第21話 劇薬
「それにしても安楽夢とはねぇ。そんなに思い詰めてたなんて、気づかなかった」
事務所でチョコレートシロップをたっぷりかけたカフェモカを大事そうに飲みながら、エマが呟いた。
安楽夢はここ数年で急速に広まっている、その名の通り安楽死の一種だ。希望の夢を見せながら致死量の薬剤を投与する。この国で安楽夢は終末期医療とロッド患者にのみ適用される、それ以外は違法だ。
しかし国も大々的に検挙は行っていないので、医師免許さえ持っていない連中が好き勝手なプランを展開している。『安楽夢サイト』なるものも幅を利かせている始末だ。
国も諦めているのだろう、それ程までに世界は夢に取り憑かれている。
安楽夢はそれ即ち今際の際に見る夢だ。もうロッドの心配もドリーゼを打つ必要もない。なので基本的には再現度に難がある擬似夢ではなく、ただの映像を使用する。
その人が思い描く理想の世界を精巧に映し出しながら安楽剤によって死んでいくのだ。
しかし中には、敢えてロッド直前の状態にした上で擬似夢を見せる事で、脳に強い衝撃を与え死に至らしめるという輩もいる。これは紛れもない殺人だ。
ところが、そんな馬鹿げたプランを望む者もいるのだ。最後くらい脳波を気にせず好きな擬似夢を見たいのだそうだ。
擬似夢への最後の抵抗だと彼らは言うが、ノアには全く逆の印象を抱かせる。
死ぬその時まで、擬似夢に縛られている。それは、擬似夢の奴隷に違わないと。
「絶対に、言うこと聞いちゃダメだかんね」
「言われなくても分かっているさ。許せないよ全く。リリーは僕がイエスと頷くとでも思ったのか」
他人の人生に責任は持てない。安楽夢を望む人間に、馬鹿なことは止せという権利は自分にはない。ノアもそれは重々分かっていた。
しかし、己の夢で死にたいなどと宣う人間に言えることは一つしかなかった。
「僕の夢を見たけりゃ生きろ。僕の夢は、生きたいと願う人の為にあるんだ」
それはまるで、怒りと祈りが混じり合ったような声音であった。
「なぁ、リリーが見たがってた擬似夢ってどんなの?」
エマが尋ねてきたので、書棚から古いアルバムを取り出し、その最終ページからチップを一つ取り出した。
それをモニターに映し出す。
顎髭を蓄えた茶髪の男性と、リリーによく似た白い長髪の女性が椅子に座って微笑みかけている。その前で、やんちゃそうな男の子二人が取っ組み合って遊んでいる。鳥の囀りと、四人の笑い声が聞こえてくる。
温かな日差しの中、彼らは庭でピクニックをしている。マーサがお茶のお代わりを運んできた。それは紛れもない、今日二人が訪れた家の庭だった。
「……まあ確かに、これを見せなくしたのは正解だな」
「火事の前は、この夢は光ある未来だった。次の休暇にはこの光景が待っている、だからもう少しの辛抱だ、と。けれど火事で彼らを失った後は、これは彼女を過去へと誘う劇薬になってしまった。そんなもの、もう夢でも何でもない」
「で、どーすんの? これから。まさかずーっと喧嘩したまんま?」
「僕が折れるわけにいかないだろう」
「折れる必要はねえよ。でも、説得はしてやんねえと。あたし直前からしか聞いてなくて、そもそもなんで安楽夢の話になったんだ?」
ノアは忌々しい記憶を辿った。頭に血が上っていたので、あまり内容を思い出せない。
「自分だけ取り残されていくのが嫌だと言うから、僕がいるって言ったんだ。それ以外はただの昔話だったよ」
「あーーー……」
「何だい、苛つくね。無知な私めの為に、乙女心とやらをご教授願えますか?」
「いや、乙女心はあたしにも分かんねえけどさ、リリーは嫌だったんじゃない? ノアの足手纏いになるのが」
「は?」
ノアの殺気が少し漏れ出て、エマが慌てて付け加える。
「いやいやいや、実際どーこーってんじゃなくて! そう思っちまうのは仕方ないだろ? お前がどう思ってんのか知らねえが、とにかく周りから見たお前は超絶イケメンな紳士様だ。手に職があって、頭が良くて〜、優しくて? そんな人間が自分のために足を止めるって言ったら申し訳なく思うのがリリーなんだよ。お前の時間を、幸せを、奪っちまってんじゃねえかって、もしかしたらそういう風に考えちまってんじゃねーのかな…… とか」
エマがゴニョゴニョと語尾を濁した。ノアがハンガーラックに掛けたストールに目を移した。
「なあ、エマ。僕のする事を施しだなんて受け取らないで欲しい。僕が渡す擬似夢は、計画に参加してくれる事への対価だし、僕は君を大事な友だと、本当に––––」
「だーもー分かってるって!! 心配すんなよ。あたしがお前のお節介を断るのは、金持ちのご婦人たちに嫌われないためだ。あーいうのに嫌われて儲け先が減るのはごめんだからね。施しだなんて思ってねーし、仮に施しだったとしてもあたしは有り難く受け取る女だ! 落ちるとこまで落ちてる人間が、これ以上見栄張ってどーすんだってな!」
エマはそう言うとニカっと笑ってみせた。そうやって自分を卑下して、傷を軽くしようとするのはエマの悪い癖だった。
けれど、自分を慰めようとして発された言葉を、きつく注意することは出来なかった。
ノアはエマの右の頬を優しくつねった。
「言ったよね、君は大事な友人だって」
「へー」
「じゃあ、僕の大事な友人を貶すのは程々にしてくれ」
「へーへー」
ノアは左の頬も優しくつねった。
「明日、声を荒げた事を謝りに行くよ。もっと冷静にリリーの話も聞いてみる」
「ひってらっひゃいまへ〜」
ノアは両手を離してニッコリ笑った。
「今日はありがとう、もう遅いから送るよ。ストール、ちゃんと巻いておくれよ」
「甘やかしすぎたな」
「何か言ったかい?」
「な~んにも!」
エマは少しの後悔を滲ませて、つねられた頬をさする。
漆黒の空には星のカーテンが降ろされていた。
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