第22話 夢物語
次の日、ノアは一人でホワイト家を訪れた。マーサが喜びと哀しみが入り混じった表情で迎え入れてくれる。
リリーに来訪を伝えようとするマーサを止めて、居間で少し話をしようと誘った。
「安楽夢の話、マーサは知っていたのかい」
「ええ、まあ…… ここ一、二ヶ月のことなんだけれど。きっと体力が落ちてきたから冬を越せるのか不安になってしまったんだわ。年末は私が付いていてあげられないし」
「ああ、ひ孫さんが生まれたんだってね、おめでとう」
マーサは目を細めて笑った。
「ありがとう。私もいつまでも元気というわけではないから、今のうちにどうしても会いたくて。ひ孫達をこの家に招待しようかとも思ったの、そうすればリリーお嬢様のお世話も出来るじゃない? けど、断られてしまったわ。火傷の顔を見せたらひ孫が怖がると言っていたけど、きっとこの家が子供達の笑い声で溢れるのが、耐えられないのでしょうね。無理もないわ」
「けれど安楽夢なんて、絶対に認められないよ。リリーはいくらだって元気になれるんだから」
そう言ったところで、リリーの部屋の呼び鈴が鳴った。
マーサが立ち上がろうとするのをノアが止める。
「僕が行くよ。大丈夫、もう声を荒げたりしないから」
マーサは少し不安そうな顔で見送った。
二階へ上がり、ノックをしてから扉を開けると、リリーは上体を起こして窓の外を眺めていた。
眺めていると言っても、彼女は大まかな明暗を認識できる程度で外の景色が分かるわけではないのだが。それでも確かに彼女は空の移ろいを感じているようだった。
「マーサとどんなコソコソ話をしていたの?」
「僕が来たのもお見通しか」
「目が見えないと、耳が良くなるのよ。それで、昨日の続きがしたいのかしら?」
「逆さ、声を荒げたことを謝ろうと思って。昨日はごめんよ。君がいなくなると思うと、冷静でいられなかった」
リリーはもう目に涙を浮かべている。ノアはベッドの傍に腰掛けて、彼女が話し始めるのをそっと待った。
少しして、彼女が口を開く。
「ノアはハンサムで聡明で、街中のご婦人達の注目の的だってマーサが言っていたわ。私は小さい頃から貴方と時間を共にしてきたのに、大人になった貴方の顔も分からない」
震える彼女の手を優しく握った。
「家族とマーサに囲まれて、この家でいつまでも幸せに過ごしていたかった。いつか大人になって結婚をして、皆に惜しまれながらこの家を旅立つ日を夢見ていた。けれど私は今もこの家で独りぼっち。あるのは過去への執着だけ」
そこまで言うと、彼女は己の罪を懺悔するように、深呼吸を一つしてから言葉を続けた。
「……ごめんなさい。私はノアの幸せを喜んであげられない。貴方が私の知らないところで、私の知らない幸せを掴んでしまうのなら、その時本当に私の心は壊れてしまう。その日を恐れて生きるくらいなら、いっそ……」
しゃくり上げて言葉を続けられないリリーの背中を優しくさする。ノアが言葉を紡いだ。
「一生懸命話してくれた手前言い難いんだが、君の言葉は殆ど的を得ていないよ。街中のご婦人だとか、君の知らないところで幸せを掴むだとか、てんで的外れだ」
リリーは何のことやらと言った様子でノアの方を見上げる。彼女の頭上にクエスチョンマークが飛び交っているようで、ノアはくすりと笑った。
「僕はね、通りに新しいパティスリーが出来れば、真っ先に君へのお土産を見つけに行くんだ。季節が移ろえば、君が体調を崩してやいないかってそればかり考える。君が存外元気だと分かれば、上手くいけば外へ連れて行けるかもしれないと、いくらでも想像を膨らませる。僕の人生はね、君を抜いては語れないんだよ。今までもこれからも、君のいない人生なんて考えられないんだ」
ノアはリリーの涙を指で掬ってやった。
「綺麗事はやめよう、世界は君に優しくない。それは揺るがない事実だ。愛する家族を奪われ、世界の色を失って、君に前向きに生きろと言うことほど無責任なことはない。だから、これは君さえ良ければなんだけど……」
ノアはその先を続けるべきか悩んだ。しかし、今の彼にはこれ以外の手が見つからなかった。
「春になったら僕は君とピクニックに行きたい。マーサお手製のサンドイッチを持ってね。最近できたカフェのガトーショコラを君と食べに行きたい。絶品なんだけど、テイクアウトが出来ないんだ。来年隣町に大きな商業施設が出来るらしい。僕は君と行きたい。君が欲しいものをヘトヘトになるまで買って回るんだ。全部全部、僕の我儘だ。こんな僕を、君は邪魔だと思うだろうね」
リリーはノアの腕の中で小さく震え、必死に首を横に振る。大粒の涙が頬を伝う。
可哀想なリリー、ごめんよ。ノアは何度も心の中で呟いた。こんな形でしか彼女をこの世に留めておくことが出来ない自分が歯痒かった。本当の枷は己ではないか、ノアは自分の無力さを呪った。
「ごめんなさい。マーサが年々年老いてしまって、このまま本当に独りぼっちになっちゃうんじゃって不安になったの」
「誰だって後ろ向きになることはあるよ。けれどもう、死という選択肢は選ばないでおくれ。僕だけじゃない、マーサもエリックもエマも、みんなが君を大切に想っているんだから」
ノアはリリーの額に優しく口づけをした。リリーは照れているような、少し残念な気持ちを隠すような、そんな表情をした。
「ちゃんと食事を摂って、時々はベッドから出ておくれ」
「うん、頑張る。今日はありがとう。エマにも謝っておいてくれる?」
「ああ、気にしちゃいないだろうが、ちゃんと伝えておくよ」
「ねえ、ノア……」
「うん?」
リリーの頬が紅色に染まっている。
その熱に触れようと無意識に手を伸ばし、すんででサッと手を引っ込めた。リリーは何も気づいていないようだった。
「……ううん、やっぱり、なんでもない。今日は本当に、ありがとう」
「ああ、また来るよ。リリー」
そうして温かな空気に包まれたホワイト家を、ノアは後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
帰り道、ノアの脳裏には在りし日のマーガレットとアイザックが抱き合う姿が浮かんでいた。
あの二人を愚か者だと言う資格が、はたして自分にあるのだろうか。誰よりも大切な女性に愛していると伝えることもできない自分に。
けれど同時に、己には愛を囁く資格がないことも分かっていた。IDEOの秘密を暴くということ、その先にどんな危険が待ち受けていようとも、ノアは歩みを止める気はなかった。
死にたいと嘆く彼女を引き止めておきながら、自らもあの世に片足を突っ込んでいるのだから救いようがない。
今の自分に、彼女を幸せにすることなど叶わない。叶わないのなら、彼女に愛を伝えることは他でもない己が許さなかった。
「君は知らないだろうね。僕は君の何十倍も残念そうな顔をしてるってこと」
呟いた言葉は冬の澄んだ空気に溶けていく。
いつか額ではなく、その唇に口づけが出来たなら。ウエディング姿の彼女が微笑む相手は、己であって欲しい––––
だから失敗は許されない、絶対に奴らの尻尾を掴んでみせる。
この幸せな夢物語を、現実にするために。
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