第24話 忘れることができたなら

 

 

 エリックの話はこうだった。


 エリックの少年団時代の恩師、ベンソン・モーズリーが今回の依頼人だ。彼には妻と娘、そして息子が一人いた。


  ◇ ◇ ◇


 ちょうど一年程前のことだった。その日は記録的な大雨だった。ベンソンは仕事を早く切り上げて、スクールにいる娘を車で迎えに行った。スリップ事故が起きたようで、二人は長い長い渋滞を強いられることとなった。


 車で数分の距離をその日は一時間もかける羽目になったが、それも悪いものではなかった。

 朝早くから出勤し、子供が寝静まってから帰る生活。娘との久方ぶりの会話のキャッチボールはベンソンの心を癒してくれた。車外の大雨とは対照的に、車内には幸せな時間が流れていた。


 彼らが家に着くまでは––––


 異変にはすぐに気が付いた。鍵がかかっていない玄関扉、真っ暗な室内、倒れた観葉植物–––– 

 ベンソンはすぐに娘をお隣さんに預け、警察に連絡を入れるよう伝えた。

 リビングはどこもかしこも滅茶苦茶だった。皿に盛られた四人分のビーフシチューは床に散乱し、割れた破片が飛び散っていた。つけっぱなしのテレビから、コメディアンの楽しそうな笑い声が響いていた。


 庭へと続く窓の近くに、息子に買ってあげた野球バットが立てかけてあった。ベンソンはそれを持つと二階へ上がった。


 物音が聞こえる。足音を立てないように慎重に近づくと、それが呻き声なのだと気づいた。

 彼は声のする方、子供達の部屋まで駆けていった。扉は、開かれていた。


 あの光景を、忘れることができたなら


 荒れ放題の部屋、壊れた照明、開け放たれた窓、入り込む雨。部屋の中央には、椅子にぐるぐる巻きにされて座らされる妻がいた。口をガムテープで止められ、髪も衣服も乱れていた。

 彼女が必死に呻き声をあげる。妻の元へ駆け寄ろうとしたその時––––


 雷が轟いた。

 床に照らし出されたのは、最愛の我が子だった。


 一歩踏み出した、あのカーペットの感触を、忘れることができたなら


 大量の血を吸い取ったカーペットが不快な鳴き声を上げる。一目見て分かった、もう手遅れだということが。

 恐怖に見開かれた我が子の目をそっと閉じてやると、妻が大きく呻いた。ベンソンは彼女の口元のガムテープを剥がした。剥がれきる前に、彼女は無理矢理口を開き叫んだ。


「いやだいやだいやだいやだ!!!! まだ、まだ助かるわ!!! ああ、チャーリー、チャーリー!! 嫌よ、目を開けて、ママはここよ!! チャーリー、ああ、チャーリー!!!」


 巻かれていた縄を解くと、彼女は崩れ落ちる様に横たわる息子へと駆け寄った。何度も何度も、息子の名を呼ぶ。


 ちょうどそのタイミングで警察が到着した。なんでも近くの通りで上着に血が付いた男を取り押さえたという。

 妻に確認を頼もうとする警官に頭を下げた。どうか、どうかあと少しだけ、待っていてくれないかと。彼女はなおも息子の名を呼び続ける。


「ああ、お願い。お願いよ、今日くらい、ママのいうことを聞いてちょうだい。新しいグローブを買ってあげるから。ねえ、チャーリー、お願いよ……」


 嗚咽混じりの慟哭が外の雨音をかき消した。



 全部全部、忘れることができたなら、少しは楽になれるだろうか



  ◇ ◇ ◇



 


 


 


 

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