第8話 酒と金
マーガレットのネックレスに取り付けた小型カメラ付きトランシーバーから一部始終を見聞きしていたノアは、一件落着といった様子で椅子の背にもたれかかった。
その時背後に何者かが立っていることに気が付き、ノアは瞬時にジャケットの裏側に忍ばせていたナイフを抜き、その者の首元へ突きつけた。
「ちょーーーーっと待った!! あたしだってば!!」
驚いた拍子に後ろに倒れそうになり揺れる赤毛。やせ形の体躯、そこから伸びる傷だらけの手をノアが咄嗟に掴む。
ノアも突然立ち上がったものだから、拍子で椅子が倒れてしまった。訪れる静寂をノアのため息が破った。
「はぁ…… エマ、ノックをするくらいの常識は兼ね備えているかと思っていたんだが」
「し・た・よ!!!! 何回も!! ヘッドホン付けて画面にくぎ付けになってる方がわりぃだろ!?」
「おや、それは失敬」
エマはジトっとノアを睨む。「絶対悪いと思ってねぇ」という気持ちをたっぷり込めて。
ブーブーと悪態をついて、それまでノアが見つめていたパソコンの画面に視線を移す。
「お、彼女上手くいったのか? ……なんだかバーで会った時よりさっぱりしてんな」
「途中どうなることやらとヒヤッとさせられたがね、何とか丸く収まったよ。後で口座に成功報酬を振り込んでおくから確認してくれ。と言っても、本番はこれからなんだけどね」
「やりぃ!! 上乗せしてくれたってあたしは全然構わないからな~♪ ん、これ今回の夢か? ノア、腕落ちたか?」
エマは別のモニターに映し出されている擬似夢を指してそう言った。笑顔は決して崩さないが、そこにたっぷりの不服さを滲ませてノアは反論する。
「冗談はよしてくれ。そんな稚拙なものが僕の作品なわけないだろう。それはアイザック・ネルソンの擬似夢さ。それのお陰で、折角作った僕の夢はおあずけになったわけだけど」
秘書から受け取ったアイザックの夢は至極単純なものだった。
窓も扉もないただの立方体の部屋の中央に、後ろ向きの女性が一人。いかにも金持ちといった風貌の毛皮のコートとブロンドの長い巻き髪の女性。そののっぺらぼうの女性をただ眺め続ける、たったそれだけの夢だった。
世の中に出回っている、アマチュアが作った擬似夢というのはこの程度が限界だ。
海や草原といった誰もが想像しうる景色というものは比較的再現しやすいが、特定の人物を描き出すともなるとドリーゼの大量摂取が必須となる。
金さえあればドリーゼを何本でも打って、夢を作り続ければいいと思うだろうが、そうは上手くいかないものだ。
あまりに脳波が乱れていると、入院という名の強制入信を課せられる。無論、無事に退院する者はいない。IDEOは邪魔な同業者を潰せるわけだ。市場に出回っている夢の殆どはIDEO製で、その目を搔い潜って、このようなアマチュアの作るオーダーメイド品が存在する。
どれだけ擬似夢が高値で売れようと、入院させられては意味がない。だからこの程度の、入院を課せられないレベルで作り出せる擬似夢をそれなりの値段で売るのだ。
ノアに言わせればこんなものは擬似夢とも言い難いが、中には映像の域を出ず、擬似夢として機能しないものを夢と騙り売っている輩もいるのだから、これはまだマシな方だ––––
––––擬似夢内の人物や場面は自分の脳内から補完する傾向がある––––
アイザックが夢の中で会おうとしていた人物は、誰が見ても明白だろう。
マーガレットはこの擬似夢を見るや否や飛び出していった。走り出す彼女に急いでアイザックの擬似夢チップと通信ネックレスを渡したのだった。チップは隙をみて秘書に戻すだろう。
「ねえ、エマ」
「あんだよ」
「もし君がアイザックだとして、マーガレットとはどう足掻いても結ばれないとなった時、君ならどうする? 夢の中でならいつでも愛する人と二人きりになれる、そんな夢に君は縋るのかな」
「あたしがそんな女々しく見えんのかよ! あ~…… まあたまにゃあ見るわな、落ち込んだ時とか、仕事でムカついた時とかさ。けど、夢は夢だ。夢の中の振り向いてくれない相手より、現実で一緒に酒飲んでくれる奴の方がもっとずっと大事じゃねえか? 知らねえけど!」
「……やっぱり、君が友人でよかった」
「だぁーー!! 嘘つけ! お前今絶対に馬鹿にしただろ! そうだよあたしには恋愛だなんだは分からねえよ、金と酒が何より大事でわりぃか、こらぁ!」
はいはい、とエマをいなしてソファーに座らせる。まだ悪態をつく彼女を放ってノアはパントリーへ紅茶をいれに向かった。
そうして彼女には聞こえない小さな声でぽそっとこぼす。
「いつまでも、そのままでいてくれ。僕がいなくなっても」
アッシュグレーの瞳には、ほんの少し悲しみの色が帯びていた。
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