依頼人 リリー・ホワイト
第18話 幼馴染
◆ ◆ ◆
扉を開けると、部屋の中には男が一人立っていた。ピーピピッと鳴るモニター、ガラスと金属がカチャッと当たる、白衣の擦れる音……
「お父さん」
男はその声に振り返る。
「ノア、ここへは入っちゃダメだって言ったろう?」
そう注意する声は柔らかく、こちらを見つめるアッシュグレーの瞳は優しさを帯びていた。
扉から半分だけ顔を覗かせる小さな我が子を、男は宝物の様に抱き上げた。
「眠れないのか?」
「怖い夢を見たの」
「そうかぁ、怖い夢か!」
男はハッハと笑った。
「どうして笑うの? とっても怖かったんだよ」
「ああ、すまない。ノアは凄いなと思ってね」
「ぼく、すごいの?」
「ああ、お前は特別な子なんだよ」
そう言って男は我が子の額にキスをした。
「寝室に戻ろう。お前が眠るまで手を握っていてあげるから」
「ぼくが眠ったら、またお仕事に戻っちゃうの?」
「ああ、ごめんよ。でも後ほんの少しなんだ。この薬が完成すれば、世界中の人を助けることができるんだよ」
「おくすり?」
「そう、父さんのお仕事さ。もう名前も決めてあるんだ。親しみやすくて、分かりやすい名前がいいと思ってね」
男が手にした書類には難しい数式やグラフが所狭しと並んでいた。少年にはチンプンカンプンだったが、書類の一番上に書かれた文字だけは読むことが出来た。
「どりーぜ?」
世界が白くなる––––
◆ ◆ ◆
目を覚ましたノアは上体を起こし、顔にかかった前髪を気だるそうにかき上げた。暫く寝ぼけていたかと思うと、立ち上がり顔も洗わずにデスクへ向かった。
今見た夢を出来る限り詳細に擬似夢として落とし込む。交わした会話、目にした光景、触れた感触、感じた温もり––––
この擬似夢日記はノアが擬似夢を制作する様になってから休むことなく付けられている。まだ技術が足りなかった頃は昔ながらに手帳に書き記していた。
音声の出来に納得がいかず修正を繰り返す。もっと温かかった、もっと優しかった、もっと愛情に溢れていた。もっと、もっと……
画面の向こうで微笑む男に、ノアは問いかけずにはいられなかった。
「父さん、どうして僕を捨てたんだ」
◇ ◇ ◇
吐いた息が白む日曜の昼下がり。ノアとエマは並んで通りを歩いていた。鮮やかな赤毛に染められたように、エマの耳と鼻は寒さで赤らんでいる。
見かねたノアがストールを解こうとするが、エマはそれにときめく様な人間ではなかった。
「いーよ。そんな上質なもんをあたしが巻いてたら可笑しいだろ」
「可笑しくないし、みんな他人の服装なんてそんなに気にしちゃいないよ」
エマは「お前は別だろ」と小さく悪態をつく。
言葉の意味を汲み取れないノアに、エマはますます不機嫌になった。
「とにかくいい! どうせもう直ぐ着くだろ」
「まあ、それもそうだな。帰りは大人しく巻くんだよ」
「へいへーい」
そうして二人は、グレーの屋根に白い壁の一軒家の前で足を止めた。呼び鈴を鳴らすと、優しげな老婦の声が応えた。
≪はぁい。どちら様でしょう≫
「こんにちは、マーサ。ノアです」
≪まぁ、ノア! もうそんなに経ったかい? 今開けますから、どうぞお入りになって≫
門が開かれ、二人が玄関に着く頃にはマーサと呼ばれた女性はドアを開けて両手を広げて待っていた。
いつ会っても綺麗に後ろで結われた白髪のお団子、シワひとつないワンピースにエプロン、丸い眼鏡からこちらを見つめる瞳は今日も優しく煌めいている。
「あらまあ、今日はエマも来てくれたのね! 最後に会ったのはいつだったかしら? 今日は冷えたでしょう。あ、そうそうノア! この間お隣さんから頂いた特別な茶葉があるの、きっと貴方も気にいるわ。エマはココアとレモンティーどちらの気分かしら? リリーお嬢様! ノアとエマがいらっしゃいましたよ〜!」
返事の隙を与えないマシンガントークも健在だ。しかしその間も二人の上着を預かりテキパキと部屋へと案内してくれる。
マーサはもう何十年もこの家に仕える家政婦で、お客様をもてなすのが何よりも生きがいという女性である。
ノアとエマは相変わらずのマーサの様子に思わず笑ってしまった。ここ最近IDEOの核心に迫る仕事が続いていたことで、思っていた以上に上手く呼吸が出来ていなかったようだ。
二人が笑うと、マーサも一層目元の皺を深く刻んだ。エマが元気一杯に応える。
「マーサ、あたし今日はココアがいい!」
心の霜が解けていく感覚がした。
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