第5話
翌日、軍を進めた。大軍と自分たちだけで戦え。この理不尽な命令に反撥する兵が殆どであったがアキバツ自身を筆頭として、将校達が粘り強く話して納得させた。
気の緩みは全く見られず闘気は漲っている。兵糧と装備はセシリアのお陰で充実している。セシリアは成すことが全て緻密で一切の遺漏が無い。塩の道の掌握をはじめとした物流網を管理する脳力はもはや超人的と言っていい。目が見えない分常人には見えないものがハッキリと見えるのだそうだ。
アキバツにはいまいち理解ができないことだ。
奇襲に備えて、いつ戦闘になってもいいように陣を組んで移動する。三千の歩兵は魚鱗を組み七千の騎兵はアキバツが率いる直属の赤騎兵が三千、その他のゴロの二千、サイカの二千がそれぞれ左右中央にいる。
赤騎兵はアキバツが直接率いているがゴロやサイカの下にはそれぞれ十ほどの小隊長らがいる。
原野に踏み込んだ。違和感が全身にのしかかる。鳥肌が止まらない。アキバツは辺りを見渡した。緩やかな丘陵が無数に広がる起伏に富んだ地形だ。大軍であろうと容易に隠れられる。それを警戒して斥候を頻繁に出しているが今のところ埋伏はないようだ。
三里先に見える一際大きな双丘を改造した砦に籠もっているようなのだ。だが、本能が危険を告げている。しかし、ここで止まっていても埒があかない。最大限の注意を払って進むしかない。
おかしい。どれだけ進んでも全く進んでいない。東へ進もうと西へ進もうと全く同じ景色が広がるだけだ。加えて頻繁に出していた斥候が一人も帰って来なくなった。既に三日もこの原野に閉じ込められている。初めは和やかに見えた草木がまるで悪魔の腕の如く歪んで捻れているような錯覚に陥る。
ゴロ自らが百騎を率いて偵察に出ることになった。だが、収穫は全くと言っていいほど無かった。砦は目の前に見えているのに近づくことすらできない。進めば進むほど感覚が狂わせられている感じだ。気を抜けば自分達の位置すら見失いそうになる。
丘の向こうが少し揺れた気がした。駆け登る。頂上まで登り切った。違和感。無数の影が地を覆う。矢だ。裾に敵兵がいた。五十ほどで原野に馴染む地味な武具を身につけている。咄嗟の判断で丘を下る。重力がただでさえ速い騎馬の速さを増す。矢が後方に突き立つ音が聞こえた時には敵の中に突っ込んでいた。剣を抜き二人を瞬時に斬り殺す。ゴロの動きは敵には想定外のもので防御を組ませる隙すら与えず半数以上を倒していた。しかし、敵もまた精鋭だ。崩されたものの小さく纏まり伍を組んで迅速に撤退する。
深追いは危険だ。ゴロは馬を返した。
ゴロが戻った時、アキバツは木にもたれて眠っていた。その膝ではサイカが頭を預けている。近づくとサイカがばっと起き上がった。
「ゴロ殿。申し訳ございません。」
サイカはバツが悪そうにもじもじと居住まいを正した。
「イヤ、起こしてしまってすまない。」
ここは敵の術中そのものだ。いつ奇襲を受けてもおかしくないため、サイカの隊は日中夜問わず丸二日見張りを立てていた。兵達は半分ずつ眠れるが、サイカは不眠不休で指揮をしていた。
「偵察の結果だが迷路だけでなくここは罠も満載のようだ。一つ一つは単純なものだが、それが複雑に絡み合い絶妙に作用し合っている。」
「そうですか。ではやはり一つ一つを虱潰しに攻略して行くしかないですね。」
「その必要は無い。」
肌に粟がたった。空が落ちてきたような重圧がのしかかってきた。
「リーダー起きてたの?」
ゴロは体の震えを抑えながら、何とか声にそれを出さずに聞いた。
「ああ、今起きた。」
目が燃えるように輝いている。首を鳴らした。
「さぁ戦を始めよう。」
情報が次々と入ってくる。偵察に出した騎馬隊のほとんどが相当の被害を受けて帰ってきた。むしろ被害をゼロに抑えたサイカとゴロは流石としか言いようがない。受けた被害は百に上る。地から槍が飛び出し、丘から大岩が落ちてくる。弓兵が突如現れたと思えば大量の矢を射掛けて霞の如く消える。この繰り返しだ。もはや疑いようもない。ショウリョウらはこの原野に閉じ込められたようだ。無闇にぶつかって兵を減らす必要はない。最精鋭であるアキバツ軍をじわじわとすり減らしにきたのだ。ここまで自軍を評価してくれているのが敵国だというのは何とも皮肉が効いている。
アキバツは体の奥底から愉悦が湧き上がってくるのを感じた。朝廷の阿保どもの陰湿な権謀術数ではない、清々しいまでに爽快な命のやり取り。
手頃な石を拾いガリガリと地面に何かを描き始めた。
「リーダー?」
ゴロの疑問の声などもはや耳に入らなかった。兵からもたらされる地理、風向き、影の差し方。脳の奥底から溶岩の如く溢れ出してくる。それを少しでも逃すまいと腕を高速で動かす。初めは不思議そうに眺めていた兵達の声が感嘆へと変わる。なんと地面に精巧な地図が出来上がっているのだ。それもただ地形を正確に描写しているだけではない。起伏から草木の長さ、丘の高さまでがまるで自分で見てきたかのように鮮やかに地面に広がっている。
「なるほどな。」
アキバツの顔から不敵な笑みが零れる。この迷宮の絡繰の全貌が分かった。名将クルマユの策略も。周りの将校らがおずおずと質問しようとするのを尻目にアキバツは馬に乗り駆け出した。
しばらく並足で駆けさせているとサイカやゴロが追いついてきた。
「サイカ。ゴロ。俺に遅れずについてこい。」
ゴロもサイカも一言の質問も吐かず静かに頷いた。アキバツは普段は部下の言葉によく耳を傾けて、それを尊重するが、こと戦場に於いてはショウリョウの命令は絶対でありそこに疑問を挟むことは許されない。最もアキバツに信仰の念すら抱くサイカやゴロはその行動を疑うなど絶対にない。ただし、盲目的なのではない。これまでアキバツがしてきたことに誤りだったことが一切ない。常に清く、常に正しく、常に献身的で仲間のために動く。それがショウリョウという男なのだ。
サイカもゴロも喜びを抑えきれずにいた。背筋からゾクゾクしたものが這い上がってくる。英雄が戻ってきた。立ち昇る気は炎の如く燃え上がり、目は視界に映る全てを燃やし尽くさんとばかりに輝いている。そこに一点の曇りもない。
迷宮を俯瞰できる位置に五百が並んでいた。それを指揮しているのはまだ二十五にも届いていない青年である。名をマハルという。若いながらもクルマユに見出され地方軍から近衛軍へと異例の大抜擢をされた。
クルマユからアキバツ軍の撃滅を命じられたマハルにとって到底信じられる光景では無かった。ショウリョウは時には軍を蛇行させ、伏兵が潜んでいると疑って然るべき隘路を悠然と通り、切り立った崖へと真っ直ぐ進む。まるで稚児が戯れに動かしているようだ。初めはクルマユが心血を注ぎ創り上げた迷宮への絶望で気が狂ったのではないかと部下達は笑っていたのだが、次第に顔色が変わってきた。罠を全て避けている。伏兵、油、岩雪崩。その全てを事前に回避しているのだ。信じられない。汗が滝のように流れ出てくる。見えているのか。決して見えるはずのない罠たちが。
部下たちに矢継ぎ早に指示を出す。しかし、ショウリョウらの動きが速すぎる。全く追いつけない。そうこうしているうちに第八段の罠が突破された。残るは一段だけだ。ここを抜かれたら迷宮を脱出される。マハルは体が震えてくるのを何とか抑え、平静を装った。想定外の事態に直面しても指揮官が部下に動揺する姿を見せてはいけないとのクルマユの言葉を思い出したからだ。何度か深呼吸をして迷宮に潜んでいる兵達に指示を送る。撤退だ。
最後の罠が破られた。次々と迷宮を抜けてくる。ここで無理に迎撃する必要は無い。砦の周りにも罠を仕掛けているのだ。部隊を順次砦に帰還させた。
砦に入った。結局、アキバツは追ってこようとはしなかった。原野から三里ほど隔てた、東西に走る川のほとりに砦を築いていた。砦といっても輜重を倒して繋ぎ、逆茂木と馬抗柵を点々と配置しただけの簡易なものだ。しかし、周囲から木材を次々と切り出し防御線を強化していっている。もう少しすれば立派な要塞、出撃拠点となるはずだ。ショウリョウは早急に砦を攻め落とす気はないらしく何度か出撃しては弓を浴びせて帰るだけだ。腰を据えるつもりだろう。
アキバツの攻めはよく言えば堅実で、悪く言えば平凡だ。判断は早いがこちらを驚かすような動きは何もなくただただ犠牲が出ないよう小狡く立ち回っているだけのようにすら思えた。戦の指揮には率いている者の性格が出る。アキバツは大した武人ではない。それに比べてクルマユの戦略は大胆だった。砦を築いてがっしりとヨルムンド帝国軍を迎え撃つと見せかけて三万だけを砦に留め、残り五万全軍での禁軍二十万への奇襲を目論んでいるのだ。戦は数が多いければ多いほど有利とついつい人は考えてしまうが実際はそうではない。堕落しきった禁軍と名将クルマユが鍛えた最精鋭とでは戦力の格が違う。それに大軍は太った大人のようなものでたっぷりとついた脂肪が邪魔をして素早く動くことが出来ず、また一度転べば立ち上がることは非常に困難となる。忍ばせた間者達によると禁軍内では複数の派閥が此度の戦の手柄を競って陰湿な争いが繰り広げられているようだ。指揮系統が渾然として、乱れきっているといっていい。そこに奇襲を受けたら間違いなく、成す術もなく崩れ散る。マハルはこの戦略をクルマユ本人の口から聞いた時鳥肌がいつまでも治らなかったのを覚えている。どこまで読んでいるのか。キンリョウ国の国境を守り続けて数十年。既に老境に差し掛かっているはずだが未だ鋭さを失ってはおらず、それどころかさらに増している気配すらある。しかし、マハルが唯一納得できなかったのが一万に満たないアキバツ軍のために三万もの軍勢が割かれたことだ。クルマユの戦略を見抜けず、愚直に用意された囮を攻め続けるアキバツはただの阿呆にすら思えてくる。その面でもやはりアキバツは凡愚だ。クルマユにしてはやや用心深すぎたようだ。
双方に大した被害は出ていない。だが、サイカに指揮官を二人射抜かれた。サイカの弓は凄まじく、矢が届かないであろう位置から指揮を取っていた指揮官を容易く仕留めてしまった。実に厄介だ。指揮もあざかやで引き際も見事だ。
それからもたびたびアキバツは攻め寄せてきた。攻撃するたびに少しずつ、犠牲が出ないように罠を潰して行く。
堀に木を渡し、逆茂木には縄をかけて引き抜く。サイカの弓を警戒して指揮官はあまり前に出られないため、迅速に移動するアキバツを捉えきれない。
連日続く攻撃にマハルは苛立ちを抑えられないでいた。守備側でありながら敵より多くの損害が出ている。微々たるものだがいずれ無視できない数になる。奇襲をかけて一思いに潰して置きたい。何より一万にも満たない軍にちょこまかと動き回られ、傷をつけられ続けるのはマハルにとって屈辱であった。アキバツなどという匹夫などさっさと片付けてクルマユと合流したかった。
今ならばまだ戦に参加できるかもしれない。
「おい。」
マハルは側にいる副官に目配せをした。
「はっ、既に整っております。」
よく気が回る副官だった。しかし、その周到さが今は癇に障った。
月は雲の帷に隠れ、辺りを暗闇が濡らしている。おまけに雨がシトシトと降り注いでいる。奇襲にはうってつけの夜である。暗闇に溶け込んだ二万が整然と馬を走らせ軍靴を鳴らしている。しかし、アキバツらに迫る死の足音は雨音が洗い流してしまっていた。マハルは同士討ちを避けるために味方には白い布を肩にかけさせていた。二万もの大群で砦を完全に包囲し殲滅する。そのために大軍を動員したのだ。
アキバツは夜襲の警戒もしていないのか篝火は点々としか配置されておらず見張りの兵も僅かだった。斥候によるとアキバツは一際大きな幕舎を建て、眠りは受けているのだそうだ。浅はかだ。軍略の全てが。退路を塞いでしまう川の側に陣営を敷いたのもそうだ。川が防御の役割を担うとでも思っていたのか。やはり、恐るるに足りない凡愚だった。迷宮を抜け出したのもただの偶然だろう。マハルのアキバツに対する侮りと蔑みは最早頂点に達していた。
「始めるぞ。」
マハルは唇をほとんど動かさず言った。この話し方は呟くよりも遥かに聴き取りにくい。だが、副官は確かに聞き取ったようだ。部下に矢継ぎ早に指示を出す。火矢が大量に射込まれた。煌々と輝く炎が空を昼間の如く照らす。陣営は大混乱に陥っているようだ。悲鳴が夜にこだましている。
マハルは剣を頭上で一度振り回し、突撃した。突然の奇襲に身動きすら取れずにいる見張りを二人同時に斬り殺し陣営に躍り込んだ。砦は既に壊滅状態だ。火矢で天幕はほとんど燃えている。しかし、どこかが変だった。兵の姿が全く見当たらない。砦も中から見るとまるでハリボテのように見た目だけを取り繕った粗末な作りだった。
「隊長!これを。」
兵の一人が先程マハルが切った敵兵を指さす。
「これは…」
正確に言えば兵ではなかった。木の棒を筵で巻き、鎧を着せただけのカカシであった。それも偽造を見破られにくいように、ご丁寧に風で少し靡く程度に固定されていた。夜目からはまるで動いているかのように見えたわけだ。
嵌められた。その事実を飲み込むまでにマハルは数秒を要した。いつのまに移動したのか。アキバツがここにいないのなら一体どこへ消えた?
さあっと冷たい汗が流れ出てくる。
「まさか…」
マハルの頭に最悪の想定が浮かんだ。いや、あるはずがない。そんなはずがない。しかし、嫌な想像はますます重さを増していった。いいように弄ばれ、コケにされたことへの憤怒が背中をチクチクと焦がすほどの焦燥へと変わっていく。
「まさか…」
今一度呟いていた。
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