依頼人 ベンソン・モーズリー

第23話 僕ではない誰か



  ◆ ◆ ◆


 最初は、旅行に行くのだと思った。お父さんが大きなキャリーケースを引っ張り出したから。けれどすぐに違うと分かった。


「ノア、前に父さんのお仕事の話をしたろう? みんなを助けるお薬の話だ」

「うん」

「それを作るには、もっと大きな研究室が必要なんだよ。だから––––」

「大きなお家に引っ越すんだね! ねえ、ぼくのブランケットは持っていってもいい?」


 あの時のお父さんの顔を、今でもよく覚えている。


「ああ、ノア…… ごめんよ、お前を連れてはいけないんだ。いいかい、これからはロバーツおじさんのお家で暮らすんだ。エリックは覚えているだろう? 大丈夫。薬を完成させたら、すぐに帰ってくるから」


 いやだ、いやだよお父さん。ぼくを置いていかないで。


 ぼくは深い深い闇の中に吸い込まれていく。お父さんは、ぼくが何度呼んでも振り向いてはくれない。


 扉が閉じられる。


 ぼく、良い子に待っているからね––––


  ◆ ◆ ◆


 目を覚ましたノアは、日課の擬似夢日記をつけるためにデスクへ向かう。


 思い出したくもない夢だが、決して忘れてはならない記憶だ。この日の悲しみが今日の己を形作っているのだから。

 見たくもない夢を見なくて済むという点においては、自分以外の人間を少し羨ましくも思う。ノアはデスクの上から二番目の引き出しを開けて、中から一枚の写真を取り出した。


 父が少年を抱き上げて笑っている。


 父とおそろいのアッシュグレーの瞳の少年。


 


「僕は、今も待っているよ……」


 父はノアの知らないところで、ノアの知らない幸せを掴んだというのだろうか。

 今にも引き裂いて燃やしてしまいたいという気持ちを抑えて、ノアはその写真を宝物かのように大事に引き出しに戻した。


  ◇ ◇ ◇


 朝の身支度を終えたタイミングで夢屋のベルがカランと鳴った。艶やかな黒髪と褐色の肌が覗き込む。


「おはようさん! 元気か~」

「今さっきまでは」

「また捻くれたこと言ってよ~。リリーは元気だったか?」


 安楽夢の件は一応解決したし、わざわざエリックに知らせるべきだろうか。それよりも、集合の予定がないのにやってきた彼の要件を先に聞くことにした。


「体調は良いみたいだったよ。気分が少し落ち込んでいたみたいだけど、それも良くなったから心配はいらない。それより、今日は何の用だい?」

「ああ、まだ確定じゃないんだがな…… もしかしたらIDEO主催のパーティに潜入できるかもしれない」


 電子暖炉を起動させていたノアがエリックを見やる。エリックは手柄を勝ち取ったという様子ではなかった。


「それにはお前の助けが必要だ。俺としては、IDEOの件がなくても引き受けてくれると助かる」

「……茶を淹れよう」

「今日は冷えるからなあ。あったかいココアってある?」



 IDEOと接触する日は、案外すぐそこまで迫っているのかもしれない。





 

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