第32話 泣き方
ノアはおもむろに立ち上がり、すっと一歩下がった。それと交代にベンソンがカミラの傍らに膝を着き、彼女の両手を強く握る。
夫の手はこんなにも逞しかったろうかと、カミラはその手をじっと見つめた。少しして、自分の体が痩せ細ったのだと気づいたようだ。
「……ママ」
慣れた様子で涙を堪える娘が話始める。喉の奥にきゅっと力を入れ、必死に息を落ち着かせている。
自分がそうさせてしまったのだ。親である自分が、アシュリーを望まぬ形で大人にさせてしまった。その過ちの大きさに、カミラは息を詰まらせる。
「どっちが欠けたってダメなんだよ。チャーリーかママかなんて、どっちかなんてないんだよ」
「……そうね」
「ママはチャーリーに苦しんでほしかった? 毎日罪の意識に押しつぶされて、最後には死んじゃえばいいって思った?」
返事をすることも出来ず、カミラは必死に首を振る。
「チャーリーだって同じだよ。ママに死んでほしいだなんて、チャーリーはそんな最低なことを願う子じゃない! いつだって馬鹿なこと言って私たちを笑わせてくれたのは、チャーリーが誰よりも、家族の笑顔が大好きだったからでしょ?」
チャーリーはそんなことを望まない
それはきっと、この一年何度も伝えられた言葉であろう。どうしてそれが今まで心に響かなかったのだろうかと、カミラは夢から醒めたかのように目をしばたたかせる。
ノアには彼女の気持ちが分かるような気がした。きっと、その言葉は己の罪を軽くするための免罪符のように聞こえたのだろう。
しかしあの擬似夢がカミラを現実へと引き戻した。カミラが作り上げた哀れなチャーリーではない、本物の我が子を思い出させたのだ。
これまでのカミラの行いは、チャーリーという人間を否定することに他ならないのだと。
カミラは息を整え、涙を拭った。
「ピーターさん、貴方の擬似夢、本当に最低な内容です」
「おや、具体的にどのあたりでしょうか」
「人物描写がまるでなっていないわ。私たちのチャーリーは、あんな結末は迎えません。負けず嫌いで、お調子者で、太陽のように笑うあの子は、生きることを諦めたりしませんもの」
「それは、本当に素敵なお子さんだ。きっと素敵な親御さんを見て育ったからでしょうね」
今日までふさぎ込んでいたカミラに対して、それはあまりにも酷い皮肉にも思えるが、カミラはむしろ発破を掛けられた様子であった。そうだ、娘に涙の堪え方を覚えさせている場合ではない。
チャーリーはもう戻ってこない。だからこそ、息子と天国で会えるその日まで…… 一日でも多く、娘と夫と笑い合える日を。
それが、残された者に出来る全てなのだから––––
「アシュリー、あなた……」
「なんだい、カミラ」
「私、すぐには元気になれないわ。泣いてしまう日も沢山あると思う」
「大丈夫だよ、ママ」
「カミラ、君が未来の話をするのはいつ振りだろうね」
いつか来るであろう挫けてしまう日、そんな悲しい日でさえも、彼らにとっては希望ある未来なのだ。
明日を憂うことが出来る幸せを、彼らは強く噛みしめた。
「明日は、ビーフシチューを作りましょう」
「無理しなくていいんだよ、ママ。飛ばしすぎないで」
「作りたいのよ。擬似夢の中のビーフシチューがとっても良いにおいがしたの。もうずっとお料理も任せっきりだったわね、本当にごめんなさい」
「ううん、ママのレシピノートのお陰でね、私どんどんお料理上達してるんだから。ねえ、明日は三人で作ろうよ!」
「いいなあ、私もじゃがいもを剥けるようになったんだぞ」
「うそ、この間も指が血だらけだったじゃん」
「そ、それはだなあ」
「……う、うぅ」
ようやく訪れた明るい雰囲気に響くカミラの嗚咽に、また二人が不安そうな眼差しを向ける。
「ち、ちがうの。ごめんなさいね。ただ、嬉しくて。久しぶりに昔みたいに話すことが出来て…… ごめんなさい……」
「ママ…… 大丈夫だよ」
そう言って母の背をさすろうとする娘を、ベンソンが止めた。体に染みついた行動に待ったがかかり、アシュリーは不思議そうな顔をする。
「アシュリー、お前も泣いていいんだ」
父の言葉の意味を理解すると、アシュリーは小さな息を一つ漏らした。
成長途中の身体に押し込められていた何かが、まるでダムが決壊したかの如く、大粒の涙となってアシュリーの頬を伝った。泣き方を思い出すかのように大きな声を上げて泣く娘を、ベンソンとカミラが強く抱きしめた。
もう、大丈夫だ
そう安堵するノアの肩に腕が回される。ウィッグがずれるのを心配して解こうとするが、エリックが三人に負けず劣らずの涙を浮かべていたものだから、仕方なく肩を貸してやることにした。
「……ビーフシチューか」
「なんだ、食いたくなったか?」
「阿呆」
カミラの明日を生きる糧は、ビーフシチューだった。
今はまだそれでいい、それを支えに一日一日を必死に生きていくんだ。だけどいつかは、そんな目的など無くとも当たり前のように息をして、当たり前のように来週、来月、来年の予定を立てていくんだ。
さながら自転車の補助輪のように、気がつけば二輪でペダルを漕いでいて、三輪で過ごした日々を思い出せなくなる。
リリーが求めた亡き家族も、立花杏が求めた音に包まれた世界も、いつかはそれ無しで生きていける日が、きっと、きっとやってくる。
アイザックに至ってはもう、マーガレットの擬似夢など必要ないのかもしれない。
己の作る擬似夢を誰も必要としない、そんな素晴らしい未来を、ノア・クラークは夢描いていた。
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