第6話 善人と愚者 1


 水曜の午後に再びマーガレットが事務所にやってきて、夢の最終チェックを行った。


 事務所の奥には擬似夢を見るためのスペースが設けられている。

 ビロードのカーテンを開けるとそこには小さな書斎程の空間が広がっていた。壁一面に世界各国の物語が整頓され、中央にはダークブラウンの牛革のリクライニングチェアが一脚、その傍らにはサイドテーブルと注がれたばかりの紅茶が一杯。部屋にはキャンドルのオレンジ色の炎が揺らめき、仄かに白檀の香りが漂っている。


「素敵…… ずっとここに居たくなりますわ」

「私の夢は殆ど脳に影響を及ぼしませんが、念には念をいれております。IDEOのもの程精巧ではありませんが、簡易的に脳波を測定できるスキャナも用意しております。少しでもあなたの脳波が乱れれば、すぐに中断いたしますので安心して夢をご覧ください」

「そうさせていただくわ」


 マーガレットは既に夢見心地といった様子でチェアに身を預け、紅茶をすすり、白檀の香りに酔いしれた。

 存分に心を落ち着けたタイミングでスキャナを装着し、ノアに伝える。


「お願いします」

「良い夢を」


  ◇ ◇ ◇


「本当に信じられない。こんなことが可能だなんて」

「ご満足いただけたようで何よりです」


 スキャナを外したマーガレットは半ば放心状態だった。今しがた見た光景を再度脳裏に浮かべる。純白のワンピース一枚の純粋無垢なもう一人の自分に、彼女は思わず涙しそうになった。


 自分はいつからこんなにも薄汚れてしまったのだろう、婚約者なんて死んでしまえばいいと願い、自分こそが相応しいのだと信じて疑わない。なんて傲慢な人間なのだろう…… そんなことを考えているのかもしれない。


 けれど、脳波の安定こそが幸せの基準となったこの世界では、マーガレットのような価値観こそが正常なのだ。高級品で身を包み、権力を持つ者達と時を共にしていればこの平穏が続くと信じている、いや、信じていたいのだ。

 マーガレットもまた犠牲者だ。IDEOが提供する偽りの幸せに踊らされる、人はみな道化である。

 

 擬似夢は所有者の許可なく閲覧するだけでも高額な罰金が課せられる。改変ともなれば懲役刑も十分にあり得る危険な綱渡りだ。

 実際に出来上がった擬似夢を前に、マーガレットが怖気づく可能性も十分にあった。しかし、彼女は覚悟を決めた瞳でノアに向き直る。


「問題ありません。この夢を彼の夢に組み込んでください」

「ええ、お任せください」


 ノア・クラークは微笑んだ。キャンドルの揺らめきに合わせその瞳はキラキラと輝いた。

 

 そして決行の日はやってきた。



  ◇ ◇ ◇


≪チップを受け取ったわ≫

「ここまでは順調ですね。では事務所でお待ちしています」

≪わかっているわ。え、ちょ、ちょっとまって––––≫


 そこまで言うと通話にノイズが混じる。アクシデント発生か、しかし通話は切れていない、雑音が混じり声も遠いが何とか会話は聞き取れた。


「ザック! あなた今は会議じゃなくって?」

「マーガレット嬢、ごきげんよう。こんなところでお目にかかるとは。いえ、必要な書類が足りなくてね、秘書を探しているんだが見当たらなくて……」

「あ、あらそうだったの! 彼なら今はエントランスにいるんじゃないかしら」


 まずいな、とノアが眉間に皺を寄せると、予想通りの返答が無線越しに聞こえてきた。


「何故私の秘書の居所を貴方がご存じなのですか?」

「それはその…… 先ほどエントランスで偶然お見掛けして! 簡単な世間話を交わしただけよ、本当に!」


 暫くの沈黙の後、納得しきれていない声でアイザックが応えた。


「そうでしたか、貴重な情報をありがとう。早速行ってみます。 ……それから、マーガレット嬢。私は婚約者がいる身です、もう昔のように愛称で呼ぶのは貴方の名誉のためにも止められたほうがいい」

「えっ。そ、そうですわね! すみません私ったら、そんなことにも気が回せなくって…… 早く向かわれたほうがいいわ、秘書の方も移動されてしまうかも」

「そうさせていただきます。ではお元気で」

「お元気で。……アイザックさん」

「……」


  ◇ ◇ ◇


 事務所に入ってきた彼女の顔はノアの予想通りのものだった。一先ず受け取ったチップを読み込ませ、その間に彼女をソファーへ促し、白いレースのハンカチを手渡す。


「貴方は笑っているほうがお似合いですよ」

「でっ、でも、クラークさん! これのどっどこが、笑えるって、ひっ、言うの!」


 マーガレットが感情を昂らせ子どものようにしゃくり上げても、ノアは慌てる素振り一つ見せない。落ち着いて紅茶を注ぎ、マドレーヌを用意した。


「朝から食事も摂っていないんじゃないですか? 今日はずっと緊張続きでしたからね。まずは一息つきましょう」


 他人事だからそんなに落ち着いていられるんだと不満をあらわに、マーガレットは紅茶を一口飲む。

 すると胃にじんわりと温かい感覚が染み渡り、不思議なほどに冷静になった。彼女は次にマドレーヌを大きく頬張った。きっと普段ならそんなみっともない食べ方はしないのだろうが、ノアはマナー違反だとは思わなかった。


 マーガレットがぽつりぽつりと話始める––––。


「きっとお見通しでしたでしょう、夢を見てから自信をなくしてしまったと」

「けれど貴方は行動すると決意した」

「そう、そうね。そして行動した結果がこれ。チャンスさえ貰えれば彼を振り向かせられるって? あの時の私を引っ叩いてやりたい。醜くて、惨めで…… 笑っちゃうわ。とんだ愚か者じゃない!」

「そうですね」

「へ!?」


 思いがけない賛同にマーガレットの声も上ずってしまう。愚痴には解決策よりも共感を、とはよく言うが、そこは本当に共感をするタイミングだろうか? そう言いたげだ。

 ノアは変わらない笑顔で続ける––––


「貴方は醜くて、惨めで、愚か者です。けれど、それがなんです? それで誰が迷惑を被るというのです。世の中には、我こそが善人だと信じて疑わずに他人を虐げる人間がそこら中にいます。虐げる行為そのものを善行だと宣う者達が今日もどこかで笑っているのです。貴方は自分の愚かさに気づき、そしてそれを省みて律しようとしている。誰が何と言おうと、自分がどう思おうと、貴方はとても美しい」


 その時、データのスキャン完了を知らせる通知音が鳴った。アイザックの擬似夢を確認したノアは目を細めて振り返る。


「それに、愚かなのは貴方だけではないようですよ––––」

 

 


 

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