第19話 胡蝶の夢
二階へ上がり、右手の廊下を進み二つ目の扉の前で止まる。マーサがコンコンコンと優しくノックをした後に扉を開いた。
正面には大きな窓があり、レースのカーテンからは外の日差しが差し込んでいる。まだ冬の初めではあるが、暖炉型のヒーターの炎はゆらゆらと揺れている。
三人が部屋に入ると、窓際に置かれたベッドで横になっていた女性が上体を起こそうと緩慢に動いた。すかさずマーサが支えに入る。
「無理すんなよリリー、あたしらに気遣う必要なんざねーって」
「いいえ、今日は調子がいいの。二人ともいらっしゃい。随分久しぶりな気がするわ」
「調子が良いなら何よりだ。エマは三ヶ月ぶりかな? 僕は先月も来たろう」
「あら、そんなものなのね。ベッドの上の生活は退屈だから、毎日がとても長く感じるんだわ」
リリーと呼ばれた女性はそう言って冗談めかして笑った。雪のように白く長い髪は外の光を受けてきらりと輝いて見えた。彼女の顔の上半分には火傷の跡があった。時折開かれる瞳は白濁している。
その華奢な体躯故に、ダブルサイズのベッドがクイーンサイズに見えてしまう。少女といった方がしっくりくるが、歳はノアと同じく二十四歳である。
二人がロッキングチェアに腰掛けて一息ついた時には、マーサは紅茶を二杯とココアを一杯、それにマドレーヌを持って上がってきた。
マーサも一緒にと誘ったが、仕事が溜まっているからと断られてしまった。
「マーサにひ孫が出来たの。その子に会いに年末は隣町へ行ってしまうから、今のうちに仕事を片付けてくれているのよ」
「それじゃあその間家のことは誰がやんの?」
「今だって力仕事全般は家事ロボットに任せているし、食事も温めるだけの完全栄養食を常備しているわ。どうしても私も連れて行くって聞かないから、代わりのヘルパーさんを雇うことで手を打ったの」
「くれぐれも信用できる人を選ぶんだよ。大きな屋敷にか弱い女性一人とあっては、用心し過ぎても足りないくらいだ」
「もう、心配しすぎよ! 大丈夫。マーサの昔からのお手伝い仲間だそうだから」
「心配しすぎなんだよな~ノアは~」
「ねー♪」
「君達が不安にさせているんだよ……」
そうして三人はくだらない話で笑いあった。
◇ ◇ ◇
「あははっ! もう、こんなに笑うのは久しぶりだから頬っぺたが痛いわ」
「もっと聞かせてよ、ノアが子供の時の話!」
「そうねぇ。じゃあ近所の大きな犬が怖くて、私に泣きついてきた時の話なんてどうかしら」
「二人とも、もう僕の擬似夢は要らないらしいね」
「なっ! やっぱ今のなし!」
「私も、ぜーんぶ忘れちゃった!」
そう言って笑うリリーは、目尻の涙を細い指で拭った。そして、食後のデザートをねだる様な声音でノアに尋ねる。
「ね、ノア。今月の擬似夢はなぁに?」
「オーロラの擬似夢にしたよ。これからの季節にぴったりだろう」
「オーロラ! 素敵、私人生で一度は見てみたかったの!」
擬似夢での体験を、人生の経験かの様にリリーは言った。
「リリー、ちゃんと食事を摂って少しずつ体力をつければ、君だって世界中を旅することは出来るんだよ」
「そーだよ! 何も綺麗なもんを見るだけが旅行じゃねぇ! 美味いもんいっぱい食べたり、でっけースパで寛いだりさ!」
「ええ、そう…… よね」
一度は納得しようとしたが、リリーの表情は曇っていった。
「でも、目を瞑ればあんなに素敵な世界が広がっているのに、現実で辛い思いをする必要はあるのかしら」
「所詮は擬似夢だ。全部偽物の世界だよ」
「偽物でも、それが私には全てなの。こんな痩せ細った身体じゃ、庭に出るのにも息が上がる。でも夢の中なら私は自由よ。いくら走り回っても疲れない。見たこともない世界へ飛んでいける。……毎日毎日、目を覚ますたびに思うの。夢の中の私が、本物の私なら良いのにって––––」
「僕はそんな事のために擬似夢を作ってるんじゃないっ……!」
「おい、ノア」
エマに控えめに止められる。怒りの感情を隠すことができなかった。
生きることから逃げようとする彼女に対してではない。彼女にそう思わせてしまった己の擬似夢に対して、ノアは憤らずにはいられなかった。
「良い学校へ行くために勉強をして、お金を稼ぐために働いて、それと何が違うの? 美しい夢を見るために色のない今日を生きている。綺麗なあの子になりたい、お金持ちの社長になりたい、それと一緒。夢の中の私になりたい。何も変わらないわ」
「変わるさ、全然違う。学歴や収入や、そこで得た友も、身につけた技術も、その全てが生きた証だ。でも夢は醒めれば消えて無くなる。生きてさえいれば、綺麗なあの子にもお金持ちの社長にも近づくことはできる。けれど夢の中の君には、どう足掻いたってなれやしない。夢は夢なんだから」
短い沈黙の後、リリーが口を開いた。
「ねえ、エマ。マーサにお茶のお代わりをお願いできる?」
二人で話がしたいという意味なのはエマにだって分かっていた。
しかし、このピリついた空気のまま席を立って大丈夫なのかと、エマがノアをチラリと見る。ノアが、大丈夫だと言う様に頷いた。
仕方なく、エマが席を立った。あんなに楽しいお茶会だったのにと、痩せた背中が語っていた。
ガチャリと閉められたドアが終わりを告げている様だった。
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