第29話 ビーフシチュー


 カミラが無事に擬似夢に入り込み、脳波も安定していることを確認すると、ノアは隣の客間へと移動した。


 扉を開けると食い入るようにモニターを見つめるベンソンとアシュリーがいた。画面にはカミラが見ている擬似夢と同じ映像が映し出されている。

 今はちょうど、家族四人で夕食を囲んでいるシーンだ。

 エリックが最初にノアに気づき、お疲れと声を掛けてきた。


「す、凄い…… こんなにも精巧な擬似夢は初めてです。これを貴方一人で作られたんですか?」

「気に入っていただけたのなら何よりです。沢山の素材を提供してくださったので、より緻密に作り上げることが出来ました」


 事実、ベンソンは頼んでもいないような写真や映像まで送ってくれた。妻の得意料理のレシピに「チャーリーが特に好きだったのはビーフシチューだった」というコメントまで添えて。それだけで、彼がどれだけ家族を大切にしていたかがうかがい知れる。


 モニターからカミラの声がした。はじめは戸惑って、ただ移ろう映像を眺めていただけの彼女だったが、今はもう夢の中の家族団らんに溶け込んでいるようだ。


≪もう、こらチャーリーったら! シャツにビーフシチューが付いちゃってるじゃない! おかわりなら沢山あるから、もっとゆっくり食べなさい≫


 そう言って最愛の息子の口元を拭ってやる妻を見て、ベンソンは堪らず目に涙を浮かべる。

 一方のアシュリーは複雑そうな表情を浮かべていた。この一年見ることのできなかった母の笑顔、それが今、画面いっぱいに映し出されている……


「この夢が…… 本当にママの為になるのかな」

「アシュリー、折角ピーターさんが作ってくれたのに、そんなこと言うもんじゃない」

「いいえ。今回の依頼は『カミラさんに前を向かせる』です。依頼にそぐわないと思うのなら、どうぞ仰ってください」


 ノアはじっとアシュリーを見つめている。

 アシュリーは吐き出したい胸の内を、もう少し秘めておくことにしたらしい。ノアもそれ以上は急かさなかった。


 映像はどんどんと切り替わる。

 休日に出かけたハイキング、クリスマスに食べた七面鳥、結婚記念日にアシュリーとチャーリーが手紙のプレゼントをしてくれた夜、せがまれて買ったグローブとボール……


「そうだ、チャーリーがはしゃいでリビングでボール遊びを始めたんだ……」

「それでパパのとっておきのワインボトルを割っちゃったんだよね、あの時のパパ、すごく怖かった」

「ワインが惜しかったんじゃないよ。大怪我につながると思ってだな……」


 二人もアルバムをめくるかのように、目の前の映像を楽しんでいる。もう戻ることのない、かけがえのない日々……


≪まあチャーリー、ボトルを割っちゃったのね。……いくらだって割っていいのよ。だからお願い、ずっとここに居て、ママに笑いかけてちょうだい≫


 アシュリーの顔がまた一層陰る。だんだんとベンソンも雲行きの悪さに気づき始めていた。

 正直、ここまでの擬似夢が存在するとは誰も思わなかったのだ。画面越しで見るのとは話が違う、死んだ息子が手の届く距離にいると錯覚させてしまうほどの臨場感。まさにアルバムの中に飛び込んでしまったかのような体験。

 ノアの擬似夢はそれを可能にさせてしまう。


 つらい時に励みになるような、そんな役目を期待していたのだろう。しかし画面越しのカミラは、もうこの擬似夢の虜になっている。

 それは真に、彼女のためになるのだろうか?


「パパ……」

「も、もう少し様子を見よう。こんなところで中断させたら、カミラがどんなに悲しがるか……」

「うん…… もう少しだけ、ね」

「大丈夫ですよ、擬似夢もあと少しで終わりますので」


 それならば大丈夫だと、ベンソンが胸をなでおろす。この程度の短さならば、擬似夢に依存することもないと考えているのだろう。


「どうしても耐えられない日のご褒美だ。そうさ、それで良い……」


 ベンソンの考えなど手に取るように分かるのか、ノアは一人ほくそ笑んだ。エリックはその笑みの理由を聞かされてはいなかった。



 客間の窓を、夜の雨が打ち付ける……




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