第15話 種蒔き


  ◆ ◆ ◆


 目を開けると、そこは暖炉に火が灯る一室であった。

 パステルブルーとレモンイエローのストライプ模様の壁紙、白を基調にした家具、お気に入りのウサギのぬいぐるみがベッドの枕元に座らされている。

 完璧に再現された立花杏の部屋である。


 暖炉の前のソファーには立花や屋敷の使用人達が座っている。タキシード姿のノアがネクタイをきゅっと締めなおした。


 まずは部屋の中のバグを取り除く。ベッドの下にカーテンの裏、モノクル越しにこの部屋のバグが浮かび上がる。

 あらかた取り除いたかと思ったところで、ベッドでくつろぐウサギのぬいぐるみと目が合った。ノアは余裕な笑みを浮かべ、ゆっくりとそれに近づいた。


「隠れても無駄ですよ」


 ぬいぐるみを抱き上げ、瞳のクルミボタンに付いたバグを優しく親指でふき取った。部屋内のバグを全て取り除けたようで、空気が一段澄んだ感覚がした。


「さて、本番はここからだな」


 暖炉の前で今も尚静かに座る大人たちのもとへ向かう。ふかふかの絨毯の上に腰かけ、語り掛ける。


「こんばんは。お元気ですか」


 大人たちが暖かな笑みとともに迎え入れてくれる。


「元気だよ杏、今日も一日お疲れ様」

「杏ちゃん、今日はどんな一日だった?」


 表情、発声に問題はないことを確認し、ノアが応える。


「今日は美術の授業で先生に絵を褒められたよ。帰ってからはカーラと庭でかけっこをして遊んだんだ」

「それは凄い! 目が覚めたら父さんにもその絵を見せてくれないか」


 人工知能による会話もスムーズだ。しかし、この夢のカギはここだ。ここでミスがあってはならない為、様々なパターンで会話を試みる。

 明日は何をするか、週末はどこへ出かけるか、将来の夢を聞かせてほしい–––– 多様な話題を投げかけているように見えるが、ノアは一つ重要なルールを設けていた。

 そのどれもが現実世界に希望を抱かせるものであるのだ。


 ずっと夢が覚めなければいいのに、そう思わせてはいけないのだ。目が覚めればまた音のない世界が広がっている。その現実に絶望せず、むしろ明日を生きる糧にする。

 ここが杏のユートピアであってはならない。擬似夢は彼女の人生を彩るツールの一つに過ぎない、それ以上の役割を担ってはいけないのだ。


「杏、目が覚めたらもう一度その話を父さんにしてくれるかな」

「わかったよ、お父さん」

「ありがとう。愛しているよ、杏」


 会話テストも問題なし、バグもすべて取り除いた。自分の作品の出来に満足し、ノアは懐中時計を取り出した。潜ってから二時間が経とうとしていた。デバッグはすぐに済んだが、その後の会話に時間を食ってしまった。

 立ち上がりジャケットを正し、ステッキを打とうとしたその時––––


「許してくれ。愛しているよ、ノア」


 はっと息をのんだ。今振り向けば、きっと自分の望む光景が広がっているはずだ。しかしノアはそうしなかった。顔をしかめ、強い意志でステッキを鳴らした。


「許さない。真実を知るまでは」


 世界が白くなる––––



  ◆ ◆ ◆



––––一週間後––––


 五人きりになった部屋で、立花はハンカチで涙を拭っていた。

 ボディーガード役のレオがジトっとした目でエマを見ていた。無理もない、激高したヘレンが殴りかかってくるシナリオだったのに、そこにナイフが装備されていたのだから。

 エマは必死にその視線に気づかないふりを続けている。


 ノアが立花の向かいの席に座り、名刺をテーブルに差し出した。立花が不思議そうにそれに目を通す。


「夢……屋? 貴方は新聞記者の方では?」

「あれは嘘です。彼女が仰っていたことは事実なんです。私は思い通りの夢を作り出すことができます」

「なっ、そんな馬鹿な! ……でも、それじゃあ、彼女は本当に夢の話をしていただけなんですか? それなら尚更罪はないはずだ。今からでもそう証言してください! そもそも、彼女を救う手助けをしてほしいというから今夜ここに来たのに、一体これはどういうことですか!?」

「こんな時にも他人の心配ですか。大変素晴らしいことですが、貴方のその優しさが一連の事件を引き起こしたのだと、いい加減気づいたらどうでしょう。その場凌ぎの優しさよりも必要なものもあるのではないでしょうか」


 立花はまだ涙が乾かない目でノアを真っ直ぐに見据えた。


「結果論ですね。他人に厳しくすることで招かれた不幸も同じだけあるはずです。話を逸らさないでください。パターソンさんに私を襲うように、貴方が仕向けたんじゃないんですか?」


 少しの沈黙の後、ノアが口を開く。


「そうです。彼女に貴方を襲うように、けしかけました」

「何てことを––––」

「ですが全て、彼女のためです」

「そんな出鱈目を信じろと!?」

「では貴方ならどうしますか? ゾーイが犯した罪を伝えたところで、彼女は貴方と警察の繋がりを疑っています。きっとこの事件の真相も、貴方がでっちあげたものだと聞く耳を持たないでしょう。……彼女は杏さんが自殺する夢を作ってくれとまで言ってきたんですよ」


 杏の名前が出されたことで、立花の表情が曇った。


「罪のない貴方に悪夢は見せられません。けれど彼女を納得させる手立てもない。彼女に本当に必要なものは何だったと思いますか」

「私への復讐心でしょう。法が私を裁けなくとも、彼女には私を憎む権利がある。その矛先が私だけに向く限り、私はそれに真摯に応えるつもりです」


 ノアはふんと鼻で笑った。

 立花はむっとして睨むが、ノアの表情がどこか哀しさを覗かせていたものだから、何故だか責める気にはなれなかった。


「本当にあなたのその自己犠牲には感服いたしますが、私はそれが正解とは思いません。立花さん、貴方は誰かに復讐したいと思ったことはありますか」

「いいえ。嫌ったりすることはあっても、復讐なんて……」

「そうだと思いました。私はね、彼女に本当に必要なものは復讐の達成などではなく、貴方が復讐に値しないと気づかせることだと思うのです」

「復讐に、値しない……?」


 ノアは静かに微笑み頷いた。


「復讐とは兎角割に合わないものです。誰かを憎み、それを糧に生き続けることは想像以上のエネルギーを使います。こんなことは止めにしたいと思っても、抱き続けた負の感情を今更捨てることなんて出来ず、笑い方も思い出せない。私はね、貴方にも彼女にも、笑って生きてほしいのです」


 立花は不思議そうな顔をした。初対面の相手に、そんなことを至極真面目に言われたのは初めてなのだろう。


「でも、それなら……」


 目の前で哀しそうに微笑むこの男は、誰が救うというのだろうか。そう、目が訴えていた。

 ノアはそれに気づかないふりをした。


「笑って生きてほしいと言う割には、随分とやり方が野蛮でしたね」

「ハッハ! それは申し訳ありません。あのナイフはアクシデントだったんです。本当は身一つで暴れてもらうはずだったんですが。でも心配は無用です、彼女の経歴に傷がつくようなことはありませんので。そういう手筈になっています」


 事実、今回出動した警備隊は全てエリックが指揮する第二団である。被害者の立花が訴えない限り、彼女は罪に問われないだろう。

 後は供述書から夢屋やノアの文言を隊長権限で削除するだけだ。


 立花の無実が分かった時点で、ヘレンとは連絡を絶つべきだというレオの意見もあった。

 しかし既に夢屋の話をしてしまった手前、ヘレンにはそれが全て嘘だったと信じさせる必要があった。それには大勢の前で、自分は騙されたのだと思わせる方が確実だという結論になった。

 それが今回のお遊戯会の開催理由だ。


「こんなことで彼女が救われたとは思えませんが……」

「ご謙遜を。貴方は確かに彼女に種を蒔いた、真実と事実を見分ける種を。それで十分なんですよ。それに水をやり、陽を当て、育むか否かは彼女が決めることです。貴方はその選択肢を与えることができた。他でもない貴方にしか出来ないことです」


 どれだけ他人から事件の真相を聞いたところで意味はない。ただ、この立花という男と対峙さえ出来れば、気づくチャンスは訪れると思った。

 今まで自分は見たいものだけを見ていたのかもしれないと。

 そして、どうやらそれは上手くいったらしい。エリックの胸元の無線機に通信が入る。


「こちらロバーツ、何かあったか。……様子は落ち着いているんだな? いや、報告ありがとう」


 エリックが立花に向かい直って言った。


「ヘレン・パターソンが貴方と話がしたいらしい。以前屋敷に乗り込んできた時は、庭に杏さんがいらしたので追い返してしまったと仰ってましたね。我々警備隊の取調室なら、誰かに危害を加える心配はありません。本人も落ち着いている様子です。貴方の口から、ゾーイさんと何があったのか教えてほしいと言っています。もちろん、断って頂いても構いません。なにせ殺されかけたんですから。どうなさいますか?」


 立花は即答だった。


「お会いします。彼女がそう望むなら。けれど真相を伝えるというのは、どうなんでしょうか。自分が知らない愛娘の一面…… 知らなければ良かったと思うかもしれない。聞かなければ、彼女はずっと被害者でいられる。今まで責めてきた相手が一転、迷惑をかけてしまった相手になってしまう。彼女は、それで幸せなんでしょうか」


 ノアが口を開く。


「愛しているからこそ、知りたいと思うのでしょう。ゾーイはもう戻ってこない。彼女の新しい一面はこの先一生見られない。それならば、汚いと思える一面でも、ヘレンに取っては何よりも知る価値のあるものなんです」

 

 そう語るノアを立花は静かに見つめた。そして小さくため息をついた。


「確かに、ゾーイさんの罪を隠すと言うのは、本当の意味での優しさとは言えなかったのかもしれない…… 良いでしょう、今回は私が折れます。パターソンさんが罪に問われないという話、それだけは裏切らないでくださいね」

「勿論です」

「それで、こんな大芝居を打って、貴方達は一体何がしたかったんですか? 純粋に彼女を救いたいようには到底見えませんが」

「仰る通りです。彼女を救うのは副次的なものに過ぎません。前置きが随分長くなりましたが、私は貴方とお話しするために今回の場を設けました」

「私と、話?」


 ノアは前かがみになり立花を見上げるように顔を上げた。

 垂れた前髪から覗く、緑がかったアッシュグレーの左目がきらりと光る。まるで宝石のような瞳を立花はぼーっと見つめてしまう。


「話していただけませんか、貴方が援助をしている組織–––– IDEOに関するお話を」

「貴方は、本当に…… 何者なんですか?」


 ノアはそれには答えなかった。

 その静かな笑みに、立花は固唾を呑んだ。

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