第4話

冷たく、重苦しい汚泥のような闇が体に纏わりつく。ここはどこだ。子供の姿のアキバツはしばし、辺りを見渡した。雲のように移ろい、流れゆく暗闇が視界を支配する。自分はここに来たことがあるのかもしれない。何となくそんな気がした。

 しばらく唖然としていると前方に立ち込めていた帳が開き、道が開けた。歩き出す。

 どこへ向かうのかはわからないが、足が勝手に動いていた。

 しばらく、歩き続けた。進むにつれて道が狭まってくる。周囲の壁が迫ってきているのだ。

 それだけではない。踏みしめていた地面が、辺りの闇と同じようにふわふわと頼りないものへと変わっていく。進むたびに足が取られる。道はいよいよ細まり、腹と背中を壁に擦り合わせ、蟹のように進んでいく。前方に光が射した。どうやらこの名もなき迷宮の出口が見えてきたらしい。

 何者かが手招きをしていた。光のせいで顔はわからないが何やらとても嬉しそうで、飛び上がらんばかりに手首を前後に返している。

  そのような歓喜に満ち溢れた人物とは裏腹に、アキバツの額からは冷や汗が流れてきた。進みづらい行程のせいではない。ここから先は進んではならないと無意識に警告しているのだ。

 引き返そう。しかし、足は勝手に前へ前へと進んでいく。

 やめろ。やめるんだ。とまれ。止まってくれ。だが、歩みはいよいよ速くなっていく。

 人物の姿が次第に輪郭を結んでいく。いや、正確には人物ではなかった。耳も鼻も無いのっぺりした顔に、狡猾さを体現した細い切れ目が人間で言うところの眉毛にまで伸びている。口は歪な三日月で尖った両端が繋がりそうなほどしなっている。笑っているのだ。この上なく愉快そうに。

 ショウリョウは背筋から底知れない恐怖が這い上がってくるのを感じた。これは外的な恐怖ではない。もっと内側から湧き上がってくる根本的な深淵だ。これは死なのだろう。

 死の概念そのものか、はたまた死の恐怖なのかはわからない。しかし、死の名を冠する何かであることだけは確かだ。

 顔を背けようと首を回す。しかし、心とは裏腹に目は恐怖の対象を追っていた。手が伸びてくる。死に備わっているものだけでは無い。後ろの光から無数の手が伸びてくる。子供のように小さな手も有れば、老人のようにしわがれた手もあった。全部が一様に青白い。無数の手がショウリョウの体を羽交い締めにする。対抗しようにも体が全く動かなかった。まるで死者の手が生の力を全て吸い取ってしまったかのように。助けを求めようと叫び声を上げた。しかし、実際に出てきたのは蚊のようにか細いうめきだけであった。構わず叫び続けようとすると口の中に闇が流れ込んできた。あっという間に肺の中いっぱいに充満する。

 苦しい。息ができない。目の前に光が迫ってくる。自分は死ぬのだろうか。死ぬ覚悟はとうの昔にできていたはずなのに、深い絶望が理性に穴を開ける。視界が白くなった。




  叫び声をあげていた。続けて空から落下する感覚が襲ってくる。しばし、自分の居場所がわからなくなった。

 寝台から落下したらしい。滝のように汗をかいていた。そばに備え付けられた水筒を顔の上に翳し、ひっくり返し水を飲んだ。ごくごくと喉を鳴らして飲んでいるうちに現状を思い出してきた。ここは軍中だ。ガテイを総大将とするガテイはエン城に三万の兵を残し、キンリョウ国の最重要商業都市の一つに向けて進軍を開始したのだ。


 「アキバツ様。お目覚めですか?」

 セシリアが軍袍を持って入ってくる。毎日、丁寧に縫って持ってきてくれる軍袍は体に吸い付くようにピッタリと丁度いい大きさで、戦いやすい仕様になっている。

 「ああ、おはよう。セシリア。」

 アキバツは動揺を悟られぬよう、平静を装って微笑みかける。しかし、背中に流れる冷たい汗は未だ止まなかった。夢は古来より神や悪魔などの超自然的な存在からのお告げであるとされ、見たものの未来を決定づける避けられぬ運命を写していると考えられてきた。ならば、俺は死神から魂を攫う予告をされたというわけか。

 普段なら馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばしていたかも知れないが、此度の北伐は何やら絡みつくような嫌な予感が消えなかった。まるで崩れかかった橋の上を一心に走っているように、いずれ破滅を避けられぬ結末が待っているような気がしてならないのだ。


  「あの…どうかなされましたか?」

 そんなアキバツの恐怖を感じ取ったのだろうか。セシリアが心配そうに尋ねてくる。何でもお見通しというわけか。

 アキバツは頬が緩むのを感じた。セシリアと共にいると心に安らぎが生まれる。セシリアだけでは無い。戦友とも言える血の繋がっていない兄弟たちと同じ場所にいるだけで救われているような気がする。しかし、最近では心の奥底で温かい繋がりを億劫に感じる自分がいる。それがたまらなく恐ろしく、嫌だった。


  「いや、何でもない。」

 アキバツは腹の中で暴れ回る弱音を腹の中で押さえて、出来るだけ自然な微笑みを返した。

  アキバツが抱えている弱音を他の者に知られることがあってはならない。俺は皆んなを守らなければならない立場なのだから。

どれだけ怖くとも、自分一人で抱えて心の奥底に封じ込めていなければならない。


  しかし、セシリアはとても悲しそうな顔をした。

 アキバツはそれから背くように顔を逸らし、無言で退出を促した。これ以上進むと何かが爆弾のように弾けてしまうと感じたからだ。 






 ガテイ率いる禁軍十二万は亀の如くゆったりと進みながら戦略通りに城を落としていった。たいした戦もなく大軍を目にしただけで次々と敵が降伏しているのだ。

 しかし、稀に頑強に抵抗を示す者たちもいた。そういった者たちとの戦には必ずアキバツ軍が当てられた。

 アキバツ軍が敵を十分に乱してから、本軍が数の利を持ってすり潰す。いくら小競り合いに近い戦だったとしても向こうは死に物狂いの抵抗をしてくるため初撃を受け止める先鋒はそれ相応の損害を受ける。


 騎馬で撹乱しつつ勢いをいなして攻撃していけば、損害も少ないのだがいかんせん味方の行動が遅すぎて、こちらの速度に全く付いて来れない。そのため敵の殲滅には至らない。

 将軍たちはアキバツ軍の騎馬攻撃を手柄に逸った独断専行と見做し、これを禁じ、次やったら軍規違反で処刑するとさえ宣う始末であった。結局アキバツ軍は歩兵で敵の圧力を諸に受け止めざるを得なくなり、犠牲は増すばかりであった。対する禁軍は全くの無傷だ。

 戦で使い捨てのような扱いをされることは覚悟していたため、今更何とも思わないがアキバツの軍を背後から突くようにして敵にぶつかっていくため、一応の味方に踏み潰され、圧死する者たちもいたり背後からアキバツ達ごと矢を射掛けてくることにゴロは我慢ならなかった。

 敵に殺されず、無能な味方たちに殺される仲間たちの無念を思うと悔しさのあまり胸が張り裂けそうになる。

 何度抗議しても聞く耳持たず繰り返されたため、ついにはサイカと共にそれを指揮していた隊長を五人ほど斬って晒した。当然ガテイらは怒り、陣営は騒然となったがセシリアとショウリョウがうまく収めてくれた。

 この時、ガテイらはサイカとゴロの身柄の受け渡しを求めたがアキバツは突っぱね、逆に矢を射掛けるよう指示していた将軍二人の首を刎ね、道理を以って一喝するとこれまで罵倒を繰り返していた他の将軍達は口を噤んだようだった。

  一応表面上は向こうが非を認めた形となったが、陰湿な攻撃は続いている。一々挙げていくとキリがないが、その最たるものは兵糧の横流しである。

 本営から支給される兵糧は二千の兵をようやく食わされるかどうかといったものだった。質もかなり悪いが、支給されるだけまだマシで酷い時は届かない時もあるのだ。

 だが、同じようなことは以前もあったので対策は講じてある。

  それは、塩の道である。

 塩は人体が生きる上で必ず必要な物である。ヨルムンド帝国は財源確保のためにそれを国の専売品とした。質の良い塩は国や軍が率先して持っていき、民衆は低品質な塩を高価格で買わなくてはならなかった。そのため塩の密造、販売を行う塩賊が横行した。

 アキバツ軍はその闇塩のルートをいくつか持っている。良質な塩を民に国の物よりも遥かに安い値段で売るのだ。得た金の大部分は民に配っているが、それでも上がる利益は莫大なものとなる。

  これによりアキバツ軍は自らの装備や兵糧を買うことができ、半ば独立を保つことができるのだ。

 当然国は闇塩を厳しく取り締まったが、セシリアが築き上げた塩の道は複雑を極め、その尻尾すら掴めずにいる。

 ゴロにも詳しいことは何一つ分かってはいない。


 ついに敵の近衛軍八万が出撃したとの情報がもたらされた。その移動速度はこちらが想定したよりも速く既に緩やかな丘陵が連なる原野に腰を据えて砦を築いているようだ。真っ向から迎え撃つ腹だろうか。数の上ではこちらが勝っているが、ここは敵地であり草木の一本に至るまで向こうの味方となる。それに兵の練度が段違いと言っていい。近衛軍が精強というのもあるが禁軍が脆弱すぎるのもある。通常の軍が三日で行軍する距離に十日かけ、五日分の兵糧を一日で食い潰す。禁軍の腐敗ぶりは目を覆いたくなるほどだ。

 だが、それだけでは無い。どうもおかしい。城が簡単に落ちすぎる。テンイやジンビらは大軍の圧に屈しているのだと楽観視しているのだが、あの守りの名将クルマユがその程度の軍を要所に配置しておくはずがない。これは罠だ。確信に近いものが巡る。だが、その内容までは見抜けないが罠であることは間違いない。

 アキバツは己の考えの深さと粘り強さが以前に比べて天と地ほどの開きが生じていることを自覚せざるを得なかった。澄み渡っていた頭の中は鬱々とした霧の覆われ、思考が常に妨げられているのだ。


  「なぁ、どう思う?」

 ショウリョウはハラムに尋ねた。

 傍らにいた青髪の少女は腕を突き出し、凛々しく告げる。

 「深淵の闇が我を翹望す。」

 「えっと「城が簡単に落ちすぎている。十中八九、こちらを引き込むための罠だと思います。」だそうです。」

 アキバツとの同じ考えだ。ハラムは良いところに目をつける。

 翻訳したのは兄のハラルだ。二人は双子の兄弟で共に歩兵を率いている。兄のハラルは驚くほど粘り強く相手を締め付ける守りを得意とするが妹のハラムは対照的に苛烈で迅速な攻めを得意とする。互いが互いに足りないものを補い合って、連携の取れた戦をする。

 「晩鐘が終末を告げし時、悪魔の産声が天に満ちる。」

 「「仕掛けて来るとしたら我らが敵地に深く踏み込んだ時。」だそうです。」

  アキバツの考えと一致している。ハラムは言葉こそ難解だが考えは驚くほど理に適っている。

 「ハラル、夜別抄をモカ平原に飛ばせ。」

  ハラルが一瞬意外そうな顔をしたがすぐに納得したように数回頷いた。

  「数は?」

 「千有れば十分だ。」

 「わかりました。ツクヨミを呼んでおきます。」

  ハラルはハラムを連れてかけていった。






 「貴様らは先鋒で先に進発してもらう。」

 陣営に呼び出されたアキバツは一方的に告げられた。

 後一日で敵とぶつかろうとする時だ。周りの将軍らは死刑宣告を告げたようにニヤニヤと笑っており、ジンビやスルガイなどは思いっきり吹き出している。

 精鋭八万にアキバツ軍一万をぶつけて、敵が疲弊したところを大軍で押しつぶす腹だろう。その姦計にショウリョウ達の犠牲は考慮されていない。恐らく全滅するまで何の手出しもしない。

  ここまでするか。アキバツはもはや何度目か分からぬ失望を味わっていた。

 国は俺を必要としていない。それどころか殺そうとすらしてくる。

 アキバツは無言で頭を下げて幕舎を出た。

 月が赤い。見上げると真紅に染まった月が広大な大地を濡らしていた。怪しいがとても美しい景色だ。

 しかし、気持ちは全く晴れなかった。

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