第2話
空が高い。鳥が群れをなし南へと去って行く。麦秋が過ぎて黄金色の輝きを放っていた畑は既に空空とした地面を剥き出しにしている。
「それにしても遅すぎます。一体禁軍は何をしているのでしょうか。」
サイカが隣の床几に腰を下ろした。
艶やかな黒髪に、彫りの深い涼しげな顔立ち。目は鷹の如く鋭い。
それがまたサイカの非凡な容姿に一段と美しさを加えているのだが、美醜の基準が未だ整わぬ子供達には怖く感じるらしく顔を合わせただけで泣かれることもあるらしく本人は気にしている。
容姿だけを見れば、都でもそうそう見かけない可憐なる少女に違いないが、軍中で並ぶことなき射手であり騎射部隊を率いる大隊長である。
「そう言うな、サイカ。これも予想していたことではないか。」
心底疲れ切ったアキバツの声は澄んだ秋の空気に溶け消えてしまいそうなほど小さかった。
アキバツは右手でキセルを燻らせ、煙を空に向かって吐き出した。
アキバツが進軍して最初に下された命令は今回の侵攻で妨げとなるキンリョウ国の要所であるエン城を奪取せよといったものであった。
アキバツは予想されていたよりもはるかに早く、少ない戦力で城を落とした。
まずは囮を使って城内の敵を外に引き出した。
そして、三段に構えた騎馬と歩兵の部隊を側面からぶつけて、軍勢を徹底的に打ち破り北へと敗走させ、城内に残った勢力を駆逐した。
民達の混乱を鎮め、四十万万の禁軍を受け入れる形を整えた。
しかし、城を落としてからもう二十日余りが過ぎようとしているのに友軍はいっこうに到着しなかった。
何度も伝令を送っているがその度に返ってくるのは待機の一言だった。
アキバツの軍はヨルムンド帝国で最も精強な軍の一つであるが総勢は僅か一万に過ぎない。
対してキンリョウ国は最大三十万を動員できる。
エン城は現在、敵領土の中に孤立している形で支援など一切無い。
幸い今のところ城の奪還に動いた敵は全て追い払っているがいつまでもこの状況が続くわけではない。
もしこの拠点を失えば今回の北伐で描いている戦略は全て無に帰す。
むしろ廷臣どもはそれを望んでいるのかもしれない。
アキバツは奴隷と変わらない最下層の身分でありながら着実に功を立て、ついには歴史上最年少で将軍の位に立った。
しかし、それは同時に名門を鼻にかけているもの、出世が遅いもの達からの嫉妬を買い、禁軍にいた頃から裏で陰湿な迫害を受けた。
武器や兵糧が届かないことなどしょっちゅうで、もし届いたとしても腐っていたり欠けているものが多かった。
戦場でも常に前線に立たされた。後方支援の名目で送られてきた味方は遥か二里の辺りで陣取るだけで援護をする気など一切無く、あまつさえ交戦中に後ろから矢が飛んでくることも少なくなかった。
「サイカ、兵達は弛んでおらぬだろうな?」
長きにわたる対峙の上で最も注意せねばならないことは兵達の緊張がほぐれることだ。たとえ大勢がそうでなくても、ほんの一部が戦場にいることを忘れると軍全体が一気に緩んでしまう。
「ご心配なく主人殿。連日連夜、ゴロ殿と代わる代わる平時よりも厳しい調練を課しておりますゆえ。」
もちろん、怪我をせぬ範囲で。サイカは笑いながら付け加えた。
そして、おもむろに立ち上がり空に向けて弓を番えた。
一度大きな音が空に響く。影が落ちてきた。鳥だ。3羽いる。全て心臓を射抜かれている。
ショウリョウは空を見上げた。到底矢が届きそうにない遥か上に揺蕩う、赤く染まった雲の中に僅かな黒点が動き回っている。あれを一瞥しただけで射抜いたのだ。それも一呼吸に三矢も。
「今晩の夕食にしましょう。」
サイカは仕留めた獲物の首を掴み、嬉しそうに飛び跳ねている。
「そうだな。そろそろ兵糧にも飽きてきたころだ。」
サイカが何かを期待する眼差しでこちらを見ていた。サイカが何を求めているかは分かっていたが今は戦以外のところで手を少し動かすのも億劫だった。アキバツは面倒臭い気持ちをサイカに抱いたことに驚いた。これまで腐った廷臣や将軍達にこのような思いを抱いたことはあったが仲間に対して抱いたことはなかった。心がどんどん腐っていっているのか。不意に恐ろしくなった。このままでは廃人のようになってしまうのではないか。
しかし、湧き上がる恐怖に気付かぬふりをしてキセルを吹かす。
サイカは頬を膨らませ、それからしきりにショウリョウの周りをぴょこぴょこと動き回った。
それでも知らぬ顔をする。
次第にサイカの表情が暗くなる。目が潤み端に涙が溜まっている。とても悲しそうだ。
アキバツは居た堪れなくなり、しかし億劫である気持ちからの脱却が出来ずサイカの頭を乱雑に撫でた。たが、サイカはとても嬉しそうだった。
「よくやった、サイカ。ありがとう。」
サイカの顔がぱあっと明るくなる。
「お喜び頂けて何よりです。」
サイカは大人びた、冷血な少女に見えるがその性格は一見して抱く印象と全く異なり、とても明るくて表情豊かだ。
それからも暫く頭を撫でてやった。サイカは気持ちよさそうに目を細め、もっと撫でてくれと、ぐいぐい頭を押し付けてきた。
そして、気づけばアキバツの腰に手を回してギュッと抱きついていた。
これは流石にまずいと、引き離そうとしたが中々離れない。そうこうしているう内に、業務連絡に来たセシリアに見つかってしまった。
こちらが必死に仕事をしている間にアキバツ様は何をなさっているのか、と言葉にはしないが心に刺さる無言の痛罵が投げかけられた。
「なぁ、セシリア。いい加減、もう機嫌を直してくれないか?」
「…ぷい。」
腕を豊満な胸の前で組み、頬を膨らませてそっぽを向く。
「せめてこちらを向いてくれないか?」
「…ぷい。」
とりつく島もないとはまさにこのことだ。
「セシリア殿は何故そんなにも怒っておられるのですか?」
当の原因であるサイカは、アキバツの苦労をつゆとも知らず上機嫌に、枝に刺した鳥をくるくる回している。
羽を毟って香辛料をたっぷりと擦り込んだ鳥を焚き火から少し離れたところで、じっくり焼くことによって表面が焦げず中まで熱が通るのだ。
肉から滴り落ちる油が焚き火に落ちて、ジュウジュウと音を発し、いい匂いがあたり一面に広がる。
「リーダーはサイカとイチャイチャしてセシリアを怒らせたんだろ?」
副官のゴロは呆れたように首を左右に振った。つい先程まで兵達の調練をしていたため体中埃まみれだ。
「…別に怒ってなんかいません…ぷい。」
ショウリョウが困り果てているとゴロから手招きされていることに気づき、近寄った。
すると、ゴロは両手を口に添えて指を外の方へ向けた。
耳を貸せと言うことらしい。
「まったく、今回はリーダーが悪い。」
ぐうの音も出ない正論である。
「すまない。俺はどうすればよいのだ?」
ゴロは呆れを通り越して衝撃を受けた。
戦においては天下無双。その智略、謀略は神の如し。度量の器は海を呑み込むとまで謳われる不世出の傑物は女心も無論心得ていたはずだ。燦然と輝く瞳に惹かれぬ女などおらず、求婚する者達は列を成した。それが今やセシリアの心情すら解さないとは。アキバツは変わってしまった。自信が燃えるような色となって表れていた瞳は光を失い、沈むように濁っていた。今もセシリアの機嫌を取ろうとしているのは単に戦をやるのに支障が出るからであろう。あれほど優しかったアキバツからは想像もできなかったり態度だ。
痛ましい。しかし、そうなった原因が自分達にあることを
ゴロは痛いほどわかっていた。
英雄は死んだのか。ゴロは溢れそうになる悲しみを抑え、アキバツに現状の最善手を耳打ちした。
「本当にそんなのでいいのか?」
アキバツは驚いたように何度も聞いてくる。
「間違いない。セシリアは案外チョロ…純朴で優しいから。」
「さらに事態を悪化させたりはしないか?」
この男。セシリアが怒っている理由を明らかに、根本的に履き違えている。
ゴロはさっさとやれとアキバツの腿を蹴飛ばした。
ショウリョウはあろうことか副官の容赦なき不意打ちによろめきつつ覚悟を決め、歩み寄った。
「あーセシリア。」
「何でしょ…」
セシリアの言葉は途中で中断された。アキバツがセシリアを抱きしめたからだ。
セシリアの顔が耳まで、みるみると赤くなり湯気が噴き出す。視界の外でサイカが立ち上がる姿が見えたがそれを脳内で処理することはできなかった。
頭の中が真っ白になった。高鳴る鼓動で胸が破裂しそうだ。それでも奥底から温かな幸せが溢れ出てきて、先程まで抱いていた感情が嘘のように消えていく。
「ア、アキバツ様。いいいい、いきなり、な、何を。」
「すまない、やはり嫌だったのか?」
アキバツは急いで離れようとしたが、無意識の内に背中に回していた腕が驚くほど力強く、それを許さなかった。
「い、いえ、あの…も、もし許されのであればもう少しこうしていてよろしいでしょうか?」
「うむ。勿論だ。」
セシリアは自然と溢れる蕩けた表情を隠そうともせず、ただひたすら今感じている幸せを噛み締めた。
ゴロは和やかになった雰囲気に一安心し、焼けた鳥を手に取りかぶりついた。
「あーっ、ずるいですよ。主人殿、私も私も。」
雰囲気が一瞬でぶち壊れた。
これ以上は我慢できないとサイカが後ろから抱きついたのだ。
ゴロは口の中のものを盛大に吹き出してしまった。
再び先ほどのような、いや先ほどとは比べ物にならならいほどの冷たい空気が流れ出す。
セシリアはムッとして、対抗の意を込めてさらに腕に力を入れる。
「お前たちもう少し力を緩めて…。」
だが、負けられない女の戦いを繰り広げている二人の耳に、たとえアキバツの言葉であっても入るはずがない。
「ゴ、ゴロ。」
アキバツは助けを求めてくる。
「もう、知らない。」
自分まで巻き込まれてたまるかと鶏肉を片手にスタコラと退散してしまった。
二人の美女に抱きつかれたアキバツは去っていく副官の背中に、ただひたすらその名を呼び続けたのだった。
しかし、その様子は楽しそうだった。子供のように無邪気に笑っている。
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