第6話
雨が川の水面を打ち、耳障りな音を響かせる。行く先を照らす光源などどこにもなく、百人ずつを乗せた船はまるで虚空を彷徨っているかのようだ。船といっても現地で調達した丸太を組み合わせて作った筏のようなものだった。しかし、丈夫に作ってある。馬たちも今のところ暴れる気配はない。軍馬なので水を恐れないように調練してあった。
「前方に大きい岩が突き出ています。右に五、左に三。次に激流地帯に入るので後ろに八、斜めに一だけ。」
この暗闇にあっても当然の如く川の様子が見えているサイカが符牒を淡々と伝え続けていた。符牒は音や松明を通じて後方の船へと伝えられる。
「主人殿。あと半刻もしたら中洲へ出ます。我々が発ったところから五里といったところです。」
サイカの鷹の目は宵闇にあって暁星の如く爛々と光っていた。いったいどこまで見えているのだろうか。目が見えないぶん人間が無くしてしまった第六感でものを見るセシリアと常人が見ることのできない景色を見ているという点では同じだがサイカの目はただ視覚だけが異常に発達している。その気になれば水平線の先まで見通せると言っていた。信じられないがサイカのことだから本当なのだろう。
見えないセシリアと見えすぎるサイカ。どちらも両極端な異能と言っていい能力を備えている。
甲板にでて体を捻ると小気味のいい音がポキポキとなる。船底に兵とともにすし詰めの状態で押し込まれていたので筋肉がすっかり凝り固まっていた。
遥か後方の空が赤く染まっているのが見えた。マハルが奇襲をかけたのだろう。案外早かった。
アキバツはこの戦に対するクルマユの対応がどうも引っかかってならなかった。相手の攻撃意図を察知して出鼻を挫き、敵軍を分断して絵に描いたような各個撃破がクルマユの本領だったはずなのにわざわざ砦を築いて後手に回るなど全くもってらしくない。あんな迷宮を用意しておいてジンビらを羽目殺そうとしていたならばどこかお粗末と言わざるを得ない。あそこの罠は大きく見積もっても三万を止めるほどにしかならない。数日間、耳をすませ観察し続けた結果導き出した答えだ。だが、あの迷宮が元からアキバツを閉じ込めるために作られたものならば納得がいく。
遠征軍の将軍らに賄賂を送ってアキバツ軍だけを先行させたのはクルマユだろう。アキバツはジンビらへの失望か、はたまた自らへの怒りに目が曇り見抜けなかった。万が一わかっていたとしても罠に飛び込まざるを得なかった。だが、そんなことはどうでもいい。問題はなぜそうしたかだ。
アキバツ軍を引き込み、離脱させれば残るは質の悪い盗賊のような禁軍だけ。答えは明白だ。軽騎兵による奇襲。
大軍の中核を叩き、完膚なきまでに潰走させる。大胆な戦略だ。
船が次々と浅瀬に乗り上げていく。これ以上水路を進むのは無理なようだ。雨は上がったがあたりはまだ暗く、身を斬るような寒気が襲ってきた。しかし、アキバツは兵たちに火を焚かせなかった。戦の前に筋肉を弛緩させては緊張もほぐれてしまうからだ。それでも塩の効いた湯餅を口に入れると体が内側から温まってきた。兵たちに武器の点検をさせるとすぐに隊列を整えさせた。流石鍛えに鍛えた精鋭たちだ。乱れは全くない。こんな奴らと戦えるのがアキバツの現在唯一の誇りであり心の支えでもあった。
「サイカ!先導を頼むぞ。」
「お任せを。」
「ゴロ!」
「旗を掲げろだろ?」
ニヤリと笑った。剣を一度抜き、頭上で回した。
それから一昼夜駆け通した。馬だけは潰さないように四刻だけ休ませた。日が昇り辺りが金色色に染まりだした。朝露がキラキラと反射して世界が美しく色づき始める。馬上にてしばし時を忘れて観入ってしまった。しかし、遠くから伝わる争闘の気配が燃える心を加速させる。
見えてきた。青地に金で縁取りした旗が禁軍の波を自在に駆け回っている。キンリョウ国近衛兵の旗だ。近づいている。近づいている。目の前だ。雄叫びをあげた。突っ込んだ。
禁軍の脆弱さには唖然とするほどだった。ただ突っ込んだだけでも面白いように崩れていく。武器を持って立ち向かおうという兵は一人もいなかった。大将であるジンビは戦場の真ん中に残されていた。テンイもスルガイも逃げ出していた。あまりにもつまらない戦だ。それに引き換えアキバツの軍は遠目から見ても闘気が立ち昇る素晴らしい軍だった。
クルマユはアキバツのことを思い浮かべた。間違いなく戦の天稟を与えられた男。あれほどの男を一将軍の地位に留めておくなど呆れを通り越して怒りすら湧いてくる。アキバツが軍権を握ればキンリョウ国の半分が呑まれることすら現実として考えられるのだ。
一個の武人としてアキバツと戦いたかった気持ちもある。だが、アキバツ軍と本気でぶつかれば相当の傷を負うことは確定だ。それでは禁軍たちを追い払うことは難しくなる。此度の戦はあくまで国土防衛のためのものだった。
ジンビが命乞いを叫んでいる。金やら地位やら宝やらと醜い声が聞こえてくる。クルマユは僅かに眉を顰め、腕を振った。それを合図にジンビの首が刎ねられた。
「槍に刺して晒しておけ。」
副官のサケツに命じた。
「つまらない戦でしたね、父さん。」
「戦場ではせめて殿と呼べ。」
サケツもクルマユと同じ気持ちを抱いていたようだ。それをわざわざ口に出すことでクルマユの行き場の無い怒りを発散させようとしている。サケツはまだ若く、おちゃらけているように見えて気遣いのできる息子だった。
普段ならありがたく感じただろうが今のクルマユは怒りを抑えきれずにいた。クルマユは既に五十の半ばを越していた。気持ちは衰えていなくとも体は嫌でも老いに蝕まれていた。いつ死神が寿命を吹き消してもおかしくなかった。その前に、生涯の最後に華々しく、血がたぎるような戦がしたかった。だからこそこんな虐殺に近い戦をせねばならなかったことに怒りが湧くのだ。
「殿、私は必ず殿が望む戦を見つけてきてみせます。だから、今回は抑えてください。」
「ふん、わかっている。さっさと帰還す…」
最後まで言い終わらなかった。何かが肌を打つ。全身の毛が逆立つ。来る。何かが近づいてくる。来た。軍に凄まじい衝撃が走った。
地が揺れ空が咆哮をあげる。いや、一人の男の咆哮だった。闘気が炎のように燃え盛る赤備えの騎兵たち。その先頭に男はいた。
「アキバ…」
赤騎兵は眼前を風のように通過した。あまりの速さに一つの赤い獣にしか見えなかった。
気づいたら三万の歩兵を断ち割られていた。奇襲の後の掃討戦のために連れてきていたものだ。しかし、小さくまとまろうとし、決して散らばらない。そう鍛えてある。だが、赤騎兵が断ち割った傷に歩兵が水のように染み込んでいった。まとまろうとする味方の間に入りこみ、内側から広がりさらに大きく乱していく。赤騎兵が反転し、楔形でもう一度突っ込んでいった。後を追うようにサイカとゴロの騎馬隊が続く。咄嗟に騎馬隊を三つに分けて赤騎兵の背後を突いた。二つに割れる。いや自ら割れたのだ。
二つで片方を包み込もうとし、一つでもう片方を牽制する。これでアキバツが取れる選択肢は逃れる以外にない。ただし、半分は見捨てなければならない。
「なにっ。」
思わず声が出た。アキバツは逃れようとするのではなく、むしろ前へと突っ込んできた。咄嗟に反応できず貫かれた。アキバツ。目の前にいた。馳せ違う。剣と剣が火花を散らす。雷に打たれたような衝撃が襲ってきた。振り返る。今の一撃で五十は倒された。
アキバツはそのまま軍を一つに合わせ、牽制していた軍を押し包んでいた。
味方が次々と馬上から落とされていく。憤怒が身体中を巡る。反転して包囲を外側から破ろうとした。しかし、迫った時には既に離れていた。三千はいた騎兵が半分は倒されていた。アキバツは既に駆け去り、戦塵の中で姿を眩ましている。コケにされた。たった一度馳せ違っただけだがいいように弄ばれただけだった。唇を血が出るほど強く噛んだ。だが、口に広がる鉄の味が失いそうになる冷静さをなんとか保たせてくれた。全体の損害は三千にのぼっている。だが、今のは奇襲に等しいものである。まだ、取り返せる。こちらの戦力は敵の数倍なのだ。
漸く態勢を立て直した歩兵で二つの縦隊を作り前進させた。魚鱗を組んでいる敵の歩兵とぶつかる。敵は徐々に下がって隊形を弓形に変えつつ威力を最小限に抑えている。
ゴロがしきりに動き回って歩兵を乱そうとしてくる。だが、サケツが抑え込んでいる。
ゴロの用兵は変幻自在で時には石の如く鈍重で硬くなり、時には霞の如く目を離せば消えてしまいそうになる程無形となるような動かし方をする。サケツも何度か裏を書かれてた。
しかし、サケツはクルマユと長く轡を並べて戦ってきた歴戦の戦士だ。
ゴロとサケツが馳せ違う。ゴロは反転した。まるで一体の蛇のように幻惑しながら噛み付いてくる。しかし、サケツの騎馬隊は二つに割れ、ゴロの攻撃を透かす。
騎馬隊が通っている途中で入口を閉じた。蛇が分断される。自ら割れたのではない。出口も閉じて頭を締め上げた、硬い。押しても押しても決して崩れず、中へ中へと縮こまるのだ。しかし、それが突如弾けた。千が五百になり、十になりまた千になる。目まぐるしく駆け回って騎馬隊をズタズタに切り裂いていく。はっとするような用兵だ。数の差を全く感じさせない。目の前の小魚が次には鮫となって牙を突き立ててくるような感じなのだ。しかし、どれだけ幽玄な動きでも一定の法則がある。それを紐解いていけば指揮官を辿れる。小魚を一匹一匹捕らえてはキリがない。包囲を二重、三重と外巻きから強化し、徐々に動く空間を潰していく。ついに騎馬が一つに纏まった。ゴロ。先頭にいた。追い詰められてなお不敵ないい目をしていた。突出してきた。差し違えて死ぬ気か。しかし、相打ち覚悟の者が醸し出す、特有の悲哀な覚悟が感じられない。何をする気だ?歩いて百歩の距離になった。
不意に寒気が襲ってきた。咄嗟に体を逸らした。肩に鈍い痛みが走った。気づいたら空を見上げていた。倒れているのか。それを自覚するのに数瞬を要した。両脇から抱えられて戦線を離脱していく。ぼんやりとする視界の中で次々と味方の頭が弾けていく。
(何をされたのだ?)
ゴロの手が霞むほど早く動いたかと思えば落馬していたのだ。
ヒュッと獣の咆哮のような音が微かに聞こえてくる。顔に温かい液体が降りかかった。見上げる。思わず息を呑んだ。サケツを抱えたいた男の一人の頭が砕けていた。力が緩んで再び地面に叩きつけられた。背中には痺れるような感覚が広がる。だが、正体が見えた。礫だ。小石ほどの礫がゴロの手から飛燕の如く飛び出して、兵の頭を容易く砕いたのだ。
「ご無事ですか?サケツ殿。」
再び兵が抱え上げようとしたがその手を振り払った。礫が当たった肩を触ってみた。ゴリゴリと骨が砕けた感触が伝わってくる。しかし、布でしっかりと固定すれば戦えないほどではない。
「いいから新しい馬を持ってこい。あの小僧に目に物見せてやる。」ゴロは既に包囲を抜けて走り去っていた。だが、二千騎ほどがピッタリと張り付いている。
すぐに新しい馬が引いてこられた。飛び乗り旗を掲げさせた。歓声が上がった。
サイカは三万の歩兵をしきりに撹乱していた。敵は五段に構えて味方の歩兵を押し潰そうとしていた。まともにぶつかれば数の差の戦いになる。だが、ハラムとハラルは巧みに魚鱗を動かして圧力を上手く逃がしていた。サイカは騎馬を三段に分け、順番にぶつからせた。一段がぶつかれば前面を入れ替えて二段が、次に三段、そしてまた一段という具合だ。しかし、少し押し込んだらすぐ引く。これを繰り返すことで敵は目の前の歩兵に上手く力を注ぐことができないでいる。
今のサイカは敵にとって相当に煩い存在のはずだ。しかし、敵も甘くはない。四千騎ほどがハラルの側面を突こうとする構えを見せてきた。サイカはそれを直前まで見過ごすふりをしながら一部を静かに迂回させた。
敵の騎馬隊の速度が上がる。が、騎馬隊が僅かに乱れた。迂回した部隊が突っ込んだのだ。サイカもそれを合図に突っ込んでいた。槍の隊形が敵の騎馬隊を二つに割る。反転した。敵は二つに分かれたままぶつかってきた。一本の槍と二本の剣が火花を散らす。数度ぶつかって、サイカも槍を四つに分けて二本の剣を弾き飛ばした。敵は一つに合わさり鶴翼で包もうとしてくる。しかし、その時にはサイカは方陣を組んで中央をぶち抜いていた。敵は横に広がっていた分だけ縦の防御が薄くなっていたため、鉄槌に打たれたかのように大きく崩されていた。だが、まだ完全には崩れていない。指揮官を中心に纏まろうとしている。サイカは上体を馬上で寝かせて矢を番えた。戦塵と血煙で戦場は敵味方が識別できないほど曇りきっていたが、サイカの目には指揮官の表情に至るまでが全て見えていた。鼓動が高まる。獲物を前にした時に感じられる肌がチリチリとする感覚がサイカはたまらなく好きだった。鼓動がさらに脈打つ。興奮が極限まで高まり、頭が真っ白になる。気づいたら九矢を射ていた。一本も外れず敵の額を射抜いていた。その中には指揮官も含まれていた。
サイカは感情を覚ますように大きく息を吐き、二千騎に追われているように見えて引き回しているゴロの援護に向かった。
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