくは凍りついた

 そして目は 床に落ちたウインナーソーセージに 釘付けになった

 数秒間 時間が止まった空間が そこにあった

 音も消えた数秒間が そこに存在した

 店内のディスプレイが その空間を中心に

 ぐるぐる回る錯覚が ぼくを襲う

 やがてぼくは我にかえり ウインナのパックを拾って

 無言でその女性の買い物かごに入れ その場から離れた

 そのあと心の中で 密かに母と思って慕っていたその女性の顔を

 ぼくは思い浮かべた

 いつもなら微笑み返す彼女の顔は 今度は無表情だった

 何の感情も 読み取ることはできないのだ

 心臓の音が聞こえた

 大き鼓動を繰り返す 自分の心臓の音が聞こえた

 落ち着け 落ち着くんだ

 ぼくは何度もそう自分に言い聞かせ 天井を仰いで

 深呼吸を繰り返した

 嘘でしょ 嘘でしょ お母さん

 あの裾から転げ落ちたウインナは 嘘でしょ

 あれは買い物かごから落ちたんだよね

 最初から買い物かごに入っていたんだよね

 ぼくの見間違えだったんだよね

 そうに決まってる 絶対そうに違いないんだ

 ぼくは自分に暗示をかけ続けた

 でもそうすれば そうするほど 頭の中で

 ウインナが転げ落ちるシーンが繰り返された


              ■


 やがては母と慕っていた女性がレジを済ませ 店の外にでてきた

 少し離れてから ぼくはその女性に声をかけた

 お客さん

 立ち止まって振り返るその女性に

 ぼくは震える声で 自分の意思を伝えた

 ぼくは 何も見なかったことにします

 そう ぼくは何も見てません

 だから

 だからもう うちの店には来ないでください

 その言葉を訊いたその女性の顔は 一瞬険けわしいものになった

 それは心の中で母と慕っていた女性が 初めて見せる

 阿修羅のような形相だった

 彼女は帽子を目深まぶかにかぶり直し

 無言のまま大きなカートをいて ぼくの横を通り過ぎた

 ぼくはその後ろ姿を 彼女が雑踏に消えるまで見つめ続けていた


               ■


 さよなら ニセモノだった ぼくのお母さん

 しばらくそこに立ち尽くしていたぼくは

 姿がみえなくなったその女性に つぶやいた

 そのときぼくはふと 頬に冷たい風を感じた

 その風はぼくのつぶやきを どこか遠くに運び去った



 季節はようやく 春になったばかりだというのに

 




                                   《了》









 







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いつか時の彼方に  第1部ー2 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7

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