第8話 魔人ドラゴドーラ

 なんだ……?


 俺は身体を起こして窓の外を見る。


 まだ明るい。寝入ってからそれほど時間は経っていないようだ。


 今は静かだ。

 動物か、もしくは魔物らしい叫びなどは聞こえない。


 ……気のせいか。


 そう思った。


「喉が渇いたな」


 水を飲んでもうひと眠りするか。


 ベッドから降りて部屋を出る。

 居間には親父とファニーさん、それとナナちゃんの姿はなかった。


「外へ出たのかな」


 俺は開いている扉から外へと出る。

 そして見えた光景に、俺は絶句した。


 巨大な竜……飛竜……確かワイバーンとかいう魔物か。

 それが上空を旋回していたのである。


「な、なんだ……?」


 側で親父たちがそれを見上げている。

 俺は慌ててそこへ行き、親父の肩を叩く。


「なにやってんだよ親父っ! 早く逃げないとっ!」

「あ、ああ、でもファニーさんが……」

「えっ?」


 俺が見たのは真剣な表情のファニーさんだ。

 恐れなど微塵も無いその顔が、まっすぐと飛竜を見上げていた。


「ファニーさん?」

「……ヘイカーさんとマオルドさんは早く逃げてください」

「逃げてくださいって、ファニーさんとナナちゃんは?」

「私たちはここへ残ります。あれの目的は私たちですから」


 飛竜がファニーさんたちを目的にここへやってきた?


 ……いや、たぶん違う。ファニーさんの言うあれとは、飛竜のことでは無く、別のなにかを指している気がする。


「にーに、早くここを離れたほうがよい。あれに乗っているのは兄様か姉様じゃ」

「兄様か姉様? ナナちゃんの?」


 この子の兄や姉ならそんなに悪い人ではないのではないか?


 そう思う頭を俺は振る、


 どうやら寝惚けているようだ。

 よく考えて、飛竜を乗りこなす人間など普通ではない。俺たちに逃げろと言うファニーさんとナナちゃんの様子からして、あれに乗っている者が安全な人物と考えるのは間違いであろう。


「にーに、なにをしておる? ここを見つければあれはすぐに降りてくる。早くヘイカーパパと一緒に逃げるのじゃ」

「よくわからないけど、まだ見つかっていないなら家の中に隠れたら……」

「それなりに確信を持ってここへ来たはずじゃ。ナナたちが見つからなければ、あの飛竜の吐き出す炎で村を焼いてナナたちをあぶりだすじゃろう」


 そんなに危険な奴なのか。ナナちゃんの兄や姉とは。


「見つかったら、君たちはどうなるんだ?」

「ナナはたぶんは連れ戻されるじゃろう。母上は……殺されるかもしれん」

「こ、殺されるって……」


 冷静な声音でそう言うナナちゃんに、俺は違和感を感じる。


 母親が殺されるなど、それがわかっていて普通でいられるはずはない。

 この子が普通の8歳児ならば。


「親父……」


 隣に立っている親父はファニーさんの肩を抱いて難しい顔をしていた。


「僕はここに残る。マオルド、君は逃げろ」

「ここに残るって……どうする気だよ? 戦うのか?」

「どうかな。けどもしもファニーさんが危険な目に合いそうだったら僕は戦うよ。それでもし死ぬとしても、愛する人を残して逃げるよりはいいさ」

「ヘイカーさん……」


 ファニーさんが親父の胸に身を寄せる。


 もうなにを言っても、親父はここを動かないだろう。

 俺はどうする? 逃げるか? 親父たちを残して。


 そうするべきだろう。

 俺がここに残っていてもみんなを守ることなどできない。抵抗してもただ殺されるだけだ。意味も無く死ぬことになる。


 それがわかっているのに、俺の足は動かない。

 竦んで動かないわけでも、勇気を持って地に根を張っているわけでもない。


 ただ動けなかった。

 親父や親父の愛する人、そして義妹となった女の子を置いて自分だけ逃げ出すなど、俺の中にある男が許してくれなかったのだ。


「マオルド、早く逃げろ。たぶんもうすぐここを見つける」

「……ごめん親父。俺も男だ。親や女子供を置いて逃げ出すなんてできない。わかっている。いたってなにもできないのは。けど逃げられないんだ。男だから」

「マオルド……ふっ」


 親父は諦めたような苦笑をする。


「常に自分のことだけを考えて生きろっていつも言ってるだろう。この親不孝者め」

「もっと身勝手な親父に育てられていたら、そうできたかもな」


 親父の背中を見過ぎた。

 どんなに損をしても、どんなに自分が不幸な目に合おうと、どんなに無力でも、誰かを助けるために生きてきた親父の背中を。


 親父は弱い。元傭兵のくせに戦いは苦手だ。

 しかし男である。誰よりも男であった。


「にーに、なぜ逃げん? なにもできないとわかっていて、なぜ逃げぬのじゃ?」

「それは男だからとしか言えないな」

「男じゃから?」

「男ってのは不器用なんだ。合理的には生きられない。メンツとかプライドとか、そういうもののためには不条理を受け入れるものなんだよ」

「メンツのために死ぬのかの? それは馬鹿じゃ」

「はははっ、そうだね。馬鹿だ。わかっているよ。わかってはいるんだけどねぇ」


 男とはそういうもんだと、たったそれだけの理由で妙に納得できてしまうのが不思議だった。


 ようやく気付いたのか、こちらへ飛竜が降りてくる。

 やがて畑の上に着陸したその巨体の背には、誰かが乗っていた。


 その者が飛竜の背から地面へと降り立つ。


 長身に黒い長髪のおとなしそうな男だ。

 年齢は20歳くらいか。荒々しい雰囲気は感じられない。とても物静かな様子の男だった。


 全身に真っ黒い服を纏ったその男がこちらに歩いてくる。


「やさしそう……な人だな」


 俺は見た目でそう思ったが。


「ドド兄様……」

「ドド。それが君のお兄さんの名前?」

「うむ。ドラゴドーラじゃ。それでドド兄様と呼んでおる」

「そう」


 ナナちゃんの表情は強張っている。

 やさしそうなどと思ったのは、おそらく俺の間違いであることはその様子から察することができた。


「ようやく見つけましたよ、ファニー様」


 ドラゴドーラは俺たちの目の前で来ると、ファニーさんを見下ろしてそう言った。


「ドド……。私は……」

「語らずともよろしい」


 瞬間、ドラゴドーラの拳がファニーさんの顔へ伸びる。が、殴られたのは寸前であいだに入った親父だった。


「ヘイカーさんっ!」

「親父っ!」


 殴り飛ばされた親父は家の壁を突き破り俺の視界から消えた。


「な、なにをするんだっ!」


 俺は叫んで衝動的に殴りかかるが、指の一本を額に当てられ動きを止められる。

 虫けらに向けるような視線がこちらを睨んだ。


「下等生物と戯れているとは……いえ、あなたも下等生物でしたか。ファニー様。父上よりあなたはもういらないので処分しろと命令されています。お覚悟を」


 下等生物? 人間のことを言っているのか。


「……もちろん覚悟はしています。ナナはどうなりますか?」

「連れ帰ります。これはまだ未熟ですが、いずれ力に目覚めるかもしれませんから」


 力に目覚める?


 それがなんのことか俺にはわからなかった。


「ま、待て……」


 家の崩れた壁から親父が出てくる。


「その人を殺すなら、僕を先に殺せ」

「言われなくても殺しますよ。先を望む意味はわかりませんがね」

「ドド、あの人は関係ありません。殺すなら私だけで……」

「私は下等生物が嫌いなんですよ」


 ドラゴドーラの目が見開かれる。


「嫌いな生き物が私の視界を汚した。殺さなければ気が済みませんね」

「そんな……」


 ひどい奴だ。人の命をなんとも思っていない。


 しかし先ほどから話を聞いていて疑問に思う。

 こいつは人間のことを嫌いと言った。ならばやはりこいつは魔王の子で、魔物ということになるのか?


 半信半疑だったナナちゃんの言葉が、俺の中で確信に変わっていく。


 この状況に至っては冗談もなにもない。

 ファニーさんは魔王の元妻で、ナナちゃんは魔王の娘なのだ。


 それが真実と今さら受け入れたところでどうなるものでもないが……。


「望みを叶えてほしいですか? 下等生物」

「あ、ああ……」


 親父がそう答えると、ドラゴドーラは満面に笑う。


「残念。その望みは叶いません。お前はファニー様が死ぬところをそこでおとなしく見ていなさい」

「そ、そんなっ!」

「先に死を望む理由はわかりませんが、下等生物の望みなんて叶えてやるわけないじゃありませんか。むしろ下等生物のあなたが嫌がることをしますよ。私は」


 ドラゴドーラは腰に下げている剣を抜き、その切っ先をファニーさんに向ける。


「お前はこの女が気に入っているようですねぇ。ならばじっくりと殺してあげましょう。まずは耳を削ぎますか、それとも目を抉りますか。お前が余計なことを言わなければこの女はもっと楽に死ねただろうにねぇ。ひひひっ」


 なんて奴だ。


 俺はこれほど怒りを感じたのは初めてだ。

 はらわたが煮えくり返るとはこういう感覚なのだろう。


 俺になにかできることはないか?

 ……無い。俺がここであの男に殴りかかったところで、ただ返り討ちに合うだけだ。


 自分の無力が憎い。

 レイアスに言われた役立たずという言葉。あのときはそれほど悔しくは思わなかったが、今は嗚咽するほど自分の無力が憎らしかった。


「母上……」

「ナナちゃん、ママは間違ったことをしたとは思っていないわ。短い間だったけれど、本当に愛する人に出会えて愛し合えたんですもの。後悔はないわ」


 ファニーさんに見つめられた親父は泣いていた。


 俺と同じで悔しいのだろう。

 大切な人を守る力が無いことが。


「本当に、心の底から愛せる男の人を見つけなさい。その人と愛し合うことができたら、ママのようにしあわせになれるわ」

「別れのあいさつはもういいですかな?」


 ドラゴドーラの剣がファニーさんの頬をゆっくりと傷つける。


「ずっとあなたを殺したかったですよ。下等生物の分際で偉大な父上の子を産むなど不愉快極まりない。本音を言えばその子供も殺したいところだが、それは父上に許されていません。残念ですが、まずはあなただけを殺して満足しましょう」


 覚悟を決めたのか、ファニーさんは目を瞑る。


 その姿を前に、俺は拳を握った。


 本当になにもできないのか? 本当に……なにも。


「う……」


 なんだ?

 自分の中でなにかが蠢いているような気がする。

 熱いなにかが、全身を包もうとしていた。

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