第7話 善人と愚者 2


 幹部会議が思ったよりも長引いて、アイザックは苛立ちと疲弊を隠せていない様子だ。


「今日もあの夢にしよう……」


 エントランスに着くと苛立ちの種が目に入り、余計に彼の心がかき乱される。いつもの冷静沈着な紳士の仮面が剝がれかけるが、そんな自分を抑えきれない。


「何をしているんだ、カーター。車の手配はどうした」

「ネルソン様! く、車ですね。はい、今すぐ……」

「おい、いったい今まで何をしていたんだ? 必要な書類は渡さないし、車の手配もしていないとは…… お前は私の秘書だろう? 女性に現を抜かす暇があるなら、まずは自分の仕事を全うしろ!」

「じょ、女性!? まさか、見ていたのですかっ……」


 その言葉と、秘書の慌てふためく動揺の顔を前に、ついにアイザックの理性は失われようとしていた。大衆の面前で秘書を𠮟りつけようとしたその瞬間––––


「ザック!!」

「っ!? マーガレット…… 嬢。どうされたのです、髪も服も乱れているじゃないですか。それに、先ほどもお伝えしたでしょう。こんな人前でザックと呼ばれるのは––––」

「いやよ、何度でも呼ぶわ、ザック! 私、貴方に言いたいことがあるの」


 会議を共にした男性陣はバツが悪そうに視線をそらし、たまたま居合わせた貴婦人方は聞こえないふりをしながらも、チラチラとこちらを伺っている。何も知らない者は心を躍らせ、アイザックの立場を知る者は半ば軽蔑に近い眼差しを向ける。


「あ、あぁ。この間のお父様も交えた商談のことですか? そんなに急いでお答えいただかなくても良かったのに。 ……場所を変えましょう。落ち着いた方がよさそうだ。カーター、応接室を押さえてくれ。マーガレット嬢のためにタオルと冷たいカモミールティーもだ」


  ◇ ◇ ◇


 応接室にはアイザックとマーガレットが二人きり。

 マーガレットは渡されたタオルで汗をぬぐい、冷えたカモミールティーをグイっと飲み干した。髪は乱れ、化粧も落ち、目は腫れている。

 マーガレットは腫れた両目でしっかりとアイザックを見つめる、その瞳をアイザックは見つめ返せなかった。いつもの美しく飾り付けられた姿よりも、胸の高鳴りを抑えられないようだ。


 居心地が悪そうに、彼は話し始める。


「少しは落ち着きましたか? それで、一体どういうことか聞かせていただきたいのですが」

「私、貴方を愛しているの、この世界の誰よりも」

「なっ! 何を馬鹿なことを……」

「ええ、そうです。私は馬鹿です、大馬鹿者です。自分のことばかり考えて、自分こそが貴方に一番相応しいと信じて疑わなかった」


 アイザックは俯き、両手をぎゅっと強く握りしめる。


「ザック、でもそれは間違いだった。私は貴方に相応しくない。いつだって自分のことばかりで、私の邪魔をする存在は蹴落としたって構わないと思っていた。けれど貴方はいつも純粋で、他者を思いやれる人。そんな貴方の横に並ぶ資格など私にはないわ」


 アイザックは更に強く両手を握りしめる。爪が食い込みそうな勢いだ。


「さっきは気持ちが昂って、お恥ずかしい姿を見せてしまったわ。ごめんなさい。エントランスにいらしたご婦人達には覚えがあります。今度お茶会に招いて、誤解を解いておきますわ」


 マーガレットはもうすっかり落ち着きを取り戻していた。


「私、もう婚約者の地位を奪ってやろうなんて思っておりません。けれど同時に、もう誰にも、自分自身にも嘘をつきたくはないのです。私ね、本当はお化粧が嫌い、そばかすだらけの素顔で過ごせたらどれだけ楽だろうって思ってた。お偉い方々と腹の探り合いをするより、貴方と過ごす午後のひと時が幸せ」

 

 マーガレットは、真っ直ぐにアイザックを見つめた。その目には殿方を落とそうというような厭らしさはなかった。ただ、一人の乙女が、自分の気持ちに終止符をつけようとしていた。


「笑うと声が掠れるところも、お仕事に真剣に打ち込む姿も、私のお気に入りの紅茶を覚えてくれているところも、全部全部愛おしい。貴方が振り向いてくれなくとも、周りから行き遅れと笑われようとも構いません。貴方への思いを騙るのなら、私の人生そのものが偽りなのです。そんなものはまっぴらなのです」


 そこまで聞くと、我慢の限界だと言わんばかりにアイザックは勢いよく立ち上がった。普段の温厚な彼の面影は微塵もない。


「いい加減にしてくれ! 俺の気持ちも知らないで。俺がどれだけ君を愛していたか、君を欲していたか知りもしないで。自分だけが想っていたように言わないでくれ!」


 初めて目にするアイザックの態度に、マーガレットは口を開けたまま固まってしまう。  


「どれだけ苦しかったと思う!? 俺は一代で事業を築き上げた成り上がりで、君は由緒正しいウッズ家のご令嬢だ。周りはこんな俺を蔑み、ちっとも認めようとしない。あの手この手で事業を失敗させようとする屑ばかりの世の中で、しがみ付くのが精一杯だ。そんな俺と一緒になって、君が幸せなはずがないだろう」

「ザック……」

「それでも君を引き留めたくて、善人の仮面かわを被った。君はいつも俺を心の清らかな人だと褒めてくれるけれど、全然そんなことない。俺が優しくするのは君に良い人だと思われたいからだ。今日だって君とカーターが世間話をする仲だって知って気が狂うほど嫉妬した。更には俺には言えない関係なんじゃないかと最低なことまで考えて……」


 向かい合って座っていたマーガレットは、ゆっくりとアイザックの隣に移動した。


「秘書さんには…… そう、ザックとのことを相談していただけなの。本当にそれだけの関係よ。それよりもザック、そんなにも私を想ってくれているのに他の女性と婚約したのはなぜ?」

「それは、本当に政略結婚なのさ。俺は新しく始めた事業の技術を、向こうからは後ろ盾を受ける契約だった。婚約者殿にはすでに心に決めた男がいるようだし、俺には言うまでもなく、君がいる。お互いの目的が達成されたら婚約も円満な形で解消する取り決めだったんだ」

「そんな…… 私ちっとも知らなくて。あんな大勢の前でなんてことを––––」


 慌てるマーガレットの頬にアイザックが優しく触れる。今度は彼が焼けてしまうような視線を彼女に向ける。マーガレットはどんどん顔を赤らめさせるが、アイザックは逃がすつもりはないようだ。


「けれど、ここまで熱烈な告白を受けて、待ってくれとは言えないよな。俺ももう自分に嘘はつかないよ。君を離しはしないし、俺を陥れようとする奴らは返り討ちにしてやる。婚約はすぐにでも解消するよ」

「ザック…… 貴方印象がだいぶ違うわ」

「前の紳士的なアイザック・ネルソンがお好みなら戻しますよ? 貴方のためなら私は何者にだってなりましょう」

「いいえ。以前の紳士様も素敵だけれど、ありのままの貴方が好きよ」

「俺も、君のそばかすが愛おしくてたまらないよ。マーガレット」

「駆け引きなんてしなければよかった。私たちって本当馬鹿ね」




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